第1話 魔草研究者と呪いの魔法陣
地下深くに広がる古代遺跡――ダンジョンの最奥。
鉄の臭いと、腐った魔力の淀みが満ちていた。
石畳の広間に刻まれた巨大な魔法陣。血に濡れた刻印が、紅から黒へ、黒から深紫へと脈動している。その奥の祭壇には、四肢を『黒呪の杭』で縫い付けられ、喉を裂かれた巨大な生物――SSランク稀少魔獣、レッドドラゴンの姿があった。
「……ついに、この時が来た」
『闇の魔導士』は、老いさらばえた手で聖剣を握りしめ、贄の血で満たされた魔法陣を見下ろした。背後に跪く十数人の『使徒』が、低く呪詛を唱和する。恐れからではなく、悦びをもって。
「贄の血は満ちた。さらばだ、老いた肉体よ!」
狂笑とともに、聖剣が自らの心臓へと突き立てられた。
ドスッ――。
老人の肉体が崩れ落ちる。その口から黒い霧が滲み出し、まるで抜け殻を脱ぎ捨てるように宙へと昇った。霧は迷わず魔法陣の中央へ向かうと、宙に浮く銀のペンダントを取り込み、人の輪郭を結ぶ。次の瞬間、使徒の一人がわずかに震え、ゆっくりと顔を上げた。
『……まずは成功だな、ペトロ』
黒い霧から発せられた声は、老人のそれより低く、若かった。
「はい。これで『時間』は貴方様を縛ることは出来なくなりました」
恍惚とした表情で頭を垂れるペトロを、霊体となった魔導士は一瞥もしなかった。瀕死のドラゴンにも、視線すら向けない。道具として機能した。それで十分だった。
魔導士は天井の闇へと溶けるように消え、残された使徒たちもまた、霧となって消え失せる。
後に残されたのは、静寂と死臭。そして、儀式の道具として使い潰された、哀れな竜のみであった。
(……許サヌ……人間ドモ……ッ)
竜の瞳から光が失われていく。
その時だった。
カツ、カツ、カツ……。
規則正しい革靴の音が、遠くから響いてきた。
現れたのは、くたびれたコートを羽織り、年季の入った汚れた丸メガネ――いかにも学者風の男だった。
「……今日はやけに魔草たちが活発だなとは思ったけど、理由はこれか……魔力の残滓がとてつもなく濃い」
彼の手には革製のトランクケース、背にはいくつものポケットがついた大きなリュックを背負っていた。
「これは……レッドドラゴンか?……SSランクがひどい有様だ。儀式跡……生贄か」
その男――川場アキラは、膝をつき、凄惨な儀式跡の魔法陣に指を這わせた。
貴重な魔獣が粗雑に扱われたことを嘆く学者の顔が、眉をひそめる。
「グオオオオオオオオオッ!!」
その時、瀕死のはずの竜が咆哮した。
人間への憎悪、殺意。
最後の生命力を燃やし、アキラを道連れにせんと、鋭い牙が並ぶ巨大な顎が迫る。
その風圧だけでアキラのコートが激しく舞い上がる。
熟練の戦闘魔導士でさえ、防御障壁を展開して後退する場面だった。
だが、アキラは杖すら抜かず、ドラゴンを一瞥した。
(……何故……恐れない……?)
意識が、遠くなる――
アキラは表情一つ変えず、上着の胸ポケットから真鍮製のアンティークの霧吹きを取り出した。
「まだ生きてるなら、助けてあげるよ。ちょっと静かにしてて」
シュッ。
ドラゴンの鼻先で、紫色の微細な粒子が一吹きされた。
甘く、濃厚で、脳髄を痺れさせるような芳香が瞬時に広がる。
「生き物は専門外だけど、勉強してるから大丈夫、安心して」
アキラはドラゴンの金色の目を見ながら、恐れも哀れみもない目で見つめた。
「……グ、ア?」
ドラゴンの巨大な体躯が、空中でピタリと硬直する。
見開かれた瞳孔が急速に収縮し、鋼鉄のような筋肉が泥のように弛緩していく。
ズウゥゥゥン――!!
