第36話 遺跡の主
一歩、踏み込んだ瞬間だった。
空気が――変わる。
今までとは比べものにならないほど、
瘴気が濃く、重く、肌にまとわりついた。
「……っ」
サリアが思わず息を詰める。
遺跡の通路を抜けた先は、
円形に開けた広間だった。
天井は高く、崩れかけた石柱が並ぶ。
中央には、黒ずんだ石で作られた祭壇。
そして。
そこに――
一体の魔物が佇んでいた。
骨格は人に近い。
だが、白骨ではない。
干からび、黒く変色した肉片が張り付き、
布切れのようなローブを纏っている。
眼窩の奥には、淡く揺れる不気味な光。
「……リッチだな」
ラルヴィクが、静かに告げる。
その言葉を聞いた瞬間。
「ひえええええ!!」
シーエンが、全力で悲鳴を上げた。
「あのスケルトン!
干からびた肉がついてるぅ!!」
完全に拒否反応だ。
「骨だけでも無理なのに、
肉つきは反則でしょ!!」
ラルヴィクの背後に、即座に隠れる。
だが。
次の瞬間。
祭壇の上の魔物が、
ゆっくりと、顔を上げた。
空洞だったはずの眼が、
確かに――こちらを捉える。
視線が合う。
それだけで、空気が軋んだ。
サリアの背筋を、冷たいものが走る。
(……見られてる)
リッチの顎が、ぎこちなく動く。
音は出ない。
だが、意思だけが空間に滲む。
――侵入者。
ラルヴィクは、一歩前に出た。
「……ここが本命か」
シーエンは、震える声で呟く。
「もう、私、無理ぃ……」
だが。
逃げ場は、もうなかった。
祭壇の光が、
ゆっくりと強まっていく。
戦いは、避けられない。
リッチの胸元が、ぶくりと脈打った。
干からびて張り付いていた肉が、裂ける。
そこから伸びたのは――
細長い、腐肉の紐。
「……っ!?」
気づいた時には遅かった。
肉の紐がシーエンの身体に絡みつく。
ぬめりを帯びた感触が、服越しに伝わる。
「いや……!」
逃げようとしても動けない。
絡みついた肉が、ぎゅっと収縮する。
次の瞬間――
吸われた。
胸の奥から、何かを直接引き抜かれる感覚。
「……やだ……!」
呼吸が乱れる。
力が抜ける。
視界の端が暗く揺れる。
シーエンの身体から魔力が奪われるたび、
肉の紐がゆっくりと膨らみ、
乾いていた表面に湿り気が戻っていく。
干からびていたはずの肉が、
じわりと潤いを取り戻す。
まるで、生き返っていくように。
リッチの眼窩の光が強まる。
瘴気が濃くなり、空気が重く沈む。
「……ラルヴィクさん……」
声が震える。
強がる余裕は、もうない。
「……助けて……」
その言葉が落ちた瞬間。
床が軋んだ。
ラルヴィクの魔力が、静かに広がる。
「……それ以上は、許さん」
低い声。
空間が、切れる。
腐肉の紐が音もなく断たれ、
吸収が止まる。
シーエンの身体が崩れ落ちる。
ラルヴィクが受け止める。
リッチは後退しながらも、
明らかに先ほどより強い瘴気を放っていた。
吸った分だけ、力を取り戻している。
床に落ちたはずの腐肉が――動いた。
千切れた紐が、蛇のように跳ね上がる。
「っ!?」
サリアが反応するより早く、
肉の紐が腕に絡みついた。
「なに、これっ……気持ち悪い!」
ぬめりと冷たさが、皮膚越しに伝わる。
次の瞬間。
引き抜かれる感覚。
胸の奥から、魔力が強引に吸い上げられる。
「……っ!」
足元が揺れる。
呼吸が詰まる。
サリアの魔力が流れ込むたび、
リッチの腐肉がさらに潤いを帯びていく。
乾いてひび割れていた皮膚が、
ゆっくりと膨らむ。
その口元が――
笑ったように見えた。
瘴気が重く沈み、
広間の空気が軋む。
