3:男装の麗人
籠をいくつか重ねて小脇に挟み、リオラは日課の薬草摘みをしに薬草園を訪れた。
空にはすっかり朝の明るさが広がり、寝起きに見た夜の残滓はすでにない。
夏の太陽に温められつつある空気の匂いを嗅いで、リオラは木柵の門扉を開ける。
個人宅の庭よりもやや広さがある園内には、まだ朝露が残っていた。小さな水の粒が陽光を照り返し、葉先が銀色に光っている。
リオラは石畳の小道を、慣れた足つきで迷わず辿った。
目的はペパーミントだ。胃もたれや夏バテ、夏風邪の患者が多く訪れる今の時期、この薬草は欠かせない。
リオラはペパーミントが植わる畝の前で立ち止まり、露でスカートが濡れるのも気にせずしゃがみこんだ。姿勢が低くなると、水を含んだ畝から立ち上る土の匂いと、茎葉の青々しい匂いが、鼻の奥までむんと匂ってくる。
ミントの葉を指先で軽く撫でて育ち具合を確認したあと、リオラは必要な分だけを摘み取って、慣れた手つきで籠に入れた。
他の薬草も同じように収穫して回り、持ってきた籠がいっぱいになった頃には二時間ほど経っていた。
空は夏らしくギラギラと白く光ってリオラの目を刺し、太陽は焚火の炎のように照り、リオラの細いうなじを容赦なくじりじりと焼いてくる。
リオラはふーっと大きく太い息をし、疲れを吐き出した。立ち上がって、額に滲む汗を腰に下げていた麻布で拭う。
(――……今朝の父さんと母さんは、何だったんだろう)
ふと、リオラは手を止めた。
無心に作業をしていても、朝食の席で抱いた違和感は、ずっとリオラの心にあった。
(母さんなんか、あたしをセヴァ様に会わせたくないみたいだった……)
鼻先を麻布に埋めたまま、リオラは考え込む。
意識を内に向けると、リオラの周囲から少しずつ音が遠くなっていく。静寂が心を満たしたとき、リオラが感じ取ったのはざわざわと波立つ胸騒ぎだった。
不意に、土を軽やかに踏みしめる爪音がリオラの耳に入りこんだ。
リオラは息を吸うように、ハッと顔を上げる。
続く車輪の音は、時折がたついているが重々しい。町を走る荷馬車とは、明らかに違っていた。
家の前に小道に、一両の箱馬車が停まろうとしていた。
黒塗りで飾り気が一切ないそれは、表面上は商家の馬車に見える。
しかし手入れが行き届いた二頭の馬や、地を撫でるように滑らかに動く車輪が、並の物ではないと示している。
馬車が動きを止めた。
従者の姿はない。
代わりに、馬車の扉が内側から細く開いた。
わずかに開いた隙間から、少年のような細い足が伸び、身軽に地面へ降り立つ。
その人影は、赤かった。
リオラはぎょっとして息を呑む。
岩漿を思わせる赤い長髪が、そのように見せていた。
艶のある髪は背中を越え、足首のあたりで刃物で断ち切ったように切り揃えられている。すらりとした長身のきっぱりとした足取りに応じて、髪が優雅に波打った。
何かを探して周辺を見回す瞳も、血を流し込んだように赤かった。視線は冴え冴えと研ぎ澄まされ、悪魔的にも感じる強い光を放っている。
その視軸が動きリオラの姿を捉えると、切れ長の大きな目がきゅっと細められた。筆で描き込んだように凛々しく跳ね上がる眉が垂れ下がり、水を含んだ朱色の唇が緩む。
「久しいのう、リオラ!」
火山が人の形をとったような麗人は、破顔するなり薬草園の門扉を押し開け、貴族の気品をまといながらリオラの元へやって来る。
だが雰囲気に反して、伸び伸びとした脚を大股で運ぶ姿は力強い。その歩みに、リオラは知らずのうちに騎士団の行軍を思い浮かべてしまった。
麗人の登場にリオラが息を詰めると、視界が真っ赤に染まった。目眩にも似たおぼつかない感覚と共に、体が浮き上がる。
自分が抱き上げられていると気付いたのは、眼下の麗人と視線が交わった時だった。
「セヴァ様!」
リオラは驚きと歓び、それから少しの制止をこめて、男装の麗人――……セヴァの名を呼ぶ。
しかしセヴァは構わず、右腕をリオラの腰に巻き付け、左腕でリオラの尻を支えたまま、幼子をあやすようにその場でくるりと一回転した。
視界の端で結んだ髪の毛先がひらめくのを見ながら、リオラは
「午後に来るんじゃなかったんですか!?」
と、問いかけた。
「午後? ――ああ。ロベルトの奴め、謀ったか」
セヴァは器用に左眉だけ跳ね上げると、リオラの父の名と共に牙を覗かせ、唸るように笑った。
「些事は気にするな。して、息災か?」
セヴァは割れ物を扱うように、ゆっくりとリオラを地に下ろす。
「はい、この通り元気です」
リオラは足裏で地面の感触を確かめ、安堵がこもった声で答えた。
「セヴァ様こそ、お忙しいのでは?」
「うむ。まあ、忙しいではあるが……」
ため息なのか、セヴァはぷっと息を吹き上げる。目元にかかる長い前髪が、ふわりと揺れた。
常に超然としている彼人にしては、珍しい態度だった。
「どうにも、過去に縋る連中が多くてな。表向きは従っているが、余のやり方が受け入れられぬらしい。これがまた、剣で斬るより厄介なのだ」
「はあ、それは……複雑ですね」
リオラはセヴァが何の話をしているのか分からなかった。
