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2:いつもの朝

 それは七月の半ば、遠い地平線から朝日が滲み広がる朝のことだった。


 アカルヴェイン王国南東――海からさほど遠くなく、内陸の緑が栄えるヴェルドリアの地で、リオラは目を覚ました。

 リオラは屋根裏めいた小さな部屋に置いたベッドから、ゆっくりと上体を起こす。

 眠気が残るとろついた目を手の甲で擦り、両手を前方に突っ張って猫のように体を伸ばした。

 そして、腕を伸ばしたまま万歳をする格好で、バタンとベッドに背中を預ける。

 早朝五時のことだった。


 しばらくしてリオラは潔く跳ね起きた。

 その勢いで頭の芯が揺れると、こびりついていた眠気の多くが飛ぶ。

 リオラはベッドから抜け出し、脇にある小机に置いた水差しを手に取った。洗面鉢へ水を注ぎ、しつこく残ったままの眠気をさっぱりと洗い流す。


 顔と手を麻布で拭ったあと、リオラはパジャマを脱いだ。

 続けて柔らかな麻のブラウスに袖を通し、夏用のジャンパースカートを重ねて着込む。

 最後に、清潔感とくったりとした使用感のある白いエプロンを腰に結んだ。


 いつもの動きやすい格好に着替えたリオラは、今度は小机の抽斗からふちが欠けた手鏡を取り出して顔を覗き込む。

 鏡に映る少女は、ややつり上がり気味の丸い大きな翠の視線をリオラに返し、黒く濃いまつ毛を小鳥の羽ばたきのように瞬かせた。

 貝に似た形の小さいあごの周りでは、黄色がかった暗い緑の髪が横に大きく広がっている。毎晩ちゃんと手入れをしているというのに、この猫っ毛は一度もリオラの思い通りになったことがない。

 リオラは唇の両端を引き結んで不満を鏡に訴えたが、すぐに諦めて麻ひもで髪を一つにまとめた。結んでしまえば、寝癖なんて誰にも分からない。


 身支度を済ませたあと、リオラは換気のために窓を押し開いた。

 部屋に入りこんだ風が、リオラの鼻先をくすぐる。ほんのり含まれた夏の潮気が清々しい。


 窓の外を見渡せば、白や灰黄、蜂蜜色の漆喰壁と、ヴェルドリア伝統の赤瓦で作られた瓦屋根の家々が重なり合う馴染みの風景があった。

 家並みの間には潮風を和らげるポプラの木が点々と続き、葉の間を通り抜けた風がリオラの丸く柔らかな頬の輪郭を優しくなぞる。

 視線を遠くに移すと、まどろみの気配が残るヴェルノの町並みが見えた。

 町の中心には広場があり、聖堂がひと際高くそびえている。まだ柔らかい夏の朝日を受けた聖堂の壁は白く輝き、波を重ねたような深い青色の屋根が、爽やかな朝の薄明りに映えている。

 郊外の方へ目を向けると、人家の数がぽつぽつと減り、やがて青々としたオリーブ畑と山々の冴えた緑が、真っ直ぐな地平線を描いていた。


 リオラは、自分の部屋から見えるこの景色が好きだった。


 王都で働く二人の兄からは、華やかに栄えた街並みについてよく聞かされている。

 自分が通うシンケリタス学園も、きらびやかで賑わいに満ちている。


 美々しく麗らかなそれらを目にしたり耳にしたりするたびに、リオラの胸は高鳴る。

 だが、それだけだ。

 リオラの心を惹きつけて安らぎを与えてくれるのは、この故郷の素朴な景色だけなのだ。


 リオラが同じ年頃の子よりも故郷を恋しく思うのは、シンケリタス学園に入学してからのことだった。

 外に投げた視線を部屋に戻すと、年季の入った机が目に入る。

 開きっぱなしの歴史の教科書と、終わる兆しが無い夏休みの宿題が散らばっている。


 格式高いシンケリタス学園に入学して四ヶ月。

 先祖代々ヴェルノで町医者を勤めるウニヴェラ家は、上位中流階級に位置付けられるとはいえ、住まいも暮らしぶりも労働階級の人々とほとんど変わらない。今日も朝食を済ませたら日課の薬草摘みをして、あとは家業の手伝いをする予定だ。


 そんな自分が、貴族の令息や令嬢に混じって学園生活を送るのは、やっぱり場違いで、肩身が狭い気がしてしまう――……。


 リオラが考え込んでいると、ふと、芳ばしい匂いが微かに部屋へ流れてきた。母がパンを焼き直しているのだ。

 リオラはパンの匂いを胸いっぱいに吸い込んでから、窓を閉める。

 そして階下から漂う朝食の香りに導かれて、ゆっくりと部屋を出た。


 居間兼台所へ降りると、食卓にはすでに朝食が並び、家族が揃っていた。


「おはよう、リオラ」


 最初にリオラに気付いて声をかけたのは、母だった。

 母は厚切りの黒パンを盛る手元から視線を上げると、大きくぱっちりとした目を浅く窪ませて、目尻にきゅっと皺を浮かべる。


「おはよう」


 リオラが母に返すと、席に着いていた父と弟も「おはよう」と続けた。

 年の功を感じさせる低く平らな声と、声変わり中のかすれた声が見事に重なり、リオラは反射的にクスッと微笑む。頬に微笑を浮かべたまま、リオラは二人にも挨拶を返し、椅子を引いて座った。


