第9話 ささやきの谷
薄明かりのなか、二人は湿った獣道を歩いていた。
霧は相変わらず重く、空も木々も、
灰色の膜で覆われているようだった。
「ここだ。地図にあった『歪みの谷』」
カイが立ち止まり、前方を指差す。
木々が途切れたその先には、ぽっかりと深いくぼ地が広がっていた。谷の底には、黒く歪んだ石柱が
いくつも立ち並んでいる。
「鍵の一つは、この谷に眠っているはずだ」
「……なんか、変な音がする」
新が耳をすませる。石柱の間から、かすかな囁き声が流れてくる。風の音に混じって、
それは確かに“言葉”になっていた。
『なぜ、助けたい? なぜ、お前が?』
新は足を止める。
「今、誰か……」
「聞こえたか?」
カイの声が緊張に満ちていた。
「いや、俺には聞こえなかった。ただ……空気が変だ」
それは、まるで自分の内側から聞こえるような声だった。
新はそっと谷に足を踏み入れる。
足元の草がざわめくたび、
囁き声は少しずつ明瞭になっていく。
『その子は、もう助からない。
わかっているのだろう?』
『君は、ただの人間。奇跡なんて起こせはしない』
「違う……違うってば……」
声に応えるように、新はポケットから流那の写真を
取り出した。笑顔の彼女が、そこにいた。
でも、その笑顔は、まるで水に溶ける絵の具の
ように、ゆっくりと形を失った。
「おい、新。お前、顔色が……」
カイが隣に駆け寄ろうとした瞬間...
谷の中央に立つ石柱が、不気味な音を立てて割れた。
黒い光が空へと伸び、霧の中に紋章のようなものが
浮かび上がる。その紋章は、生き物のように
脈動していた。
「罠か……?」
「わからない。でも...この谷が、
俺たちを“試してる”」
そのときだった。
『佐藤新。君の“願い”に、価値はあるのか?』
確かに、自分の名前を呼ばれた。
「...誰だ、お前は!」
だが、返ってきたのはただの笑い声。
カイは剣を抜いたまま言う。
「新。気を引き締めろ。
この森、もう“ただの霧”じゃねぇ」
そしてふたりは、黒く染まった谷の奥へと
踏み込んでいく。背後には、
誰もいないはずの囁き声だけがついてきた。
(#10に続く)