誘拐
――カリンちゃんを怒らせた。
カイルの心はそれで埋め尽くされていた。
何度も扉を叩いた。手が痛みを訴えていても構わず叩き続けた。
しかし、カリンは何も答えてくれない。それどころか反応一つしない。まさに聞く耳を持たないという状態だった。
次第に喉は涸れ、カリンを呼ぶという気力も失っていった。
身体は疲れ果て、休息と食事を訴えていた。
カイルは窓の外を見て、「もうこんな時間か」と思わず呟いた。
外の様子は既に喧噪がなくなり、昼時を過ぎていた。道理でお腹が減るはずだとカイルは自嘲した。
カイルは悩んだ末に、カリンの傍から離れる決意をした。今は頑なになって何を言っても聞いてくれない、そんな感じがしていた。
そしてカイルは、何かあった時のため、と渡されている資金を持ち外に出た。体力を戻すためにも食事を取る必要がある。
カイルは人がまばらになっている露店通りを歩いていた。
香ばしい匂いを漂わせている店は少ない。既に昼時は過ぎているので、店は閉店の作業をしていた。
中には作業をしていない者もいるが、彼らは食材や民芸品、もしくは夜にも店を出す者たちに違いない。
これではせっかくの外食も期待できない。
上手くいかない日は何をやっても上手くいかない。そんな諦めに似た気持ちで露店を巡っていると、何とか直ぐに食べられる串焼きの店が残っていた。
(あまり美味しくないなぁ)
カイルは味気ない食事に辟易とする。
冷めてはいるが以前食べたときは、それなりに美味しいと感じられた物。なのに今はそれほど美味しいとは思えない。
腹を満たすという目的は達したが、なんとなく損をした気分になる。
肉にも当たり外れがあるのかと、カイルは首をかしげてしまった。
そんなとき、「おいっ」と背後から野太い声がした。
誰かを呼びかけているのだろう。ぼくじゃないよね。聞いた事ない声だからそれは違うと否定する。
さあ、腹を満たした事だし、早くカリンちゃんの元に戻らないと。そしてもう一度話し合って、ぼくの気持ちをわかって貰わないと、とカイルは決意を胸に秘める。
ふと、視界にジェノバが写り込んだ。彼女には世話になっている。帰る前に一言挨拶を、と歩き出した途端――。
「おいっ! 小僧待てよ、コラァ!」
いきなり肩が掴まれる。イタっ。がなり立てる声の主が力を込めすぎて、カイルの肩は痛みを感じていた。
カイルはそれを振り払おうとする。しかしビクともしない。カイルの細腕ではそれをすることは叶わなかった。それどころか、グイッと身体を反転させられしまった。
目の前には厳つい男の顔。30歳半ばと言ったところだろうか。父のライルよりも少し若い男であった。
「手間掛けさせやがって……おめぇがカイルか?」
男の口から出た声は自分の名前であった。これは縦に頷いてはいけない。そんな危険信号が本能から発せられていた。
「違う」と言い掛けたところで、男の後ろからほっそりとした男がさらに現れた。
「アラド。間違いない、そいつがカイルだ」
無情なことに少し高めの声がカイルの思惑を阻んでしまった。
警鐘がさらに鳴り響く。まずい。このままでは何か嫌な事が起こる。直ぐにでもこの場を立ち去らないといけない。
カイルは強引に腕を払い逃げだそうとした。
ところが――。
「ゴホッ!」
腹に衝撃を受けた。強く、重く、そして堅い一撃。ガタイのいい男――アラドが繰り出した拳が、カイルの腹に沈み込んでいた。
い、いつの間に……、息が……。
カイルは呼吸ができず、その場にうずくまってしまう。
カイルには男がいきなり現れた様に見えた。だが、男は大きな歩幅でカイルに追いつき、そして回り込んで攻撃をしただけだろう。
カイルは薄れる意識の中で、カリンが泣いている姿が思い浮かんだ。
(カリンちゃん……ごめん……)
カイルの目覚めは冷たい水に寄る物であった。
寒い。水を吸い込んだ衣服が、より一層寒気を感じさせる。ピチャッピチャッと水が落ちる音が聞こえる。
意識がはっきりしてくると、水を掛けられたということがわかった。
身体を動かそうにも、それはできなかった。首は動くみたいだ。カイルはきょろきょろと見回し、自分の状態を確かめることにした。
カイルの身体は縄でぐるぐる巻きにされ、何かに括り付けられていた。これでは動きようはずもない。
(ぼくは……攫われた!?)