地響きと共に、竜はその場に崩れ落ちた。
白目を剥き、完全に意識を断たれている。
アキラは霧吹きをしまうと、反対の胸ポケットからメモを取り出し、記録していた。
「『夢見の彼岸花』の濃縮液……。竜種の代謝速度なら素早く効果が出ると思ったが、血流に乗って0.8秒――想像以上の効果だな。希少種の強さに関係してるんだろうか。実に興味深いね、これは……」
それから、昏倒した竜の喉元へ歩み寄り、傷口を覗き込む。
「……深い裂傷。ドラゴンの治癒力で再生出来ないほどではないのに……呪いか?」
アキラは傷口を見ながら、ぶつぶつと独り言のように呟くと、手にしていたトランクを床に置き、パチン、と留め金を外した。
中には、試験管やドライフラワー、種子の入った小瓶が整然と並び、緑色の淡い光を放っている。
「魔獣の止血には『岩肌苔』が一番効く。竜種の治療は初めてだけど……、バジリスクの幼体なら治療したことがある。まぁ変わらないよね、多分」
そう言いながら、アキラは背中のリュックも脱ぐと、ガサゴソと漁り、解呪効果のある花々から抽出した薄い虹色に輝く透明な液体の入った小瓶を用意した。
「……大抵の呪いにはこれで十分だけど、呪いの残滓が異常な程に濃い。これで効果無効になるなら補助剤も足してリトライだね」
薄暗いダンジョンの中、巨躯のドラゴンを前に小さな人間が手際よく、しかし確かな技術で失われるはずだった命を繋ぎ止めていく。
……数時間後、静寂だけが残った。
◇◇◇
意識が、深い水底から浮上するようだった。
竜が重い瞼を開けると、全身を苛んでいた呪いの痛みは消えていた。
目の前には、ランプの明かりの下、採取した植物の標本をピンセットで整理している男がいる。
(……生きている)
(あの人間が、私を一瞬で無力化し、呪いまで解呪したというのか?)
竜は理解した。
この男は、ただの人間ではない。魔術という理の外にいる存在だ。
「……人。なぜ私を助けた。」
その声に、顔を上げたアキラは少し目を見開いていた。
「――驚いた。レッドドラゴン程の上位種は人語を話すことがあると聞いてたけど、本当だったんだね。」
凄惨な儀式やドラゴンの急襲にも驚かなかったアキラは、人語を話すドラゴンには少し興味を表した。
「なぜ、助けたと聞いている」
状況に関係なく、メモ帳に何かを書き込むアキラに竜は返事を催促した。
「……あぁ、ごめん。悪い癖だと分かってるんだけど、つい……」
そう言うとメモ帳を閉じた。
「……助けられる技術と知識を持っていた。だから助けた。それだけ」
「……それだけ?」
「そう、とりあえず、キミが動けるまでは面倒をみる。キミの生命力ならあと数時間もすれば動けるだろ。そうしたら、僕も自分の仕事に戻る。――魔草の研究者なんだ、僕」
アキラは顔も上げず、採取した魔草を種類ごとに分けながら答えた。
「……研究者。そうか、私の主は研究者か。戦いとは無縁の生活となりそうだ」
竜は皮肉混じりに笑った。その言葉にアキラは顔を上げた。
「ん?どういうこと?……キミを連れて歩くなんて言ってないよ?」
「そうはいかない。お前が私を助けた事で、既に竜族の『掟』が魂に焼き付くように共鳴し始めている」
竜は目をすこし細めつつ、続けた。
『戦いに破れし竜、または命を救われし竜は、その者を主とし、生涯の忠誠を捧げよ』
「これが竜族の抗えぬ血の掟だ。今日より、お前が私の主だ」
竜の金色の目とアキラの茶色の目が交差する。
「それは竜同士の話じゃないのか?……断ったら?」
アキラが小さく呟く。