サリアの視界が暗く揺れる。
「ご主人さま……!」
その瞬間。
空間が裂ける。
ラルヴィクの魔力が走り、
腐肉の紐が一斉に断ち切られる。
吸収が止まる。
サリアが膝をつきかけたところを、
ラルヴィクが支える。
祭壇の上で、リッチが喉を鳴らす。
乾いた声が、広間に響いた。
「魔力…」
その言葉とともに、
瘴気がさらに濃くなる。
魔物は明らかに強化されていた。
シーエンが歯を食いしばる。
サリアが呼吸を整える。
リッチが腕を上げる。
空間が歪む。
次の瞬間、姿が消えた。
「……!」
ラルヴィクの背後に出現。
腐肉をまとった腕が、剣の軌跡を描く。
金属音。
魔力で生成された刃が、空間ごと叩きつけられる。
ラルヴィクは身を捻って回避するが、
衝撃が床を砕く。
石片が宙を舞う。
さらに、横から斬撃。
今度は次元の跳躍。
位置が読めない。
リッチの動きは明らかに変わっていた。
シーエンの次元魔法。
サリアの戦闘魔力。
その両方を取り込んだ動き。
「……なるほど」
ラルヴィクが低く呟く。
「真似たか」
リッチは音もなく跳躍し、
連続で斬撃を叩き込む。
空間を切り裂く刃。
魔力を帯びた打撃。
避けるたびに、足場が削られていく。
反撃の間が作れない。
体勢を立て直す暇がない。
純粋な攻撃の連鎖。
サリアが叫ぶ。
「ご主人さま!」
シーエンが歯を食いしばる。
「……動きが私の癖そのまま……!」
リッチの刃が再び迫る。
ラルヴィクは紙一重で回避する。
だが、防戦一方。
攻撃を避けきれる。
それでも――
反撃に移れない。
リッチの口元が、再び歪む。
広間の空気が軋む。
このまま押し切られれば、
いずれ均衡は崩れる。
ラルヴィクの視線が、わずかに細くなる。
リッチの身体が、音を立てて変わり始めた。
――ぐちゅり。
腐肉の紐が、ぴくりと震える。
干からびていたはずの肉が、
内側から水分を吸い上げるように膨らみ、
ひび割れていた表面が、ぬめりを帯びていく。
血の色はない。
だが、それは血の代わりに魔力が巡っている証だった。
骨と骨の隙間を、赤黒い魔力が満たしていく。
空洞だった胸郭が、ゆっくりと上下する。
――吸う。
――吐く。
誰も命じていないのに、
呼吸を始めた。
「……っ」
サリアが思わず口元を押さえる。
白かった骨に、薄く肌の色が乗る。
皮膚と呼ぶには薄すぎる膜が、
無理やり貼り付けられたように広がっていく。
眼窩の奥。
空だったはずのそこに、
ぬるり、と濁った眼球が形成される。
瞬き。
ぎこちなく、だが確かに。
リッチは、こちらを「見た」。
「……気持ち悪くなってきました……」
サリアの声は震えていた。
本能が、これを“見てはいけないもの”だと警告している。
リッチの口が、裂ける。
歯並びは不揃いで、
骨と肉の境界が曖昧なまま、無理やり形を成している。
だが、その口が――
笑った。
「……感じる……」
声帯が、魔力で編み直される。
掠れた声が、次第に人間の発音へ近づいていく。
「温かい……重い……不快だが……悪くない……」
自分の胸に手を当てる。
その動作が、あまりにも人間的だった。
その瞬間。
リッチの動きが、一瞬だけ“安定”する。
存在が、定まる。
シーエンが、はっと目を見開いた。
「……まるで生きているみたい……」
恐怖で引きつっていた声が、変わる。
次に浮かんだのは――確信。
「――生きてるみたいなら、やれる!」
シーエンの瞳から、迷いが消えた。
リッチは、知らなかった。
人間に近づいた瞬間、自分が“殺せる存在”に
なったことを。




