第41話 聖女とは?
静密の森、その最奥。
鬱蒼とした木々に囲まれた岩壁に、まるで大地が口を開けたかのような洞窟の入り口がぽっかりと穿たれていた。
それこそが――静密の森のダンジョン。
低レベルに分類されるダンジョンでありながら、そこから滲み出る空気は重く、冷たく、確かな危険を孕んでいる。
命を呑み込む場所であることに、違いはなかった。
その入り口の前に、二人の男が立っていた。
黒いローブを深く纏い、顔の輪郭すら闇に溶かすように身を隠している。
「……どうやら、あの魔物――インフェルノベアーは倒されたようだな」
低く抑えた声に、もう一人の男が息を呑む。
「まさか……!? あれはAランクの冒険者パーティですら苦戦する相手だぞ。高ランクの冒険者が、この森に迷い込んでいたとでも言うのか?」
「それは考えにくい」
先ほどの男は、淡々と否定する。
「この森は、あの学園が管理している。関係者以外の立ち入りは不可能だ。だからこそ、我々はこの場所を選んだのだろう?」
「……確かに。だが、だとすると――」
男は言葉を濁し、喉を鳴らす。
「インフェルノベアーを討ち取った者が、あの学園の中にいるということになる……」
「そう考えるのが自然だ」
「しかし……いるのか?いくら名門とはいえ、子供が倒せる相手じゃない」
一瞬の沈黙。
そして、もう一人の男が静かに口を開いた。
「生徒ではないだろう……」
「……剣姫、アニヤ・オーヴェンスか」
その名を口にした途端、空気がわずかに張り詰める。
「確かに……彼女であれば、あの魔物を斬り伏せていても不思議ではない。私も、最初はそう考えた。だが――インフェルノベアーが倒されていた地点を調査した結果、そこには剣技だけでは説明のつかない、強大な魔法が行使された痕跡が残っていた」
男は続ける。
「あの学園には聖女も在中している。今、最も“大聖女ソディナ”に近いと噂される女がな」
「……厄介だな」
短く吐き捨てるように言い、男は問いかける。
「それで、これからどうする?」
「ここでの実験は終わりだ」
即答だった。
「インフェルノベアーが討伐されたこと自体は問題ではない。今回の目的は、あくまでこの地でそれが発生するかどうかの確認にある」
「だが――」
言いかけた言葉を遮るように、淡々と続ける。
「倒せる者が存在する以上、警戒は必要だ。今後の計画のためにもな」
男はゆっくりと洞窟から視線を外す。
「次の段階へ移るぞ。……もう、ここに用はない」
「フフッ……そうか」
もう一人の男が、愉しげに喉を鳴らす。
「ならば――これで聖王国の人間も……」
言葉の続きを口にすることなく、二人は踵を返した。
黒いローブが闇に溶け込み、やがてその姿は森の奥へと完全に消えていく。
静密の森は、何事もなかったかのように沈黙を取り戻した。
しかし――確かに、見えない歯車は回り始めていた。
⸻
初めての野外実習から数日が過ぎ、教室にはあの時のざわめきもすっかり薄れていた。
午後のやわらかな陽光が窓から差し込み、静かな空気が満ちている。
その光を背に、ユティナは机に突っ伏したい衝動を必死にこらえていた。
午後の授業――
それは生徒にとって、集中力と睡魔が真っ向からぶつかり合う、最も過酷な時間帯である。
「ねぇ、ユティ」
隣の席から、ひそやかな声。アルマが身を寄せるようにして囁いた。
「ん? なぁにアルマ?」
「そういえばさ……ユティ、マリアベルさんと仲良くなったよね?」
「え? そうかな?」
「そうだよ。前よりよく話してるし、なんかユティに対するマリアベルさんの態度優しいもん」
「えー、そうかな? いつも通りだと思うけど。それに話だって前からしてたよ? ほら、向こうからよく話しかけて来てたじゃん」
「あれはそう言う意味じゃ無かったと思うけど……」
「え? どういう意味?」
ふたりが小声でやり取りしていると――
「ハーリットさんッ!」
雷のような声が教室を震わせた。
発したのは、ふくよかな体型に黒縁メガネをかけた修道服姿の女性――ネルヴィ・マルネス先生。
歴史学担当にして、“歴史上の人物愛”が止まらない熱血教師である。
「授業中ですよ! お喋りは禁止と何度言ったら分かるのですか!」
「す、すみません……っ!」
ユティナは思わず姿勢を正す。
その隣でアルマが(ごめん!)と全力でジェスチャーしていた。
「ハーリットさん、今はとても大事なお話をしていたのですよ!」
ネルヴィ先生は胸に手を当て、声を高める。
「貴女達のように聖女を目指す者にとって、“ソディナ様”を理解することは何より重要なのです!」
「は、はい……」
「ハーリットさん、聖女を目指す上で――貴女は“ソディナ様”をどう思っていますか? そして、どう感じているのですか?」
隣のアルマは(ユティ、絶対変なこと言っちゃダメ!)と両手で×印を作る。
後ろの席では、マリアベルも密かにハラハラと様子を伺っていた。
「えっと……ソディナ様、ですか?」
「そうです!」
ネルヴィ先生の目が輝く。
その瞳は、もはや“信仰の光”と呼んでも差し支えないほどに熱かった。
――そう、ここからがいつもの“長い”時間だ。
「大聖女ソディナ様! 彼女こそが、かつて魔王を勇者と共に討ち倒し、この世界に平和をもたらした偉大なる御方! さらに、後進のためにレディア聖院女学園を創設なさった、聖女中の聖女! まさに慈愛と献身の象徴っ! ソディナ様なくして、この世界の平和は――!」
(あ、始まった……)
クラス中の生徒が一斉に項垂れる。
“ネルヴィ先生のソディナ講義モード”は、一度始まると止まらない。
「――というわけです。分かりましたね、ハーリットさん?」
「は、はい……」
「では、改めて伺います。ハーリットさん。貴女にとって“ソディナ様”とは、どういうお方ですか?」
(ユティ、頼むからまともに答えて……!)
