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そうして、私は――

 どれほど眠っていただろうか。


 ふっと意識が浮上して眠りから目を覚ましてみると、活気に満ちた沢山の声と物音にようやく気付いた。目を向けてみると、空はどんよりとした重々しい雲に覆われて薄暗く、通りには既に電気の光りが灯り始めていた。


 私はそれらを一通り目に収めてから、もう夕刻前なのだということに気付いた。通りを歩く大勢の人々の靴音は忙しくて、聞き慣れた女が客とやりとりをしている声には少し疲労が窺えた。


 それらの音や声を聞きながら、私はゴミ箱の間の奥で耳をかいた。


 聞こえてくる人間の話からすると、本日は休日でもなさそうだった。それなのに何故、こんなにも『通り』は忙しそうなのだろうか?


 普段とはちょっと雰囲気が違っている気がして、私は警戒しながら通りに顔を出した。どの店にも多くの人が立ち寄っていて、車の数も普段以上にある。いつもならこの時間にご飯を持ってくる女の店を見てみると、彼女は次から次へとテキパキと接客にあたっていた。


 たまには、こういう平日もあるらしい。今しばらく食事は無理そうだと察した私は、再びゴミ箱の間に引っ込んで奥に腰を下ろした。へたに存在を気付かれて、面倒事に巻き込まれるのはごめんだった。


 しばらく待っていると、辺りがとっぷりと暮れた。人の流れがゆるやかになり、次第に数も減っていって靴音も少なくなった頃、ようやく女がやってきた。


 彼女が置いた紙の皿の上には、いつも以上に山盛りにされた魚の身があった。

 すっかり腹をすかせていた私は、有り難くそれに食らい付いた。この女は私に害を与えたことはない。今日まで過ごした経験から、警戒については三割ほどゆるめてもいた。


「今日は伊藤さん、まだ見ていないわねぇ……。あなた、見た?」


 独り言のように呟いた女が、そう私に尋ねてきた。


 そう言えば見ていないなと思った私は、けれど何も答えずに食事を再開する。そんなことを私に聞く方が間違いだ。


 私はあの男が来ようが来るまいが、どちらでも構わないのだから。


「おーい、そろそろこっちの商品棚の方もさげてくれ」

「はいはい。あなた、今行きますよ」


 女が店の方に向かってそう答え、「あとで回収しにくるわね」と紙の皿を指して言い、やや小走りで一旦あちらへと戻っていった。


 私は、すっかり人の少なくなった通りを警戒しながら食事を続けた。いつ何が起こるか分からない。右を警戒し、左を警戒し、少し向こうを通っていく人間たちの足音を敏感に拾う。


「こんばんは、まだ開いていますか?」


 そんな穏やかな男の声が聞こえた私は、ハッと顔を上げてしまっていた。


 咄嗟に目を向けて確認してみると、例の女がいる店先に、黒いスーツを着た知らない若い男が立っていた。


「はい、まだ開いていますよ。何か買われていきますか?」

「ああ良かった、実は買い物を頼まれていまして。これを一つと、こっちのサシミのパックも一つ、それから……」


 そんなやり取りを聞きながら、私はご飯へと目を落とした。つい先程、そちらへ目を向けてしまった自分に嫌気がさして、ぐっと眉間に皺を寄せて顔を顰める。


 私は、昨日までの四日間ずっと来続けていたあの男のことなど、待ってはいないのだ。そうだ、やつが今日も来ようと、今日こそ来なかろうと、私にはどうだっていいことなのである。


 私はそう思って、紙皿の残り半分のご飯を胃に収めるべくガツガツと食らった。


 こんなに量があれば、私はもう満足である。あの男の缶詰など必要ないほどに。


 通りにある小さな店々が閉まり始め、次第に光も少なくなってきた。気付けば町は夜に包まれようとしていて、辺りに漂う湿気は一段と強くなった。


 食事を終えた私の鼻に、雨の気配がする独特の匂いがついた。


 魚屋にもシャッターが降りた。店主の男が、外階段から二階の自宅へと上がっていく中、女がやってきて、空になった紙皿を持ち上げながら通りの左右を見やった。


「もしかしたら伊藤さん、今日は外出しなかったのかしらねぇ」


 ふん、だからなんだというのだ。


 顔の手入れをしていた私は、先程からその名を聞かされて訝って女を見上げた。そもそも悩むことでもあるまい、と声をかけると、少し残念そうにしていた女の顔に笑みが戻った。


「じゃあね、また明日」


 ああ、また明日。


 私がそう返事をすると、女は去っていった。


 辺りは、ひっそりと静まり返った。けれど女の足音が完全に聞こえなくなったところで、不意に、私の頭や身体に小さな雨粒が当たった。


 見上げてみると、ポツ、ポツと雨が降り出した。それは瞬く間にさぁっと降り始め、夜の町を覆うカーテンのような小雨となった。


 私は、自分の黒い毛並みが濡れていくのを感じながら、ゴミ箱の前で座り込んだまま頭上を眺めていた。



 濡れるぞ。雨をしのげる場所に移動しなければ。


 ぼんやりとそんな事を考えたが、私は何故かそこから動けずにいた。



 そのまま、ゆっくりと通りの左右を見渡した。そんなことをしてしまった自分に遅れて気付き、困惑して黙り込む。


 私は、あの男を待っているわけではないのだ。断じて、そんなことはない。


 昨日まで続けて四回も来ていたというのにとか、帰り際に「またね」と言っていたことが頭から離れないだとか、今日は来ないのだろうかとか……そんなことなど考えたりしていない。


