↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/9

紅い夜




空は、深い紫と青が混ざり合った色に染まり、無数の星の欠片が静かに瞬いていた。


森の奥深く。


木々が重なり合い、濃い影を落とすその場所で、幼いオズミは小さな弓を握りしめていた。


大きな瞳は、目の前に立つ父――ナシへと向けられている。


ナシは微動だにせず、じっと前方を見つめていた。


その視線の先には、まだ姿を現していない獲物がいる。


「静かにしろ、オズミ……集中するんだ」


ナシは低い声で囁きながら、ゆっくりと弓を引いた。


木の幹の陰に、一匹のウサギが身を隠している。


オズミは息を止め、緊張しながら父の動きを見守った。


オズミにとって、狩りはどこか遊びのようにも思えた。


それでも、父が狩りを真剣にしていることは分かっていた。


次の瞬間――


矢が放たれた。


鋭い音とともに矢は空気を切り裂き、ウサギの体を射抜いた。


ウサギはその場に倒れ、動かなくなった。


ナシは満足そうに微笑み、息子へ振り返った。


「これで夕食は確保できた。帰ろう。もう遅い。」


「うん、父さん!」


オズミは嬉しそうに答え、獲物を拾い上げた。


その顔には、明るい笑顔が浮かんでいた。


二人は土の道を歩き、森の中を家へと戻っていく。


夜の音が二人を包んでいた。


木々のざわめき。


枝の間を通り抜ける風の音。


やがて、小さな家が見えてきた。


その時――


ナシが突然、足を止めた。


家の入り口に、一人の男が立っていた。


まるで、誰かを待っているかのように。


「ジロウおじさん!」


オズミは嬉しそうに声を上げると、赤い髪と険しい顔つきをした男へ駆け寄った。


そして、その男に抱きつく。


ジロウは微笑んだ。


しかし、その瞳の奥には何かが隠されていた。


それに気づいたのは、ナシだけだった。


「久しぶりだな、ナシ。」


ナシは一瞬、その場に立ち尽くした。


そして、ジロウのもとへ歩み寄る。


「二年ぶりくらいか……。入れよ。飯でも食いながら話そう。」


三人は家の中へ入った。


そこではヒナが、温かな笑顔で彼らを迎えた。


夕食を終えると、ジロウとナシは向かい合って座り、昔の話をしていた。


オズミも二人の会話を興味深そうに聞いている。


「今までどこにいたんだ?」


ナシが尋ねる。


ジロウは小さく笑った。


「覚えているか?……俺の夢は道場を開くことだった。」


ナシは少し考えた後、昔の記憶を思い出した。


「ああ……そうだったな。」


ジロウは誇らしげに続ける。


「ようやく、その夢を叶えたんだ。」


「おめでとう。」


ナシはそう言って杯を上げた。


しかし、その穏やかな時間は長くは続かなかった。


「ジロウおじさん! 父さんがすごい剣の技を教えてくれたんだ!」


オズミが嬉しそうに会話へ割り込んだ。


ジロウは笑った。


「本当か? なら、見せてみろ。」


だが、オズミが技を見せる前に、夜はすっかり深くなっていた。


空には雲が集まり始めている。


まるで、何か重い秘密を覆い隠すかのように。


夕食の後。


ジロウはしばらく黙っていた。


そして、静かな声で口を開く。


「ナシ……一つ、聞きたいことがある。」


ナシはジロウを見る。


空気が変わった。


それを感じ取っていた。


「……何だ?」


ジロウは深く息を吸い、真剣な表情で尋ねた。


「……まだアラシの巻物を持っているのか?」


その瞬間、空気が凍りついた。


ナシの表情が固まる。


一瞬だけ視線を落とし、それから顔を上げてヒナを見る。


ヒナはすぐに何かを察した。


彼女は立ち上がり、オズミの手を取った。


「おいで、オズミ。もう寝る時間よ。」


しかし、それはただの寝る時間ではなかった。


ヒナはオズミを家の地下にある隠し地下室へ連れていく。


木製の扉を開ける。


そして、できるだけ平静を装いながら、恐怖の混じった声で言った。


「ここにいて……何があっても、絶対に声を出さないで。」


オズミは不安そうに母を見つめる。


ヒナは彼の目を見つめた。


「必ず迎えに来るから。約束する。」


オズミは暗闇の中に立ち尽くした。


困惑と恐怖が胸を満たしていく。


ヒナは扉を閉め、急いでその場を離れた。


何が起きているのか。


なぜ、突然こんなにも空気が変わったのか。


オズミには何も分からなかった。


ただ一つ――


この夜が、両親を見る最後の夜になることを、彼はまだ知らなかった。


---


地下室の暗闇の中で、オズミは一人立っていた。


心臓は激しく鼓動し、頭の中は疑問でいっぱいだった。


なぜ母は、突然あんなことを言ったのか。


なぜ、何があっても声を出してはいけないのか。


何かがおかしい。


