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天秤の御名の下に(後)

エメラルドの表情に理解の色を認めたのか、占術官は暫し沈黙し、エメラルドの様子を眺めて来た。そして占術官は、ホッとしたようにうなづき、説明を続けた。


「――この奥義の発動は、結果として《宿命図》を書き換え、その人の運命を大きく変えて行きます。我々、上級魔法神官の間では、通常の魔法アルスに対する上位概念として、この奥義に『アルス・マグナ』という名を割り当てています」


この世界には、天地万物の照応の原理がある事が知られている。《宿命図》は、それを図式化した物だ。その天地万物の照応の原理そのものに干渉する奥義――大魔法なのだ。


宿命の凶星《争乱星ノワーズ》を動かし、《宿命図》を書き換える――運命を変える。


大いなる魔法アルス――


――アルス・マグナ。


エメラルドは少し首を傾げ、眉を寄せた。


「中小型の転移魔法陣の方が、エーテルが溢れやすい分、その現象が起こしやすい気がしますが……」


占術官は溜息をついた。


「残念ながら、大型の魔法陣でないと『アルス・マグナ』の衝撃に耐えられません。魔法陣そのものの《器》が違います。大凶星たる《争乱星ノワーズ》のエネルギーを相殺するには、転移ハブ駅にあるような大型の転移魔法陣が必要になるでしょう。それに……そもそも転移魔法陣は、こんな事のために作られてはいませんから、或る意味、非常識というか……想定外の使い方でしょうね」


――それでも。


エメラルドはスカーフの下で、歯を食いしばった。


それでも、一縷いちるの望みが、無い訳では無い。


エメラルドは、大図書館で見い出した内容を思い返していた。


――《器》極大の場合は、バーサーク化しにくい――


――魔法アルスの結果と《器》との間には、相関関係がある――


このくらいの事ではバーサーク化しないと言う事を証明し、それゆえの未来をつかみ取るには、やるしか無いのだ。


自分が――己の《器》が、『アルス・マグナ』を起こせるかどうかだ。


「私、やってみます」


かなり長い間、占術官は無言のまま、円卓の傍で立ち尽くしていたが、やがて「そうですか」と溜息をついた。占術官なりに心配しているのは明らかであった。


「ではシルフィード、手を……両手とも」


エメラルドは疑問に思いながらも、素直に両手を差し出した。


占術官は、その上に魔法の杖をかざして来た。


エメラルドの両手の上で、一瞬、鏡がクルリと回って光を反射したかのような、複数の白いフラッシュが閃く。


「――え?」


不思議なフラッシュは、一瞬だった。フラッシュが走っていた空間の中に、今度は水晶玉のような透明な色合いとサイズをした、1つの球体の幻影が現れた。見る間に、円卓の直径と同じくらいの大きさに膨らむ。


複数のフラッシュから合成された物だからだろうか、その幻の球体は微妙にユラユラと揺らいでおり、像が定まらない。


――まるで不確定性原理をイメージ化したかのようだ。


その透明な水晶玉のような球体の中に、魔法による幻影と思しき、白い天秤のイメージが浮かび上がった。どうも二重像らしいが、多重像にも見える。


占術官は、エメラルドの戸惑いと疑問には答えず、呪文のような言葉を紡ぎ続けていた。仮面の上からでも、ギョッとする程の無表情をしているという雰囲気が窺える――この魔法は、凄まじい集中力を要求するのだ。


「……《星界天秤アストライア》の御名みなの下に――宿命は生を贈与して、運命は死を贈与する。しかしこれら二つのものは、一つの命の軌道を辿る――」


見ているうちに、天秤の形をした幻影に変化が現れた。


片方の皿には、《宿命図》の図解で描かれていた《争乱星ノワーズ》の卵が乗せられた。もう片方の皿には、暁星エオスと思しきラベンダー色に輝く球体が乗せられた。


暫くすると、不思議な天秤の幻影は砂時計の砂のようなサラサラとした感じの粒子のカタマリになり、遂には微細エーテル粒子となって、蒸発するように消えていった。


占術官は、エメラルドの両手の上にかざしていた魔法の杖を引っ込めた。


これで、《星界天秤アストライア》という名前の、不思議な魔法は仕上がったらしい。


――限界を遥かに超える体力を使うような、高難度の魔法だったようだ。


占術官は立ちくらみを起こしたかのようにグラリと傾ぎ、円卓の上に手を突いて身体を支えた。その身体は激しい疲労のためか、震えている。うつむいた顔――その口から洩れる息遣いも、相当に長い間、乱れていた。