しかしその語り口から、彼人が思いのほか苦労していることを察した。
「どうやって解決するんですか?」
気の毒そうに調子を合わせ、リオラは話を促す。
セヴァは小さく尖った顎をひと撫でし「そうさなぁ」と、続けた。
「真の意味での〝解決〟は、時の流れを待つしかない。それまでは、〝飴〟と〝鞭〟を使って支配するしかないだろう」
「飴と鞭?」
リオラは繰り返し、小首を傾げた。
「頑固な人にそんなやり方をしたら、逆効果になりませんか?」
問いを重ねると、セヴァが再びふっと息を吹き出す。
今度はため息ではなく、黒々とした笑いが含まれたものだった。
「ならば、屈強な硬骨漢も根を上げる痛烈な鞭を振るい、弱ったところでとびきり甘い飴を与えて牙を抜き、虜にするまでよ」
――と、セヴァは言ったところで。
「いかんな。そなたには喋りすぎてしまう。隠し事ができん」
邪悪に細めた目と頬に浮かべた冷たい微笑みを引っ込めて、口をおさえた。
「えっ。あたし、ただ気になっただけでそういうつもりじゃ……」
急に矛先を向けられて、リオラは目を丸くする。両手をぶんぶんと振り場の空気を混ぜ、無実を手振りで訴えた。
「んんー……?」
対するセヴァは喉奥から声を出し、芝居がかった動きでリオラの顎をすくい取った。
真紅の双眸でリオラを見下ろし、視線を全身に絡めていく。
「まったく、この口か?余にいらんことを言わせる、けしからん口は」
彼人の親指が、すり、とリオラの唇を撫でた。
言葉こそ責め立てているが、その声音は腰に響くほど甘かった。
「あ、う……」
女を口説くように言い迫るセヴァに、リオラは羞恥で顔を固くする。
これが彼人の戯れとちゃんと理解しているが、性別を超越した美を自分にだけ真っ直ぐに向けられてしまうと、圧倒されて言葉がまったく出てこない。リオラは弱り、眉根を寄せるしか出来なかった。
「――セヴァ様」
前触れなく、横合いから声が飛ぶ。
声は矢じりに似た鋭さで、誘惑するセヴァと惑うリオラの間を通った。
リオラは反射的にビクリと身を震わせ、声が飛んできた方向へ目線を向ける。
先ほどセヴァが通った門扉に、人の姿があった。
彼人は珍しく、従者を連れてきたらしい。
セヴァとほとんど同じくらいの背丈をした男だった。
彼は丸々と膨らんだ肩を揺らし、しっかりと地に足を着けてこちらへ向かってくる。
(ひぃッ! お、怒ってる!?)
男の荒々しい迫力に、強張りの波がリオラの頭から爪先を駆け抜ける。
セヴァの気安さで忘れがちだが、彼人はリオラよりずっと高い身分だ。
それは、セヴァに仕える従者にもいえる。
ただの小娘が主人に馴れ馴れしく接するのが我慢ならないのだろう――……リオラは俯き、顔を隠した。
「なんだ。ヴェルトナーの倅よ」
「恐れながら、戯れがすぎるかと」
「おぉ、怖い。およそ主人に向ける目ではないな」
リオラは押し黙り、頭上で交わされる会話をただ聞いていた。
従者の厳しい態度に、セヴァは少しも動じていない。
リオラが居心地の悪さを感じていると、とある名前が脳裏をかすめる。
(ヴェルトナー?)
セヴァが口にした家名を心中で繰り返す。朧に思い浮かぶ顔があった。
「見よ。そなたがおっかないせいで、リオラが小さく震えておるぞ」
唐突に名を呼ばれ、リオラはわずかに肩を跳ね上げる。
その拍子に、思い起こした顔は形を作る前に、煙のように跡形もなく消え去ってしまった。
(え、今あたし、呼ばれた?)
急に話題に出され、リオラは戸惑う。
体を小さくして目立たないように控えていたのに、何故呼ばれたのか。
「臆するな、リオラ。顔を上げよ」
どうしていいのか分からないリオラを、セヴァが促す。
「は、はイッ!?」
リオラは顔を上げるなり、声を短くひっくり返した。
目の前に、先ほど頭をよぎった顔があった。
驚きのあまり、思わず指さしそうに浮き上がった腕をリオラは半端に止めて、代わりに心中でその名を叫ぶ。
(ウルシオ・ヴェルトナー様!?)
その名と顔は、シンケリタス学園に通う者なら誰もが知るものだった。
それは彼がヴェルトナー伯爵家の出でである以前に、レオナール王弟殿下の護衛騎士だからだ。
(なんでこんな人がうちに!?)
リオラは言葉を失い、目を瞬かせる。
ウルシオは本来ならば王弟殿下と共に在るべきで、間違っても町医者の薬草園にいていい人間ではなかった。
「なんだ、知り合いか?」
セヴァの冗談めいた声が、リオラの耳を通る。
リオラは少しだけ気を持ち直し、彼人に視線を向けた。
(ヴェルトナー様を従えるセヴァ様の身分って……)
父と母の、セヴァに対する畏まった態度。
セヴァの、立場有る者特有の堂々とした姿。
高価な手土産の数々――……。
これまでのセヴァの振る舞いと周囲の態度が、リオラの頭の中で連なり、繋がっていく。
それが完成して星座のように形を作る前に、リオラは考えるのをやめた。
とんでもない絵が出来そうで、自分の手に余る気がしたからだ。
リオラは現実を直視するのをやめて、空に目を向ける。
自分を呼ぶ母の声が、風に乗って遠く聞こえてきた。




