天球は巡りて、風立ちぬ
――大広間からは、賑やかな音がずっと続いている。
《大砦》冬ごもり終了の打ち上げで《大砦》中の人々が集まり、お祭り騒ぎになっているのだ。
この1週間、グーリアスは当番の間を縫って、リリフィーヌに根気よく《大砦》の内外の構造を案内してくれた。お蔭で1週間前に比べると、リリフィーヌは、《大砦》の中を1人で歩き回れる範囲が広がった。まだ《大砦》全体の構造を飲み込めている訳では無いが、いずれにしても、さほど深刻な問題では無い。
リリフィーヌは、お祭り騒ぎが続く大広間で一通りの挨拶を済ませ、正門扉と連結する玄関ロビーフロントに降りると、そこに設置されている大天球儀をつついた。見る間に、一抱え以上もある「水晶玉もどき」の中に、《大砦》の概略図が浮かぶ。
この1週間、幾度となく魔法の杖で大天球儀をつついたが、それでも、そのたびに現れる《大砦》の概略図には、目が回るような思いをする。この《大砦》は元々、古代・中世の主流だった物理的戦闘に備えて建造された物だ。要所要所に、敵方の侵入を阻むための迷路が広がっている。
リリフィーヌは体力が完全には戻り切っておらず、更に替えの鱗が生え揃うまでは《大砦》のお世話になる身だ。パピの村を訪ねるのは、安全を見て更に1年後という事になっている。先代大将夫人から依頼された一時的な仕事もあるし、《大砦》から人が少なくなる前に、1人で歩き回れる範囲を少しでも拡大しておかなければならない。
リリフィーヌが大天球儀の前で首をひねっていると、程なくしてグーリアスがやって来た。
暫し見つめ合った後、グーリアスは承知したという風に一つうなづき、リリフィーヌの案内に立った。不思議な事だが、この1週間の間に急にお互いの距離が縮み、幾つかの事柄についてなら、言葉を交わさずとも通じる仲になっている。
*****
――リリフィーヌが入っている療養部屋の窓の下に広がる、緑地――
後で分かった事だが、これは《大砦》を一巡する空中庭園となっており、いわば城内の散策路を兼ねている場所である。部屋の窓から梯子を出して降りて行けば、直通で簡単に到着するのだが、《大砦》の中をまともに通過して目指そうとすると、その途中で難所と言うべき迷路にぶつかり、そこで常に苦労させられる事になるのだ。
先日、リリフィーヌが梯子から落ちた件は、グーリアスにとっては想像以上にショッキングな出来事だったらしい。『二度と梯子で降りるな』と、隊士たちのリーダー格としての口調で、きつく申し渡されてある。
体力(及び、自前の鱗)さえ回復すれば、リリフィーヌにとっては最も確実かつ安全なルートなのだが……時として、他人の心理は、大いなるミステリーだ。
《大砦》の中の迷路は、地下迷宮さながらの、複雑怪奇な石積みの迷路なのだ。敵方を怯ませるためだったのであろう奇怪かつ不気味な彫刻の群れすらあり、お化け屋敷も同然だ。古代・中世の建築技術の限りを尽くした、今となっては謎そのものの遺跡である。うっかり迷路に入った村人たちが老若男女問わず迷子になり、涙目パニックになって、隊士たちに遭難信号を送って来るそうだ。
――グーリアスに手を引かれて、意味不明なまでに曲がりくねった迷路を通り抜ける。闇の中から大口を開けてワッと出て来るような奇怪な彫刻の群れには、やはりギョッとさせられる。しかし、グーリアスに手を引かれているリリフィーヌにとっては――特別にときめく、ささやかな時間だ。
陽光の降り注ぐ緑地に出た頃には、リリフィーヌの心の内では、或る決心が固まっていた。
――窓の下を過ぎて少し行ったところに、田舎ならではの素朴なデザインの手すりが付いた、あのベンチがある。リリフィーヌはグーリアスの手を借りて、ベンチに腰を下ろした。グーリアスが隣に座って来る。
グーリアスは、リリフィーヌの表情に拒絶などの気配が無いのを確認すると、ゆるく流したままのリリフィーヌの淡い色の髪を撫で、そしてその肩に、そっと腕を回した。
リリフィーヌは、濃い緑色にきらめく樹林の間を透かして、昼下がりの空の下、万年雪がいっそう白く映える『雪白』を眺めた。やはり、このポイントから眺める『雪白の連嶺』は、まさに絶景だ。
リリフィーヌは、淡い藤色の上衣をまとう姿だ。第1着目として揃えられていた、あの伝統衣装である。ボンヤリと記憶にあるような無いような、都市圏のユニバーサルな衣装とは違っていて、今はまだ違和感を感じる。だが、時間が経てば、この違和感も次第に薄らいでいくのかも知れない。
*****
(やはり、思い出せた限りの事は、話しておかなければ――)
婆神官に新しい名前をもらうまでは名無しだった女が、『雪白の連嶺』に見入りつつ思案をしていたのは、実際は2分、3分の事だった。元々武官を本分としていたという事もあり、決断は早い方である。
リリフィーヌは、グーリアスを振り返った。
「――グーリアス殿、私にはまだ話していない事があります」
グーリアスはリリフィーヌの眼差しを見て瞬きした後、ゆっくりとうなづいて来た。
