第93話 もう一度、君の温もりを
「……ん、ううん……?」
まるで寝ぼけているかのような声を漏らしながら、ユティナはゆっくりと目を覚ました。
ぼんやりとした視界に映った天井を見つめ、数秒。
「……あれ?」
見慣れた寮の天井ではない。
まだ霞む頭で周囲を見渡すと、そこはレブン公爵邸の一室だった。こっちに来てから、自分が泊まっていた部屋である。
「私……確か……」
朧げな記憶を辿る。
そうして少しずつ、意識を失う前の出来事が蘇ってきた。
ヴァレリアとゼーグルとの死闘。
そして――ロクサーナの安否。
「……っ!」
それを思い出した瞬間、ユティナは勢いよく身体を起こした。
自分がベッドに寝かされていた事を確認し、さらに周囲へ視線を巡らせる。
その時だった。
「……レイ……?」
ベッドのすぐ傍に置かれた椅子。
そこには、レイモンドが座ったまま眠っていた。
静かな寝息を立てながら、身体を預けるようにして眠っている。
「……」
その姿を見たユティナは、すぐに察した。
きっと、自分が倒れてからずっとここにいてくれたのだ。
付きっきりで看病してくれていたのだろう。
「……そっか。私、気を失って……」
ユティナは小さく呟いた。
ロクサーナを助けに向かおうとした時、レイモンドは何度も自分の身を案じて止めようとしていた。
それでも最後には、ユティナが向かうことを許してくれた。
あの状況では、自分が動くしかなかった。
だからこそ、レイモンドにとっては苦渋の決断だったのだろう。
あの時に見せた彼の表情を、ユティナは今でも覚えている。
心配と不安が、あんな顔をさせてしまったのだ。
「……レイ」
ユティナは眠っているレイモンドを見つめる。
そして、そっと手を伸ばした。
「……心配かけて、ごめんね……」
触れたのは、レイモンドの手。
眠っている彼を起こさないように、ユティナはそっと指先を重ねる。
その手から伝わる温もりに、胸の奥がじんわりと暖かくなっていく。
自分のことを、こんなにも心配してくれていた。
その事実が、今になって改めて胸に沁みてくる。
ユティナは小さく微笑んだ。
「……ありがとう、レイ」
そう呟いて、彼の手をそっと握った。
すると、それに反応するかのように、レイモンドの瞼が僅かに動いた。
「ん……? ユティ……?」
「え……っ!」
やがてゆっくりと目を開くレイモンド。
その視線が、自分へ向けられた瞬間――
「れ、レイ!?」
ユティナは慌てて、反射的にレイモンドの手から自分の手を離した。
まさか起きるとは思っていなかった。
それに何より、眠っている男性の手を握っていたところを見られたことが、どうしようもなく恥ずかしい。
「え、えっと……こ、これは違うくて……!」
ユティナは顔を赤くしながら、必死に言い訳を探す。
「そ、そう! レイの手に虫がいて……!」
「……」
苦しい。
あまりにも苦しい言い訳だった。
どう考えても今の状況で信じてもらえるはずがない。
本人もそれを自覚しているのか、ユティナは見るからに慌てふためいていた。
しかし、レイモンドは、そんなユティナの言葉を気にした様子を見せなかった。
それどころか。
「えっ……?」
離れていったユティナの手を、レイモンドがそっと掴む。
「レ、レイ……?」
そのまま、ぐっと自分の方へ引き寄せられる。
「えっ……?」
突然のことに、ユティナは何が起きたのか理解できず、されるがままになった。
そしてレイモンドは、ユティナを抱きしめた。
「……っ」
何も言えず、固まるユティナ。
そんな彼女を抱きしめたまま、レイモンドの口から、ぽつりと言葉が零れる。
「……よかった」
たった一言。
けれど、その短い言葉には、どれほどの想いが込められていたのだろう。
ユティナが無事だったこと。
こうして、自分の目の前にいること。
それを確かめるように、レイモンドはしばらくユティナを離そうとはしなかった。
その「よかった」という言葉は、ユティナの身を案じ、ずっと心配していた者だからこそ出てきた、心からの安堵の言葉だった。
レイモンドは、あの時のことを思い出す。
クローウェアウルフへと変貌したボーレック盗賊団の討伐を終えたレイモンド達は、すぐさまユティナの後を追った。
聖霊獣ジークが、霊獣王たるユニコーンの存在を感じ取った場所へ。
そこを目指して森の奥へと進んでいくと――やがて、彼らは二人の少女の姿を見つけた。
地面に倒れているユティナ。
そして、そのすぐ近くでは、ロクサーナが木を背にして座り込み、意識を失っていた。
さらにユティナの傍らには、ブレアが膝をつき、治癒魔法を施している。
「ユティ!」
姿を確認したレイモンドは、すぐさま駆け出した。
レイモンドはユティナの元へ。
一方、カナリーとレブン公爵は、ロクサーナの元へと駆け寄る。
「お嬢様!?」
「ロクサーナ!?」
二人は慌ててロクサーナの様子を確認する。
