真夜中を駆け抜ける
既に真夜中の刻だ。
天球の頂からややズレた場所で、真夜中の刻を刻む深邪星が輝いている。皆既日食の時の太陽のような、特徴的な妖しい外観と輝きを持つ闇黒星だから、非常に見つけやすい『時の目印』だ。その正体は、やはりエーテルを主成分とする天体とされているが、詳細は明らかでは無い。
城壁沿いの退魔樹林が、夜の風にしなり、さやいでいる。その神秘的なざわめきは、竜王都の名物の、「笹鳴り」とも「笹鳴き」とも呼びならわされている物だ。
エメラルドは、相棒を務めるクラウン・トカゲの背にまたがり、魔物の群に追われながらも、闇に沈む断崖絶壁を駆け下りていた。クラウン・トカゲは、その驚くべきスピードとジャンプ力とで、魔物の群を振り切って行く。
――竜王都を擁する『魔の山』の地形は、ほとんどが気の遠くなるような断崖絶壁だ。
竜人の居住地である街区を守る城壁の各所には、強力な魔除けの魔法陣が施されている。更に、その特殊な樹香によって魔物の接近を防ぐ退魔樹林が、城壁の外に寄り添うように林立している。
退魔樹林に守られた城壁を出れば、あっという間に異形の魔物の大群に襲撃されるのだ。身を守る力のない傷病者や幼体が城壁の外に迷い出れば、断崖絶壁に跋扈する魔物どもの、胃液の中の藻屑と消えるのが常である――
エメラルドは退院間近とは言え、目下、医療院に観察入院中の身であり、真夜中の遠出は禁じられている。足が付かないように、移動記録の残る各所の転移魔法陣を使用せずに、魔境を突っ切って行くのだ。勿論、クラウン・トカゲのスタミナと相談して、城壁と退魔樹林が接近している、出来るだけ安全なコースを選んでいる。
(馬丁ゲルベールの選んだルートを、研究しておいて良かった。想像以上に短時間で走破できている)
幾つかの魔境を突破した後、エメラルドとクラウン・トカゲは、7合目辺りの、或る街区を取り巻く城壁ハイウェイで小休止を取った。
巡回パトロール中の隊士の目を盗み、一定距離ごとに設置されている尖塔の一つを選んで、相棒に水を飲ませておく。何故か、トカゲ同士で何らかの了解が成っているらしく、パトロール中の隊士たちを乗せていたクラウン・トカゲは、チラリと首を巡らせただけで、「素知らぬ振り」をしてくれた。
エメラルドは闇の中で目を凝らし、馬丁ゲルベールが選んでいたルートに目当てを付けて行った。
見た目は、ベテラン武官でさえ怯む程の凄まじい断崖絶壁だ。
だが、退魔樹林の力強い根が網目のように広がっており、絶壁の各所に手頃な足場を構成している。クラウン・トカゲの足場となるポイントが上手い具合に並んでおり、卵を抱えた繁殖トカゲでも走りやすい状況になっているのだ。
エメラルドは、鼻をすり寄せて来た相棒の手綱を取り、アイコンタクトを通じて、走破ルートを示して行った。賢い相棒はルートを飲み込んだらしく、鼻をヒクヒクと動かして『覚えた。一気に行けるよ』と言う風の身振りを返して来た。
――此処から山麓まで、ノンストップで一気に駆け降りるのだ。1週間前、馬丁ゲルベールとセレンディ・ファレル親子が、そうしたように。
「よし。行くよ!」
再び人馬一体となったエメラルドとクラウン・トカゲは、目も眩むような高さの城壁を一気に飛び降り、再び魔境へと入って行った。
闇がどよめき、不気味な海綿状の魔物が地響きを立てて現れた。
巨大な数珠で出来た触手を振り回して来る。巨大蜘蛛さながらの姿をした海綿状の魔物は、即座に、エメラルドとクラウン・トカゲを美味な獲物と判断したようだ。長い触手が、断崖絶壁の岩々をあっさりと削りつつ、猛烈なスピードで迫って来る。
目の前に迫って来た数珠の群れ――魔物の触手を、クラウン・トカゲは見事な大ジャンプでかわし、エメラルドは《風刃》でバラバラに切断する。