「相手は定義されていない。竜であろうと別種族であろうと。そして、掟の解除は「主人の死」か「私の死」か、「主人を殺して竜も掟の呪いによって消滅」するしかない」
ランプの灯りがゆらゆらと揺れる中、沈黙が落ちる。
「……つまり、『竜を連れて歩くか、二人揃って、ここで死ぬか』ね」
「理解が早いな、人間」
「選択肢なんて最初からないじゃないか。……分かったよ、掟に従う」
アキラは溜息交じりに、そう言うと分別を終えた魔草をリュックに仕舞い、竜の首元の止血用ロックモスの貼り替えを始めた。
「……でもさ、僕の家は人界だ——このダンジョンから出れば、レッドドラゴンが闊歩できる世界じゃない」
回復具合を診るアキラに竜は答えた。
「――問題ない。人間に擬態することが出来る。それならば、共に生きていけるだろう?」
「……随分、器用だね。逃げ道なしか」
アキラは肩をすくめた。
「ただ、私には人間に関する詳しい知識がない。なので、お前の記憶を借りるぞ」
竜はアキラの目を見つめた。
意識の触手が、アキラの思考の防壁をすり抜け、心の最深部――決して誰にも触れさせたくない、鍵をかけた記憶の箱へと侵入してくる。
『ッ……そこは、入るな……!』
深層心理下のアキラの拒絶も虚しく、カッとドラゴンの胸に刻古の契約印が浮かび上がり、紅蓮の光を放つ。
それと同じ光がアキラの左胸にも灯り、アキラは「うっ」と一瞬だけ、うめき声を上げた。
まるで見えない矢が胸を刺すような感覚に襲われる。
光はみるみる拡張し、竜を包み込む。
光の渦の中で竜の巨体は収束し、人の形へと再構成されていく。
「……まぶし――」
アキラは眩しさに目を細め、手で顔を覆った。
やがて、ゆっくりと光が晴れる。
そこに立っていたのは、魔力で生成した薄布一枚、透き通るような肌と、炎のような赤髪を持つ一人の女性だった。
その顔を見た瞬間、アキラの動きが凍りついた。
持っていたピンセットが、石畳に落ち、カランと乾いた音が響く。
アキラの瞳が大きく見開かれ、呼吸すら忘れたように、その場に立ち尽くしていた。
その姿は、決して彼が忘れる事のない女性の姿、そのものだった。
柔らかく微笑む口元も、泣きぼくろの位置も。
かつて失い、二度と会えないはずの最愛が、そこにいた。
「…………、ま、真冬?」
アキラの表情は、驚きを超え、何か信じがたいもの――あるいは、決して見てはならない幻影を見たかのように青ざめた。
「マスター。私の名はシュナと申します」
女は、恭しくその場に跪いた。
「契約は成されました。この命尽きるまで、貴方様とともに」
契約の成立とともに容姿だけではなく、口調すらも変化していた。
シュナは顔を上げ、アキラを見つめる。
だが、アキラは何も言わない。
ただ呆然と彼女の顔を見つめ続け――やがて、苦しげに視線を逸らし、拳を強く握りしめた。
「…………な、なぜ、その姿なんだ」
絞り出すように呟いた。
「貴方様の記憶の中で最も存在感が強かった女性の姿をお借りしました。」
シュナはそう答えるが、アキラの本当の問いの意味を彼女は理解できていなかった。
「この姿はお気に召しませんでしたか? 記憶の通りに再現したつもりですが……」
その言葉にアキラの心はまるで、悪意なく傷口に塩を塗られたような感覚を覚えた。
アキラは乱暴にピンセットを拾い上げると、逃げるように背を向けてトランクを閉じ始めた。
「……ハハ、これは……タチの悪い悪夢だな」
無理に繕ったその笑い声は、雨に濡れたように震えていた。
第2話へ続く