普通では考えられない程の大怪我をして、転移魔法陣から出て来た女だ。婆神官の推測によれば、転移魔法陣の事故か何かで、《宿命図》も恐らくは変容してしまっている――記憶系列が破綻し、自分の名前すら失うレベルの変容だ。想像もつかないような秘密があるだろうという事は、グーリアスは承知していたのであった。
だが――
「私には以前、恋人が居ました」
まさに爆弾宣言であった、と言うべきか。次の一瞬、グーリアスは、気が遠くなったような顔になっていた。『バキッ』という奇妙な音が響いたが、グーリアスは反応していない。
「グーリアス殿、ベンチの手すりが……」
リリフィーヌは奇妙な音の原因に気付き、グーリアスのもう一方の手を見つめて、絶句するばかりだ。
つくづく、リリフィーヌの肩に触れている方の手では無くて、幸いだったと言うべきだ。
グーリアスは全く表情を変えぬまま、竜人ならではの圧倒的な筋力を持つ手で、その手に触れていた哀れなベンチの木製の手すりを、粉々に握り潰していたのであった。後で、修理しなければなるまい――いや、修理しなければならない。
グーリアスは焦った様子で、リリフィーヌから視線を外した。
一息置いた後、グーリアスは改めて気付いたと言う風に焦った様子で、リリフィーヌの肩から手を外し、手すりの残骸を隠すような形で両手を組んで、握り締めた。ややうつむいた、いかつい顔は、いつも通りしかめ面のままだったが、目の端は赤くなっている。
「あ、いや、その、考えてみれば……当然か……リリー殿は……良い人だから」
そのモゴモゴした口調を裏読みすれば、『綺麗な人』とか『魅力的な人』と言おうとしたらしいというのが、何となく分かる。
――転移魔法陣に出て来た時の、ゾンビ状態も同然だったであろう凄まじい顔面を見ておいて、そう思う心理というのも、非常に謎なのだが……
リリフィーヌは戸惑った後、どうやら続けても大丈夫らしいと判断した。
「続けて大丈夫ですよね、グーリアス殿……その、『居ました』という事です。エスメラルダ卿の見立てでは、私の《宿命図》の《宝珠》相は、まっさらだそうですから……今は縁が切れているのだと思います。正式な手続きで関係を清算したような記憶が無いので、自分でもアヤフヤですが……」
リリフィーヌは面差しを上げると、『雪白』の彼方に広がる虚空へと、視線をさまよわせた。過去の記憶を思い出そうとする時のクセだ。グーリアスはそれを充分に承知しており、黙したまま、次の言葉を待っている様子だ。
「今でも、前の名前は思い出せません。恋人だった人の事も、同じくらい……『居た』というような、曖昧な感触だけです。私が以前の名前を思い出せないのは、その人が、名前に関わる何かをしたから――かも知れません」
竜人の間で、恋人や婚約といった類の関係を結んだり、逆に関係を清算したりする時には、《宿命図》の心臓部たる《宝珠》と魔法署名とが関わっている――そこからして、名前に関わる『何か』に相当するのだが……
リリフィーヌは諦念と共に、暫しの間、目を伏せた。
思い出せる限りの記憶の断片と、今の状況と、微妙に食い違っているような気がするのは、確かだ。しかし、《宝珠》に何が起きたのかも分からないし、思い出せない事を幾ら考えても、しょうがないでは無いか。
「いつか、私の旧名を知っている人に出会うかも知れませんけど――その人が、恋人だった人かも知れませんけど――気にしないでくれたら良いと思います。今の私は、リリフィーヌ……リリーでしかありませんから」
リリフィーヌは再び、ゆっくりとグーリアスの方を振り向いた。まだ傷にうっすらと覆われているものの、しなやかで均整の取れたリリフィーヌの片手が、どちらかと言えば『ごつい』と言える、グーリアスの手の上に重なる。
「今はまだ、気持ちが落ち着いていないんです。でもグーリアス殿、貴殿の《宝珠》との間で、暫しの署名を交わしたいと思っています」
――結婚を前提とした、恋人関係として。
グーリアスは蒼穹の色をした目をきらめかせ、少年のように頬を赤らめたまま、リリフィーヌを見つめた。
万感の思いを込めた無言の時が、過ぎて行った。樹林の間を涼しい風が吹き渡り、濃い緑の葉がきらめき、さやいだ。
――1年後の同じ日、同じ場所で――2人は竜人特有の伝統的なやり方にのっとって、互いの手をつなぎ、正式な結婚関係そのものである《宿命の盟約》を交わす事になるであろう。
その予兆とも言うべき、その様子を目撃していたのは、いつの間にかグーリアスの手から転がり落ちていた手すりの残骸と、濃い緑にきらめく樹林と――その遥か彼方に見える『雪白の連嶺』のみだった。
――《終》――
最終話までお読み頂きまして、誠に有難うございます。楽しんで頂けましたら、幸いでございます。
《バックグラウンド詩歌作品》
――ポール・ヴァレリー,作『海辺の墓地』鈴木信太郎,訳
風吹き起る……生きねばならぬ。
一面に吹き立つ息吹は 本を開き また本を閉ぢ、
浪は 粉々になって 巖から迸り出る。
飛べ 飛べ 目の眩いた本の頁よ。
打ち碎け、浪よ。欣び躍る水で打ち碎け、
三角の帆の群の漁ってゐた この静かな屋根を。