傍目から見ても相当に薄気味悪い魔物だ(これらの魔物の食事光景は、もっと不気味である)。しかし、厳しい戦闘訓練を受けたベテランの竜人武官であれば、一人でも撃退できる。
エメラルドは戦闘用の魔法の杖を振るって《風刃》魔法を縦横に繰り出し、しつこく立ちはだかって来るパワフルな魔物を、ことごとく撃退して行った。
夜の空気は冷えて重くなり、山おろしとなって断崖絶壁を吹き降りて行く。その風の道が、魔境の中の走破ルートを疾走するエメラルドとクラウン・トカゲの、追い風となっていた。
永遠に続くかとも思える、魔物との駆け引きが、不意に途切れる。
女武官と相棒は、再び、退魔樹林の並ぶ細長い安全圏に入っていた。
エメラルドの頭上を、橋梁にも似た、幾つもの巨大なフライング・バットレス風の構造体が通り過ぎて行く。断崖絶壁に建造された各所の回廊や街区を、城壁もろとも支えるための、竜王都ならではの建築様式である。
夜空を横切る壮大な構造体の各所に、重量分散のための大きな《橋梁魔法陣》が――しかも、署名入りの物が――夜間照明も同然に、誇らしげに輝いている。《地霊相》生まれの竜人の大工――魔法職人や、それに準じる魔法使いたちの傑作だ。
エメラルドの脳裏に、一瞬、仮面の占術官の説明がよみがえった。
――竜王都創建の時代から間も無い頃の事例です。くだんの成功者は《地霊相》の人で、城壁維持に関する《橋梁魔法陣》……重量分散のための魔法陣を吹っ飛ばして、奥義の発動の媒体にしたそうです――
(その人は、大型の《橋梁魔法陣》を吹っ飛ばしたのだ。複数の街区を擁する大きな回廊が、丸々崩落したに違いない)
歴史に疎いエメラルドには、その記録があったかどうか思い出せない。
しかし、それ程の大災害であれば、街角の人形劇で度々取り上げられるような伝説になっていた筈だ。回廊の崩落に伴う犠牲者が、ほとんど出なかったのだろう。恐らく、工事の初期で、地盤固定のための施工に続いて《橋梁魔法陣》がセットされたばかりの頃だったか、或いは建て替え工事中で、ほぼ全街区の住人が居ない状態の回廊だったのだ。
(大丈夫。私の選択は、絶対に間違っていない)
エメラルドの内心の不安に呼応したように、クラウン・トカゲが困惑の鳴き声を上げて、駆けていた城壁ハイウェイの半ばで足を緩め、首を巡らせて来た。エメラルドは、相棒の気持ちを落ち着かせるため、『何でも無い』という風に、クラウン・トカゲの頭頂部のフッサフサを撫でたのであった。
気が付けば、既に『魔の山』の麓――竜王都へのゲートを兼ねるグランド回廊である。
エメラルドを背中に乗せたクラウン・トカゲは、自慢の脚力で大ジャンプを披露し、城壁からグランド回廊へと飛び降りた。
グランド回廊を巡回していた武官がエメラルドに気付き、誰何して来た。その武官服はエメラルドの物とは異なり、黒みを帯びたミリタリー・グリーンだ。一目で竜王配下の武官だと知れる。
「こら! そこの男! ……神殿隊士か!?」
エメラルドは髪留めで髪を固くまとめていた。男女共通の武官仕様ポニーテールだ。巡回武官は、エメラルドを男だと判断したに違いない。
誰何を無視して、エメラルドは、クラウン・トカゲもろともグランド回廊を飛び出した。そして、その先に広がる広大な扇状地――大陸公路に連続する平原へと駆け去って行った。
エメラルドの予想通り、巡回中の武官は、それ以上追っては来なかった。
竜王側の部隊――特に英雄ラエリアン卿を中心とした近衛部隊にしても、翌日『バーサーク危険日』に予想されるバーサーク竜が巻き起こす災害と、それに乗じての軍事作戦や防災作戦に備えて、スタンバイ中なのだ。たかが小型竜体の逃亡兵と思しき1人、緊急に捕縛する対象では無い。
