沈みゆく
時間にしてはおそらく10秒にも満たなかった。
突如船を襲った衝撃は、やって来た時と同じように忽然と止まった。
まだ鼓膜の奥がビリビリと震えている気がするけれど、これは明らかな緊急事態である。縮こまってはいられない。
「何がどうなって、ってうわ!ウッソだろ!」
目を開けて、瞬間的に後ずさる。
登ってきた筈の階段が無い。
足をのせる度に軋むため、そのうち穴が空くんじゃないかとは思っていたが、まさかここまで近い未来の話だったとは考えもしなかった。
その上、想定よりもずっとダイナミックな壊れ方をしている。
先程まで確かにそこに備え付けられていた階段は、その中央で真っ二つに崩れ落ちていた。
あと一段でも下に立っていれば、真っ逆さまに倉庫まで落下していただろう。
登りきってはいないといえ、ここから見てもかなりの高さである。
降りるためには梯子か何かを使わなければ、足を挫く程度ではすまないだろう。
「あ、眼鏡!よかった……僕の本体」
階下がはっきり見えることで、一番心配していた眼鏡が振り落とされなかったことに気付く。
これが無ければろくに足元も見えず、そのまま一歩踏み出して骨折コース間違いなしであった。
打ち所が悪ければ流れであの世行き特急に乗車していたかもしれない。
つくづく自分の生殺与奪はこの二枚のレンズに握られていると実感する。
ひとまずホッと胸を撫で下ろし、改めて下の様子を伺う。
倉庫の端に潰れたバケツが見える。
元々古い物ではあったが、すっかりひしゃげたソレに自分の眼鏡が同じ結末を迎えていたらとゾッとする。
と、ここでようやく視界の隅に流れる何かを捉える。
何かというか、水。窓の外ではない。
階下の底面、壁と床の境目に僅かな液体の反射が見える。
つまりこの船は、今まさに浸水していて、それって、つまり……
「あれ……この船、もしかして沈む……?」
どうしよう。船が沈没してしまえば終わる。
だって自分は泳げない。
正確に表現するのなら泳ぎ方を知らない。
当然だろう、この歳で生まれて初めて海を見たような人間なのだ。
自分が実は類い稀なる才覚を秘めていて、あたかも魚のように自由自在に遊泳できるというなら話は別だが、そんな微粒子レベルの可能性で安心できる図太い、というか愚かな神経はしていない。
水がチョロチョロと流れる音が辺りに響く。
可愛らしく聞こえるがやってることは何一つとして可愛くない。
それ以外は全く静まり返っていた船の下部に、突如ガァン、と何かを叩きつけるような音が割って入った。
出所を探し、自身もつい十分位前には居たコンテナからであると分かる。
そうだ、あれだけの揺れは流石に異常事態だと誰でも察せる。
なのに何故一人としてコンテナから出てこないんだ?
ガンガンと音は連続して鳴り響いており、どうやら裏口付近からだと目を凝らしたところで、扉が大きく歪んでしまっているのが見えた。
誰の姿も無くて当然だ、あれでは到底開けられないし、入り口の方は外から閂がかかっている。
どれだけの力自慢でも荷運び用のコンテナを傷つけることなどできやしない。
沈みゆく船で彼らの存在に気付き動けるのは、自分だけ。
階下には降りれない、手持ちも何も無い、そんな自分に今出来ることは。
上に向き直り、一層頼りなくなった階段を慎重に進む。
自分一人で出来ることなんて何も無い。
とにかく助けを呼ばなければ。
名前も知らない奴らだけれど、こんなところで溺れ死ぬべき人間なんているわけがないんだ。
人を連れてきて、ここから脱出して、そうすれば今度こそアイツに名前を聞こう。
それから、自分の名前も。
一気に高まった緊迫感でふらふらとする思考の間隙。
窓の向こうでゆらりと、白いナニカが過った気がした。