空気そのものが、先ほどまでとは違っていた。


一方、家の外では、ナシとジロウが向かい合っていた。


二人の会話は、もはや昔の友人同士のものではなかった。


ジロウには、どうしてもナシに伝えなければならないことがあった。


しかし、それを口にすれば、すべてが変わってしまうことも分かっていた。


ジロウはナシを見つめる。


その声は冷たく、強い圧力を帯びていた。


「アラシが必要なんだ、ナシ。」


ナシは動かなかった。


その言葉が、胸を直接貫いたかのようだった。


冷たく鋭い目が、戦う覚悟を示している。


「ダメだ……。お前に渡すわけにはいかない、ジロウ。俺たちは皆、ここまで来るために苦しんできた。」


「俺は許可を求めているんじゃない、ナシ。」


ジロウの声が低く響く。


「お前と戦いたいわけじゃない。だが……これを終わらせるためには、アラシが必要なんだ。」


ナシの胸に迷いが生まれる。


しかし、それを表には出さなかった。


「それでも、渡すわけにはいかない。アラシはただの力じゃない……呪いだ。」


だが、ジロウは退かなかった。


一瞬でナシとの距離を詰める。


「なら……俺に選択肢はない。」


次の瞬間――


二人は激しくぶつかり合った。


刀と刀が交差する。


鋭い金属音が、夜の静寂を切り裂いた。


次々と斬撃が繰り出される。


ジロウは圧倒的な力を持っていた。


鍛え上げられた肉体と、卓越した剣技。


その一撃一撃は、ナシの命を奪うほどに重かった。


一方、ナシは素早く、正確に動き続けた。


致命的な攻撃を紙一重でかわしながら、反撃の機会を探している。


激しい攻防の中、ジロウが一瞬だけ動きを止めた。


その声は硬かった。


「……すまない、ナシ。だが、もう後戻りはできない。」


ナシは荒い息を吐いていた。


小さな傷から血が流れている。


それでも、倒れなかった。


「お前がそうするなら……俺にも、選択肢はない。」


再び刀が激しくぶつかり合う。


そして――


ジロウの一撃が、ナシの胸を捉えた。


ナシの動きが止まる。


ゆっくりと膝をついた。


その瞳には、衝撃と信じられないという思いが浮かんでいた。


体は痛みに耐えきれず、崩れ落ちていく。


それでも、震える手で刀を握り続けていた。


「お前は……俺の兄弟だった、ジロウ……。」


ナシは苦しそうに呟いた。


その目には涙が浮かんでいた。


「俺は……こんなこと、望んでいなかった。」


ジロウの瞳にも、わずかな後悔が浮かんだ。


しかし、もう引き返すことはできなかった。


戦いは、すでに取り返しのつかないところまで来ていた。


その時――


遠くから声が聞こえた。


ヒナの叫び声だった。


ジロウの足が一瞬止まる。


振り返ると、ヒナが恐怖に満ちた目で二人のもとへ駆けてきていた。


だが、もう遅かった。


ヒナの叫び声に気を取られた一瞬。


ナシの隙を突き、最後の一撃が放たれた。


刃が彼の胸を貫く。


血が宙へと飛び散った。


ナシはその場に倒れた。


その体は、最後の瞬間までかすかに震えていた。


「ナシ……!」


ヒナは心の底から叫んだ。


声を震わせながら、夫のもとへ駆け寄る。


しかし、もう何もできなかった。


その瞬間、すべてが暗闇に包まれた。


死のような静寂だけが、その場に残った。


地下室にいるオズミは、すべてを聞いていた。


激しく鼓動する心臓。


胸を満たしていく、言葉では説明できない恐怖。


それでも、母との約束を守り、そこから動かなかった。


何か恐ろしいことが起きている。


それだけは分かっていた。


しかし、なぜ自分がこの運命に巻き込まれているのかは、まだ分からなかった。


夫の亡骸のそばに立つヒナ。


その前には、何も言わず立ち尽くすジロウがいた。


彼自身にも、この終わりのない暴力と血の連鎖をどう止めればいいのか分からなかった。


やがて、ヒナが立ち上がる。


その手には、一本の包丁が握られていた。


ジロウは悲しげな目で彼女を見る。


「お前まで……やめろ。」


低い声で呟き、彼女を止めようとする。


しかし、ヒナは止まらなかった。


胸の中は悲しみと怒りで満たされていた。


彼女は全力でジロウへ向かっていく。


地下室の中で、オズミはその一部始終を聞いていた。


だが、何もできない。


何も知らない幼い少年には、そこから出ることすらできなかった。


ヒナがジロウへ近づいていく。


ジロウは、悲しみに満ちた目で彼女を見つめていた。


そして――


最後の瞬間。


ジロウは、その一撃を防ぐことができなかった。


ヒナの身体が崩れ落ちる。


血が静かに地面へと流れていく。


そして、すべてが再び静寂に包まれた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。