涼しき蒼穹の下、白妙の風(中)
――まさかとは思うが、この繊細な花を傷つけずに持って来るのは、大変だったのでは無いだろうか?
花々を見つめているうちに、ある可能性が閃き、リリフィーヌはドキリとして目を見張った。状況こそ、激しく胡乱だったが。改めて脈絡を考え直してみると、まさか、あれは――?
――蒼穹そのものの、明るさと深さを同時に兼ね備えた青い目の男。
いかつい顔立ちは、ボンヤリと記憶にあるような無いような、都会で見かけるような『モデル風イケメン』という訳では無いが、闇ギルドで身を持ち崩した者たちに見られるような、バランスが崩れた歪な顔立ちと言う訳では無い。
改めて考えてみると、印象そのものは悪くは無い――それどころか、割と良い。結構、良いかも知れない。
チグハグな方向に迷走し始めた心を落ち着けるべく、リリフィーヌは『考える人』さながらに、クラクラしているような気もする頭を、シッカリと抱えた。
グルグル巻きの包帯に手が触れる。
そう、大怪我をしているせいで、ちょっとばかり、おかしくなっているだけだ。きっと、そうだ――
――ギョッとするようなタイミングで、部屋のドアが古典的な『ガチャ』と音を立てた。そして、ドアが開かれた。
リリフィーヌは仰天した。
頭を両手で押さえたまま、勢い良く振り返る。ちょっと見た目には、無抵抗を示す『ホールドアップ降参』の格好である。
ドアを開けて入って来たのは、婆神官だ。毎度のように時代錯誤なまでの古風な衣装に身を包んでおり、前回と同様、白衣姿のパピとパメラを従えている。
「おッ、やっぱり起きてたね、リリフィーヌ。リリーで良いね。そろそろだと思ったんだよ」
婆神官――エスメラルダ卿は魔女さながらの得意満面の笑みを浮かべ、ヨシヨシと言う風にうなづいている。
リリフィーヌはドギマギしながらも、ギクシャクと両手を降ろした。
――妙な男が出て来た事について、話すべきだろうか。それとも、そうすると、あの男は、もう来なくなるのだろうか。
暫しクルクルと考えていたリリフィーヌは、迷走する心を、とりあえず意識の脇に置いておく事にした。
婆神官は古風な魔法の杖を、部屋の端にある杖立てに無造作に突っ込む。透明な青色に輝く見事な水晶玉が、水の精霊か何かのようにペカリと光った。
年の功と言うべきか。重ねて来た年齢が自然に醸し出す豊かさと言うべきか。その何でも無い日常の一連の動作だけでも、実に味わいがある。一挙手一投足の全てが、見ていて飽きない。
見ていると、婆神官は腕まくりをし始めた。
婆神官の後ろに居たパメラが、部屋の仕切りを移動する。
すると、あらかじめ用意していたのであろう大きなタライが現れた。タライには既に水が張られている。
落ち着いた中年女性――パメラが手持ちの魔法の杖を振ると、タライの中の水は暫くの間、水の精霊が笑っているようなコポコポとした水音を立てた。そして、丁度良い感じの乳白色の湯に変わった。
蒸気と共に、薬草の特有の香りが漂って来る。
エスメラルダ卿はタライの中の状況を確認すると、再びリリフィーヌの方を振り向いて来た。
「此処の隊士たち、むさいのが頑張ってくれたんで、谷底の良い薬草が入ったんだ。今日は薬湯風呂に入ってもらうよ。この《大砦》にはもう一人、若手の神官が常駐してるんだけど男だからね。今は遠慮してもらってるが、この薬湯は、そいつの自信作だ。良く効くよ」
くだんの若い男の神官というのは、婆神官の自慢の弟子か、助手と言った立場の人に違いない。
婆神官の美しいアクアマリン色の目が誇らしそうにきらめいているのを見ると、もしかしたら、婆神官が属する一族の血縁関係者かも知れない。一族から優れた神官が出る事は、一族にとっては誇らしい出来事でもあるのだ。
婆神官は、リリフィーヌを頭のてっぺんから足の爪先までサッと眺めた後、言葉を付け加えた。
「お腹は包帯は取れないけど、頭と手足の方は外しても良い頃合いだね」
リリフィーヌは、感謝を込めてうなづいた。
《大砦》の人々をビックリさせたのは間違いないし、色々と迷惑を掛けてしまっている。それにも関わらず、《大砦》の人々は、予期せぬ行き倒れとして現れた身元不詳の怪しい女を、歓迎してくれているのだ。
ずっと絶食状態だったから、足がまともに動かない。栄養分に富む薬草が入ったブレンド果汁を頂いて少し経った後、リリフィーヌは、パピとパメラの介助の手を借りて、ゆっくりと薬湯に身を沈めた。久し振りの入浴だ。流石にホッとして、気分がほぐれる。