やがて――占術官は、ようやくの事で息を整え、説明を始めた。


「シルフィードに仕掛けられたバーサーク化の呪いは、翌日『バーサーク危険日』の夜明けと共に発動します。夜明けを知らせる暁星エオスが、空で輝き出したら、『アルス・マグナ』発動のタイミング――同時に、タイムリミットと考えて下さい」


一期一会のチャンス――次は無い。究極の幸運とはそのような物だ。武官として、日ごろから戦いの場にあったエメラルドは、実感と共にシッカリとうなづいた。


仮面の占術官は、口元に柔らかな笑みを浮かべた。


「私からも、些少ですが《風》の加護を添えておきました。性質が《風》だけに気まぐれな物ですが、上手くタイミングが合えば、『アルス・マグナ』の発動は、より効果的になると思います」


エメラルドは一瞬、目を見張った。


*****


「月並みな言い方しかできませんが――相談に乗って頂いて有難うございます。あと、加護の力添えも」


エメラルドは上級占術の相談を切り上げ、退去することにした。バーサーク化のタイムリミットが迫っているのだ。手をこまねいては居られない。


エメラルドは扉の前、所定の場に立つと、白い仮面をつけた占術官を真っ直ぐ見つめた。


「――呪いを仕掛ける方は、ホンのちょっと手を加えるだけで済むのに、仕掛けられた側がそれをくつがえすには、相当に死に物狂いにならないといけないんですね。それは、不公平とは言いませんか?」


占術官の仮面の奥の眼差しは、穏やかだが強い光を湛えていた。


「運命は、なにぶん不確定性な物ばかりで分からない事が多いですが、それが運命の側からの――死を贈与する側からの、答えなのかも知れません。我が身の生として贈与された宿命を、そこに現れた凶相を、本気で書き換えようとするなら、全力を尽くして対応してみろ――という事が」


エメラルドは無言でうなづいた。突風に備えて、スカーフをシッカリと手で押さえる。


占術官は、エメラルドの用意が済んだ事を確認すると、エメラルドの足元に転移魔法陣を展開した。


転移魔法陣は白く輝き、正確に作動した。白い柱が風音を立てて一巡した後、そこからエメラルドの姿は消えていた。


瞬きする程のわずかな間に、エメラルドは、『上級占術・匿名相談コーナー』のフロントとなっている場、大天球儀アストラルシアが並ぶ地上階層のフロアに戻されていたのであった。


*****


――窓の外の光景は、既に夕方だった。


エメラルドが『上級占術・匿名相談コーナー』の棟を出て、少し経った頃。


担当の占術官は、深い溜息を付いて、白い仮面を外した。仮面から出て来たのは――風のエレン神官だ。淡いアッシュグリーンの髪、薄い琥珀色の目。


エレン神官は、強い危機感を感じると共に、苦い思いを抑えられない。


――上級魔法神官の間で、越権行為が、余りにも軽々しく扱われている。


仮にも上級魔法神官たる者が、このような類の些細な問題で――しかも、新しい恋を始める際、今までの恋人との契約関係を秘密裏に解消する必要が生じた、ただ、それだけの理由で――非常時にしか認められない越権行為に、手を染めるとは。


《神龍》を中心とする神殿政治において、上級魔法神官は、『上級占術』を通じて人々の運命を変えると言う、ほとんど神にも等しい、独裁的な権力を認められている。


絶対的権力は、確かに判断基準をおかしくするようだ。権力に、酔い始めたという事か。


――権力は腐敗する、絶対的権力は絶対に腐敗する――


エレン神官の中で、いつだったかのゴルディス卿の警鐘が、いっそう重みを増していた。

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