――ちなみに、クラウン・トカゲに乗っているという事実そのものが、小物クラス竜体の持ち主である事を証明している。大型竜体の竜人は、人体の状態でも自前の身体能力が極めて高いので、そもそもクラウン・トカゲに乗る事はしない。クラウン・トカゲの方でも、大型竜体を警戒して近寄らないのだ(人体の時は、また別だが)。
*****
「――エメラルド隊士の転移魔法陣の使用記録が、まだ見付かりません!」
バーサーク捕獲部隊の本部は、大騒ぎになっていた。
上級魔法神官ロドミールからの緊急通報を受け、バーサーク捕獲部隊に配属されている下級魔法神官が、数人がかりで『位置情報魔法陣』を稼働させていた。エメラルドの身体から剥がれ落ちていた異形の鱗を手掛かりとし、魔法による捜索を試みて、その移動ルートを割り出しているところである。
バーサーク捕獲部隊の隊長は、苦り切っていた。
エメラルド隊士は、これまでに大きな問題を起こした事は無い。隊長の見るところ、標準的な、むしろ目立たない方の忠実な神殿隊士であった。およそ1ヶ月前、卵を抱えたままバーサーク化した剣舞姫称号持ちの女武官を、エメラルドが見事に取り押さえたという一件は、注目に値する実績だ。回復を待って、エメラルド隊士をバーサーク捕獲部隊に引き抜きたいと思っていた程だったのだ。
――神殿に絶対の忠誠を誓った身で、何故バーサーク竜と化す危険を冒して、竜体変身を禁ずる拘束具を引きちぎって逃走したのか。しかも、竜王軍の大将にして猛将ラエリアン卿による大攻撃が予想されるタイミングで、だ! 事と次第によっては、軍規違反、反逆者として逮捕しなければならない!
「エメラルド隊士の行き先は、分からんのか!」
焦れた隊長が、下級魔法神官たちに怒鳴る。しかし、エメラルド隊士の使用記録が残っている転移魔法陣が存在しないため、移動ルートを割り出すのは、容易では無い。
やがて、下級魔法神官たちの魔法の杖によって、大天球儀の中に呼び出された3次元立体地図の上に、位置情報ポイントが次々に表示されて行った。使われた記録のある転移魔法陣の数は、やはり、ゼロだ。
エメラルド隊士を示す白い点は、リアルタイムでは、ほとんど見えない。エメラルド隊士は偵察スタイルを取って、『位置情報魔法』妨害をしているのだ。しかし、ほんのわずかな間ながら、無駄なエーテル漏出による魔法破綻が起きるたびに、魔境を猛烈なスピードで突っ切って行く白い点が現れる――
隊長、副隊長と言った上官たちは、感嘆の唸り声を上げざるを得ない。
強い魔物が多いだろうに――どうやって、これ程の猛スピードを維持しているのか。転移魔法陣を使わずに一気に『魔の山』を下りるルート――『魔の山』全体の走破ルートを、エメラルド隊士は、どうやって見い出しているのか。
「これだけの魔境を一気に突っ切って、移動スピードが落ちないのか……」
「クラウン・トカゲの足があるとは言え、驚異的な移動速度だ。そんなに急いで、何処へ行こうと言うんだ? 王宮の回廊の方へは向かっていないから、竜王側の方に寝返るという訳では無さそうだが……」
そうしている間にも、割り出せる限りの痕跡が次々に記録され、点と点が線でつながれて行った。7合目の辺りで、少し小休止したらしいという動向が浮かび上がる。その後は――ノンストップの急降下。
ようやく下級魔法神官たちが、声を張り上げた。
「エメラルド隊士は、山麓グランド回廊に向かっています! 平原に逃亡する可能性あり!」
「バーサーク竜を、平原に野放しにする訳にはいかんぞ! 平原の豪族たちの支持……物資援助を失えば――かの鬼畜、英雄ラエリアン卿でさえ、そんな暴挙はやっていない!」
「全員、出動! エメラルド隊士を緊急捕獲する!」
隊長の指令に応え、バーサーク捕獲部隊は各々のクラウン・トカゲを駆り、未明の闇に飛び出して行った。