意識を失う前と、現状から推測するとそうとしか思えない。
あまりの状況の推移に、大声を上げ、喚き散らしそうになってしまう。まさに混乱の最中にあった。
しかし、それでも声を出さないのは、男の意地以外何物でもなかった。
「ゴルタールさん、起きたようですぜ」
辺りが暗くてよくわからなかったが、誰かいるようだ。放置されていると言うことではないらしい。
声も聞き覚えがある。あのゴッツイ男と一緒にいた男だ。
(ぼくを誘拐したやつらだ!)
カイルは目を細め、声のした方向を睨み付ける。すると……確かに人影があるように感じられた。しかも、一人というわけではない。
1、2、3、4、5……。少なくとも10人以上いるのは確実だった。それ以上は暗くて判別がつかない。
思わず悲鳴が出てしまいそうになる。
誘拐した以上、カイルをどうこうするつもりは無いと高をくくっていたが、予想以上の人の多さに挫けてしまいそうだ。
それにカイルは男が発した『ゴルタール』という名前に聞き覚えがあった。確か――『グリードリ』商会のフェルラースの代表。怖い雰囲気を纏った老人であったはず。
コツン、コツン、コツン
誰かが近づいてくる。少し甲高い音だ。靴底が堅いのか、それとも――。
コツン、コツン、コツン
やがて音は止まり、カイルの目には一人の老人が移されていた。
――ゴルタール。
間違いなく彼の老人であった。
「また会ったのぅ。お互いのためにも、会わないという状況が望ましかったのじゃが。
まぁ、過ぎた話じゃ。詮のない事よのぅ。
ん? 話せんのか? 何か言ったらどうかね?」
「ぼ、ぼくに何の用ですか!」
老人から放たれる威圧は以前と変わらぬ物があった。いや、かつてよりも近くで対面しているせいか、それ以上に感じられた。
カイルはそれを感じ、思わずガタガタと身体を震わせてしまう。もし、括り付けられていなければ膝をついてしまっていた事だろう。
「ふむ、用というか……聞きたい事があるだけじゃよ。
おぬしたちが捌いている砂糖……は、まぁ、よかろう。規模も弁えているし、多少、わしらに納めて貰えば水に流そうじゃないか」
ゴクリ。カイルは喉が震えた。
「じゃが、果糖、といったかのぅ。あれはダメじゃ……。最初は砂糖のまがい物かと思っておったから見逃してきた。
けれど、お主たちは砂糖を売るのと同時に、それを売るのを止めた」
「さ、砂糖の方が利益が高いからですよ!」
その発言に、ゴルタールはジロリと睨み付け、じっくりとこちらを観察してきた。
「ふむ……嘘は言っちゃいかんぞ、嘘は……。
まあ、完全に嘘、と言う訳でもなさそうだが。それでも事実じゃないとわしの勘は言っておる」
「勘とか……そんなの当てずっぽう――」
「カァーーーーッ!」
ゴルタールの口から放たれた音は、風と共にカイルに襲い掛かった。
耳がキーンとするし、つばも飛んできて汚いや。なんて声を出すんだゴルタールのやつ、とカイルは恨みがましげにゴルタールを睨み付ける。
「もう一人の娘が言った言葉を覚えておらんのか!