――入浴中に包帯を解くので、リリフィーヌは素っ裸になる。
パピがピョコピョコとした足取りで素早く窓に駆け寄り、窓を閉じて、『のぞき見防止』の魔法が掛かったカーテンをひいた。次いで、パピは、窓枠に置かれている小さな花瓶の花の変化に、目ざとく気付いたのであった。
「花が増えてる。しかも何コレ、崖下のレア物なのに、水切りもせず突っ込んで――」
パピは暫し不思議そうな顔をしたが、すぐに陽気そうな赤銅色の目をきらめかせて、パメラの方を勢いよく振り返った。明るいオリーブ・グリーンのフワフワした髪が、パッと広がる。愛嬌のある顔全体には、ニンマリとした笑みが浮かんでいた。
「ねぇ、パメラおばさん、最近、挙動不審な人が居るよね? イヤーン、ス・ケ・ベ♪」
「女性の部屋に顔を突っ込むなんて、全く……後で往復ビンタの罰だよ、あのバカ野郎……」
パメラの握りこぶしは、激怒の余りかプルプル震えている。おまけに、落ち着いた中年女性には似つかわしくないような、過激な言葉を口にしたようだ。
リリフィーヌは大きなタライに張られた薬湯風呂の中で、婆神官に手足の包帯を解かれていた。リリフィーヌはボンヤリと目を閉じていて、パピとパメラの間の意味深な会話の内容には、注意が向かなかった。
やがて、脳みそへの血流量が増えたお蔭なのか、急にクリアになったリリフィーヌの脳内で、一つの懸念が不意に形を結んだ。
これは重大な問題だ――リリフィーヌはパッと目を開いた。
「――あ、あの、エスメラルダ卿、私……もしかしてバーサーク化しやすいとか、宿命図に《争乱星》が食い込んでるとか、そういう事は……ありませんか」
婆神官は呆れたような様子で、即座に切り返して来た。
「何言ってんだい、そんな、パピより小さい竜体のクセして……まぁ武官の相は妙に強いけどね」
「パピより小さい……?」
パピは小型竜体ではあるが、ふくよかなせいか、見るからに武官と同じくらいの大きめの竜体を持つ竜人だ。武官としては、最低限、これくらいの竜体サイズが必要となる。
――その、パピより小さい……?
それでは――かつて神殿隊士だったという過去、ボンヤリと残っている記憶の断片と、矛盾するのでは無いか? リリフィーヌは、違和感がぬぐえない。
婆神官は、リリフィーヌの頭部の包帯を解き終わった後、部屋の隅に置かれていた鏡を持って来た。
「見てごらん、これがリリーだよ」
リリフィーヌは、鏡を見るなり息を呑んだ。
「髪が白い……」
髪が――長さは記憶にあった物と余り変わらないが、違和感を感じる程に白い。
リリフィーヌは愕然とするままに、鏡の中の自分を調べた。
これは確かに、今の自分らしい。顔立ちは余り変わっていないようだ。そこだけはホッとする。
だが、髪の白さがショッキングだ。それに――目の色も少し変わったような気がする。自分の目の色は、確か、もう少し赤みの強い色合いでは無かったか。
リリフィーヌが眉根を寄せると、鏡の中の人物も妖精めいた繊細な柳眉を寄せて、同じ顔を返して来る。
ほとんど色の無い、白い髪。神殿隊士の武官服のように、いつの間にか髪の毛が――鱗の色が――恐ろしいまでに脱色されてしまったらしい。そして、暁星に似ているような気もする、透明感のあるラベンダー色の目。
――これが、自分? 本当に自分なのか?
寝込んでいた間にやつれたという事は認めよう。しかし、エスメラルダ卿が言う通りの、どちらかと言うと小柄に属する竜体だ。有り得ない。
――知らない間に身が削れてしまったのだろうか。それとも自分の霊魂が、この哀れな身元不明の――行き倒れの重傷者と思しき見知らぬ人物に、憑依してしまったのだろうか。記憶にあるよりも竜体のサイズが縮んだような気がする。
婆神官が包帯を外す事を決めただけあって、手足や顔面の傷は塞がっており、元・裂傷だった名残の傷痕が、凸凹状態となって残っている。
相応にゾンビ状態を思わせる外観ではあるが――幸い、竜人の整形修復力は相当に高い。一旦、傷が塞がれば、数日のうちに凸凹も消えて、本来の正常な形になるだろう。鱗の再生だけは、やたらと時間が掛かってしまうので、こればかりは致し方ない。
リリフィーヌは、震える手で自分の髪をつかみ、目の前に持って来て、改めてその色を眺めた。やはり白い。鏡のマジックでも、己の幻覚でも無い。
薬湯風呂の中で呆然としたまま、リリフィーヌは気が遠くなるのを覚えた。




