サナギ
収束
――定年退職
毒をも食らって身を守ってきた。
ここに至るまでに、文字通り血を吐くような努力をした。
何度も泣いた。何度も吐いた。何度も倒れた。何度も何度も何度も何度も――――――諦めようとした。
でも、俺は、今ここに立っている。きっと、多くのものを犠牲にした。友情、心の豊かさ、創造性、それに………幼い頃の夢。
別に後悔はしていない。そうして手に入れたものは、確かに価値の有るものだった、と、思う。俺の身の丈にあった職場に、地位に、業績。平凡で穏やかな日々。
ああ、でも、それでも。何故か満足は出来なかった。
今日は、定年退職の日。俺のこの数十年の戦いが終わる日。余生はどう過ごそうか。もう立派に育って、俺と同じように戦っている子供達になにか御馳走してあげよう。俺を支えてくれている妻と一緒に旅行に行くのも良いなぁ。――ああ、おかしいな。あと一つ、どうしてもやりたい事があるのに。どうも思い出せない。
かさり、と背後で音がした。見れば、あのパッとしない芋虫が、もそもそと埃を被った本の頁の上を歩いていた。
思えばこの芋虫とは生まれた時からの付き合いだ。大事なことを思いださせてくれたお礼に、何かしてやりたいが――こいつが何に喜ぶのか、未だに知らないことに思い当たった。何が欲しい、なんて戯れに聞いてやると、芋虫は気だるげに首を傾げた。気づかないうちに、随分と動きが緩慢になっている。こいつはきっと、そのうち蝶になって飛んでいってしまうのだろう。そう思うには十分すぎるほど、今が幸せだと感じている。
俺は涙脆くなったのかもしれない。情けないような、照れくさいような。
万年筆を紙に滑らせる。不可能だ、夢物語だ、と言って捨ててしまったあの日の夢は、ほんとうはずっと胸の鍵付きの引き出しの中に仕舞ってあったらしく。開けてしまえば、驚く程あっさりと胸に落ちた。
「…俺は、小説家になりたかったんだったな」
再考
――若き日の夢に臨む