あやつがわしを勘で怪しいと決めつけたではないか!」
『商売人の勘』、彼女がそう断じたのは記憶に新しい。それと共にあくどい事をしているから、気を付けなさいと言われたのも思い出す。
『なるべく一人で行動しないように』
とカリンはそう言っていた。
しまった! ついうっかりしていた。カリンとの事があったため、そんな注意など忘れ去っていたのだ。
「――まぁ、よい。そんなことはどうでもな。
じゃが、ザラザラとせず、滑らかな甘いクリームを作り出せる、あの果糖を独占することは許さん」
「ゆ、許さないからって……どうするんですか! ぼくたちが作った物です。なら、ぼくたちの好きにしていいじゃないですか!」
ゴルタールは「ふむ」と頷き、父が「これはしてはいけない」と言っていた時の表情を浮かべた。
「おぬしの様な子供じゃ、わからぬのも無理はない事かもしれぬのぅ。
国の発展のために秘匿してよい知識と、悪い知識があるのじゃ。これをすることは国賊と言われても仕方のない事なのじゃ。
わしらはおぬしらのためを思って言ってあげてるのじゃよ」
「さ、砂糖を独占してる『グリードリ』商会だって国賊じゃ――」
カイルがその言葉を吐こうとした瞬間、ゴルタールの後ろに控えていた影が動く。
「ぐっ、うぅぅ」
影はカイルを殴りつけた。
殴られた頬がじんじんと痛みを発している。
(よかった……口の内は切れていないや)
口内が切れたり、荒れたりした場合は美味しく食事が取れない。
こんな情況で何を……と言われるかも知れないが、それがカイルなりの現実逃避であった。
カリンとの喧嘩を含め、あり得ないことの連発。とても現実味が沸いてこないのだ。
「相変わらず舐めたことを言っているようですね」
影が口を開く。ゴルタールやごろつきたちと比べれば随分若い声のようだ。
カイルは痛みをこらえ、歯を食いしばり顔を上げる。するとそこには見たことがある顔があった。
――ダンストン。
フェルラースで家を借りるとき、カリンを女性だと見下していた男だ。
そのダンストンが何故ここに……。
「相も変わらずむかつく顔ですね。『何で自分が……』『どうしてこんな目に』などと考えてませんかね?
そんなの当たり前なんですよ。あなた方の様なクソガキ……おっと失礼。女子供、それも田舎くさい者は搾取されて当たり前なのですよ」
「そ、そんな理由で――」
カイルが言葉を続ける前に、再びダンストンは拳を振るった。
痛みで涙が滲んでくる。
鼻を殴られたせいか、たら~っと血が滴れ落ちてくる感触すらあった。
「口答えなどせずに、聞かれたことだけ答えればいいのですよ。
そもそも対等に話せる立場だと思っているのですか? ゴルタール様はおろか、この私にさえ直答することなど本来許されないのですよ?
それを……、それを! こんなガキどもに!」
ダンストンは何故か激高し拳を振り上げる。そしてそのままカイルを滅多打ちにした。
痛い。痛みでどうにかなって、しまいそうだった。
やめて、と何度も慈悲を請うた。それでもダンストンは攻め手を緩めなかった。
このままでは殺されてしまう、とカイルは思った。
やがて、カイルはダンストンの暴力の前に意識が朦朧としてきた。既に痛みもない。それに伴い、ダンストンに懇願することもなくなっていた。
カイルは何故こうなってしまったのだろうと考え、一日を振り返っていた。
思いつくことはただ一つ。カリンと喧嘩して一人で外に出たと言うことだけ。
過去に帰れるならば、あの時点に戻りたい。戻ってカリンに謝りたい……。
(あれ? でも……なんで喧嘩してたんだっけ?
ぼくがカリンちゃんの意見を否定して、カリンちゃんが怒って……)
あのとき何を話していたのか、段々と考えられなくなっていった。
思考が定まらなくなったことで、やることがなくなってしまった。そこでダンストンが叫んでいる事が気になり、耳をすました。
「なんで私が」とか「解雇とかありえない」とか言っている様だ。
耳もキーンとしていてよく聞き取れなくなっている。
その後ゴルタールが動き、ダンストンの肩を叩いたのを見届けた所でカイルの意識は途切れた。