 肌寒さが芯から込み上げてきて、私はぶるっと身震いするとゴミ袋の後ろにあるパイプの下へ身を寄せた。


 私ほどの大きさであれば、パイプであろうと雨避けくらいにはなるのだ。残念なことは地面が濡れるせいで、結局は全身がびしょびしょになってしまうことだろうか。


『おい、そこのチビ。そのままじゃ死んじまうぜ?』


 その時、頭上からそんな猫の声がして、私は表情なくそちらへと顔を向けた。


 換気扇の上にあるごつごつとしたパイプの上に、灰色の大きなネズミが一匹いた。目が合うなり、そのネズミ野郎は『こんなに小せぇのになぁ』と心配そうに言って、こう続けてきた。


『ここを、ずっと奥に進んだ所に雨をしのげる場所がある。皆あそこを使っているんだ。俺たちだけじゃなくて、仲のいい犬猫だっている。チビっ子、お前もおいで』


 いや、私はいい。


 だから構うなと答えて、私は素っ気なく視線をそらした。そうしたら、上から驚いたような声が降ってきた。


『ダメだ、駄目だぞチビ。お前さんほどの小ささだったら、身体がもたない。早死にしちまうよ』


 ネズミがそう言い終わらないうちに、雨音がぐっと強くなった。彼が頭上を見上げ、それから後ろめたそうに歩み出しながらチラリと私の方へ視線を投げて寄越す。


『気が向いたら、いつでも来な。耳のいいやつだって沢山する。必要なら、めいいっぱい鳴いて助けを呼ぶんだぜ、道案内に駆け付けてやるから』


 ああ、気が向いたらな。


 私はぶっきらぼうに言葉を返し、濡れた地面に丸くなった。


 私は、生にしがみついてなどいない。要らないからという人間の都合で、こうして私という命が捨てられたのだと自覚してからずっと、この灰色の世界に期待なども持たずに暮らしてきた。ただただ、本能が私を生かし続けているだけだ。


 ああ、寒い。


 私は小さく身震いした。自分の身体を温める策を考えたわけでもないのに、本能が私を生かそうとして身体は自然と丸まり、内側に熱がこもるのを感じながら目を閉じた。


 生きるとは、皮肉なことだと私は思う。


 食べ物が必要で、寝床と居場所を確保しなければならない。


 この冷たい灰色の世界で、何故そうしなければならないのだろう。毎日が空腹と、寒さと、胸にポッカリ何かがあいたみたいな虚しさと――コレをあと何回繰り返せばいいのだろうか。


 その時、一組の慌ただしい足音が、通りの向こうから近づいてくるのが聞こえた。それは水溜まりを蹴散らせて町中を掛け、私のいるゴミ箱のすぐそばで止まった。


 ガシャッと音がして、唐突にゴミ箱が少し動かされた。


 意に、頭上にあるパイプから落ち続けていた雨の雫が、ふっと止む。もう驚く元気もなくて見上げてみれば、そこには伊藤と呼ばれていた、あの眼鏡の男が傘を持って立っていた。


 男は随分と息を切らしていた。地味なズボンは、膝から下がすっかり濡れてしまっている。


「こ、こんばんは」


 呼吸を整えながら、彼が取り繕うようなぎこちない笑みを浮かべて、そう言ってきた。


 私は、そんな男をぼんやりと男を見上げていた。腹はいっぱいだ。お前の持ってくる食事は要らんぞ、と声をかけた。しかし男はそんなことお構いなしに、無造作に片腕を伸ばして、ひょいと私を抱え上げた。


 彼の腕の中は、ひどく暖かかった。


 その熱にどうしてか心地良さを感じて、私は彼の中から逃げることを忘れた。男の腕と服からじんわりと温かさがしみ込む傍ら、私の体温を奪おうとしていた水分が彼に移っていくのが分かった。


 すまんな若造。いいよ、もう降ろしてくれ。


 そう言いながら再び男を見上げた私は、困惑してしまった。こちらを見下ろし覗き込んでいるその男は、今にも泣きそうな顔をしていたのだ。


「迎えに来るのが遅れて、本当にごめんよ。やっと、君を迎えられる」


 男はそう言って、私をぎゅっと抱きしめた。


 誰も迎えに来いなんて言っていない。

 私はそう述べたが、男は何も答えてこなかった。ただただ私を胸に抱えてぎゅっとしていて、どうやら彼は私を手放す気はないらしい――とは理解した。


 しばらくして、男が少しだけ腕の力を緩めて、涙目でにこっと笑いかけてきた。


「うちにおいで。暖かい食事と寝床を用意してあるんだ」


 言いながら歩き出す男の腕の中で、私は先程まで自分の寝床だった居場所を振り返った。だんだんと離れて、雨と暗闇に紛れて見えなくなっていく。


 仕方ない、お前のところに行ってやろう。


 もう泣きそうな顔ではなくなっている男を見た私は、そう言うと、その中で丸くなって目を閉じた。

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