 忙しく立ち回っていた母が落ち着いたころ、父は読み広げていた新聞を畳んだ。それから眼鏡の奥にある翠色の瞳で、隣に座る妻と向かいの子どもたちを見る。

 父は雄牛のように頑丈で張りつめた広い肩を、ゆっくりと上下させると、みっしりと髭が生える顎を動かした。


「では、いただこう。恵みに感謝を」

「恵みに感謝を」


 父に続いて、リオラたちも繰り返す。

 食事が始まった。


 今朝の朝食は、パンとチーズに、野菜スープとブルーベリーだ。

 リオラはコップに果実水を注ぎ、音を立てずに飲み干した。

 濡れた唇を薄い舌でぺろりと舐め、コップを置いた手でパンを取る。

 パンをスープに浸すかチーズを乗せるか一拍考えたのち、リオラは後者を選んだ。気泡が少なくみっちりしたパンの表面にチーズを乗せ、口を大きく開く。


「今日は午後からセヴァ様がいらっしゃる。午前の診察は早めに切り上げるぞ」


 不意に父がそう言った。


 リオラはパンを口元に近付けたまま、かじりつこうとして開けた口を喋る形に変えた。


「……えっ、セヴァ様が? あたし、聞いてないよ!」


 仰天して声を短く上げたものの、喜びがリオラの心に湧きおこる。


 〝セヴァ様〟というのは、父と懇意にしている男装の麗人だ。

 いつ父と知り合い、どれだけの付き合いなのか分からない。

 しかし、気さくで率直な言動に垣間見える聡明さや、立場有る者特有の堂々とした振る舞い、何より父と母の畏まった態度から、彼人(かのひと)がウニヴェラ家が霞むどころか塵になって吹き飛ぶほどの高い身分だろうということを、リオラは察していた。


 彼人はリオラが物心ついたときから、度々ウニヴェラ家を訪れる。

 加えて奇妙なことに、地下室で父と話をするのだ。


 何を話題にしているのか、リオラは知らない。父と彼人の会話に加わることを母から禁じられていたからだ。

 その母さえも、お茶を出すとき以外は地下室に出入りすることはなかった。


 このように謎の多い人物だが、〝セヴァ様〟はリオラにとって大切な友人だ。

 リオラや弟が幼い頃は、遊び相手になって一緒に外を駆け回ってくれた。

 成長して家業を手伝うようになれば、とびきり美味しくて高価なお菓子とお茶を手土産に、話し相手になってくれた。


 リオラが彼人と最後に会ったのは、シンケリタス学園に入学する前だった。

 彼人に聞いて欲しい思いが、山ほどあった。


「ねえ、リュカは知ってたの?」


 リオラは浮つく声をおさえて、隣に座る弟に身を寄せて問いかける。


「知ってた」


 リュカは目の端でちらっとリオラを見て、素っ気なく答える。

 十二歳になった弟は、年頃のせいか姉につれない態度をとってばかりだ。


「食事が終わったら、地下室を開けておくわ。到着はいつ頃かしら」

「いや、いい。今日はここでやる」


 父は目を伏せて言った。

 母は元より大きな目を大袈裟に瞬かせると、問いたげな眼差しをリオラに向ける。

 リオラは母の訴えを汲み取れず、きょとんとして頭の上に疑問符を浮かべた。


「それは……。それじゃあ、午後の薬の配達は、リオラにお願いするのね」


 母は躊躇いがちに濁しかけた言葉を、思い切るような強い語調に変えて続けた。抑揚が少なくゆっくりとした言い方は、まるで大事なことを言い含めているようにも聞こえた。

 父は首を横に小さく振る。


「配達も午前中に済ませよう。リュカ、頼めるか?」

「分かった」


 リュカが頷くと、父は「悪いが、」と続けた。


「今日はいつもより忙しくなる。朝食を済ませたら、皆動いてくれ」


 話を終わらせ、父は朝食に戻る。ハーブティーを一口飲み下し、音を立てずにカップを置いた。

 これをきっかけに、母とリュカが食事を再開させる。


 リオラも倣い、食べ損ねたパンにかじりつく。硬いパンを噛みしめながら、目だけでそっと家族の様子を伺った。


(なんか……、変なの)


 父と母の会話に、妙な違和感があった。

 それは〝何が〟とは言えない不確かな直感で、リオラ自身にもよく分からない。

 輪郭が曖昧な思いを、リオラはパンと一緒に飲み込む。


 食器同士がぶつかり、こすれ合う音が妙に目立って聞こえる空間で、リオラはいつもより早く朝食を食べ終えた。

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