アルマは胸の前でぎゅっと手を組み、祈るように見守る。
ユティナが乾いた笑みを浮かべると、ネルヴィ先生の目が鋭く光る。
(ソディナ様、かぁ……。うーん、勇者と一緒になって私を殺した相手……。私からしたら、殺された嫌な記憶しかないんだよなぁ……強いて言うなら――)
ユティナはぽつりと呟いた。
「……クソ野郎?」
――ピシッ。
その一言が落ちた瞬間、教室の空気が凍りついた。
誰もが息を呑み、時間が止まったかのように静まり返
る。
窓の外の風すら、音を失ったように感じられる。
ペンを走らせていた生徒の手が、途中の文字を残してぴたりと止まった。
――完全な沈黙。
ただ、ユティナの声だけが、まだ空間に残響していた。
「く、く……く、くそ……? くそ……? クソ野郎……?」
ネルヴィ先生の顔が引きつり、眼鏡の奥の瞳が震える。
その声はだんだん裏返りながら、どんどん高くなっていった。
隣のアルマは頭を抱え机に突っ伏し、マリアベルは顔を両手で覆う。
「ユティナ・ハーリットさんッ!!!!」
「ひゃいっ!?」
「あなた今、何とおっしゃいましたか!?」
「え、えっと……“すごい人”って言おうとして、ちょっと噛んじゃったっていうか……てへっ☆」
「てへっ☆じゃありませんッ!!!!」
教室中にネルヴィ先生の怒号が響き渡る。
「ち、違うんです先生! えっと、その……違う意味でクソ野郎っていうか……あの、尊敬の念を込めて……!」
「尊敬の念!?」
ネルヴィ先生の声が跳ねる。
「え、えーっと、“クソ”って、こう、圧倒的すぎて“クソすごい”って意味の“クソ”で――」
「それは俗語ですっ!!」
先生の怒号が響き、ユティナの言い訳は爆散した。
「ハーリットさん……ソディナ様を俗語で称えるなど……!」
ネルヴィ先生は両手で胸を押さえ、崩れ落ちそうになる。
「ひぃぃ……っ! ち、違うんです! わ、私そんなつもりじゃ……!」
(ま、まずい! このままじゃ間違いなくお説教コースだ! 考えろ私、何とか切り抜けるのよ!)
心の中で焦りながら、ユティナは必死に記憶を掘り返す。
(たしか、私……魔王だった頃、ソディナ本人に会ったことがあったよね……? あのときのアイツ……胸、でかかったなぁ。それに“聖女”って言いながら、あの服……めちゃくちゃ身体のライン出てたし……。今考えると、肖像画の“清楚な聖女”イメージと全然違うじゃん……! ってことはつまり……!)
ユティナの脳裏に電撃が走る。
「あ、あのっ! 私、本当はソディナ様のことを……っ!」
教室中の視線が一斉にユティナへと集まる。
息を呑む音が、やけに大きく響いた。
「……エロい女だと思ってましたーーーッ!!!」
沈黙。
(エ、エロい……!?)
(エロいんだ……!)
(聖女が、エロい……?)
(な、なんか……ドキドキしてきたわ……)
教室内に、言葉にならない熱気が広がる。
笑いを堪える者、頬を染める者、遠い目で妄想に沈む者――反応はカオスだった。
「エ、エロっ…… !?」
ネルヴィ先生は絶句し、顔を真っ赤に染めると、ついに爆発した。
「ハーーリットさんッ!! 放課後、職員室に来なさいッッッ!!!」
雷鳴のような声が教室中に響き渡る。
ユティナはがっくりと肩を落とし、隣のアルマへと縋るような視線を送る。
「アルマぁぁぁ……助け……」
だが、アルマはただ静かに目を閉じ、ゆっくりと首を横に振った。
――無慈悲な拒絶。
ユティナは崩れ落ちそうになりながら、心の中で叫ぶ。
(終わったぁぁぁぁぁぁぁ!!!)
マリアベルはその様子を見つめながら、そっと額を押さえる。
(……貴女は一体何をしているのですか、ユティナさん……)
午後の教室には、まだネルヴィ先生のソディナ愛と、ユティナの絶望が混ざり合った空気が漂っていた。
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