目立った傷はなく、ただ静かに目を閉じ、まるで眠っているかのように木へもたれかかっている。
「ロクサーナ、目を開けてくれ……!」
レブン公爵は、娘の肩に手を添えながら必死に呼びかける。
「お嬢様……どうか、意識を取り戻してください……!」
カナリーもまた、祈るように声をかけるが、ロクサーナは何の反応も示さない。
「ロクサーナ……!」
「お嬢様……!」
呼びかけても目を覚まさない。
その事実に、二人の表情から次第に余裕が失われていく。
そんな二人を落ち着かせるように、治癒魔法を続けていたブレアが口を開いた。
「ご安心ください。ロクサーナ様はご無事です」
「……え?」
「意識を失っているのは、どうやら魔法によって眠らされているだけのようです。身体にも目立った外傷はありません。じきに目を覚ますでしょう」
「そ、そうなのですか……?」
ブレアの説明を聞いたレブン公爵は、ようやく張り詰めていた息を吐き出した。
「はぁ……無事なら……よかった……」
「お嬢様……」
カナリーもまた、安堵の表情を浮かべる。
二人はそこで初めて、ロクサーナが無事であることを確信したのだった。
「ロクサーナ様が無事なのも、ハーリットさんが守ってくれたお陰です」
ブレアのその言葉に、レヴン公爵とカナリーはユティナへと視線を向けた。
そして、その姿を目にした瞬間、二人は息を呑む。
レイモンドもまた、ユティナの前で呆然と立ち尽くしていた。
レイモンドは、彼女の姿を見た瞬間に血の気が引いていた。
ユティナに目立った傷はない。
ブレアによる治癒魔法によって、負った傷そのものはすでに塞がれている。
だが、衣服までは元には戻らない。
身に纏っていた服は無数に切り刻まれ、至る所が裂けていた。切り裂かれた箇所には血が滲み、白かった布地を赤く染めている。
そして何より、ユティナは意識を失ったまま、顔色もひどく悪かった。
「ブレア様……ユティは……?」
レイモンドの声が震える。
その問いに、ブレアは落ち着いた口調で答えた。
「ハーリットさんが負った傷は、すべて治しました。しかし……重度の魔力欠乏症に陥っています」
「魔力欠乏症……」
「はい。応急処置は済ませていますので、命に別状はありません。ただ、かなり無理をしたのでしょう。今は一刻も早く休ませた方がいいでしょう」
その言葉を聞いた瞬間、レイモンドはユティナの前にしゃがみ込んだ。
そして、壊れ物を扱うように、そっと彼女の身体を抱き上げる。
「レヴン公爵……」
レイモンドが顔を上げる。
その声に含まれた意図を察したレヴン公爵は、すぐに頷いた。
「ええ。急いで屋敷へ戻りましょう」
こうしてレイモンド達は、ユティナとロクサーナを連れて、すぐにレヴン公爵邸へと戻った。
その後、ユティナは屋敷で治療と休養を続けた。
しかし、彼女が目を覚ますことはなかった。
一日と二日、そして三日目。
ユティナは丸三日間、一度も目を覚ますことなく眠り続けた。
ユティナが、もう二度と目を覚まさないのではないか。
そんな考えが頭をよぎるたび、レイモンドの思考は悪い方へ、悪い方へと引きずられていった。
そして、そのたびに思う。
ユティナがこんなことになったのは、自分のせいなのではないか、と。
あの時、動けるのがユティナしかいなかった。
だからこそ、ロクサーナの救出をユティナに任せるしかなかった。
――本当に、それでよかったのか?
ユティナを向かわせずとも、他に方法があったのではないか。
もっと別の選択をしていれば、ユティナが傷つくことはなかったのではないか。
そもそも、自分の判断そのものが間違っていたのではないか。
答えの出ない問いが、何度も何度もレイモンドの中を巡り続ける。
けれど、そんな後悔の中で、レイモンドが最後に願うことは、いつも一つだった。
――どうか、目を覚ましてほしい。
それだけだった。
その願いを、レイモンドはこの三日間、ずっと抱き続けていた。
そして今、目の前には目覚めたユティナがいる。
その姿を見て、どれほど安堵したのか。
どれほど怖かったのか。
自分でも分からないほど、張り詰めていた感情が一気に溢れ出してくる。
気がつけば、レイモンドはユティナを強く抱きしめていた。
それは、ただ無事を喜んだからではない。
腕の中にある温もりが、本物なのか。
目の前にいるユティナが、本当に生きているのか。
それを、自分自身で確かめずにはいられなかったのだ。
「……よかった……本当に……」
震える声が、ユティナの耳元で零れる。
ずっと願い続けていた。
どうか、もう一度その瞳を開いてほしいと。
どうか、自分の前からいなくならないでほしいと。
その願いがようやく届いたことに、レイモンドはただ、ユティナの温もりを確かめるように抱きしめ続けていた。
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