第26話「壁」
久しぶりに一樹は有里のアパートへ出かけた。
有里は珍しく部屋にいたが、一樹が訪ねると、いつもの快活さはなく、どちらかといえば一言二言、一樹が何か言葉を発すると泣き出すのではないかと思えるほど目が潤んでいた。
「どうかしたの?泣いてた?」
「泣かないわ、私は。泣くことなんか忘れちゃったわ」
投げやりとも思える言葉の調子に、一樹はその真相を確認しなければならないと思った。
最初は自分が原因であるかどうかを確かめたいのが男の心理だ。
「俺、忙しくて連絡もしていなかったけれど・・・」
「浅田君には関係ないことよ。自分自身のこと。」
「仕事、大変なの?」
「警察・・・辞めるのよ」
「え?!ああ、その方がいい」
一樹は、そんなことを言うつもりはまったくなかったのだが、どうしたわけか、そんな返答になったことをえらく後悔した。それは、本心だったからでもあったが。
「本当に辞めた方がいい?私警察官には向いてない?」
「ああ、まったく向いてない。警察は世の中の悪と戦う組織であると同時に、正義を時に駆逐する立場でもある。君には向かないよ。俺、警察嫌いではないんだ。しかしね、組織は絶対服従が原則である以上、君は磯貝有里である前に組織の、いや警察の所有物でもあるわけで」
一樹は自分で何が言いたいのか途中でわからなくなってしまった。
「今日。辞表を出したの。父の言いつけなの」
「田中さんの?」
「そうよ、あることがあって、直接的には上司から退職を促されたんだけれどね」
一樹には思い当たる節があった。
それは、レイ・ルヒの件でではないか。
「俺には詳しいことは何もわからないし、また君の口からもそのことは聞けないだろうが警察を辞めることについては大賛成さ。司法試験も通っているのだから、弁護士になってもいいじゃないか」
「そうね・・・浅田君は前向きでいいわ。私、元気になる」
そう言ったわりに、有里の顔色は少しも冴える気配がなかった。
「警察辞めるのなら、一つ面白い情報をあげようか?」
一樹は、どうせ有里が警察と無関係になるのなら、この情報はこの場で世間話として終わるだろうと思い、話すことにした。
「レイ・ルヒという要人が日本に来ていることは君も警察関係者である以上、知っているだろうし、その警護のために使う車のことで先日君のお父さんとも、あの「カツ丼」のときに話をしたから、むしろ君はこの件に大きく関与していると思う。その要人は今芦ノ湖にいるんだが、それもむろん君が知らないわけないとも思う」
有里はうなずくわけでもなく、話を世間話程度に聞いているようだった。
一樹は話を続けた。
「その要人は女性で、その女性と、君も知っているだろうが村井洋介と言う男性が、今ちょっとした恋に陥っている。その村井洋介はね、俺の姉の婚約相手だったんだよ。俺と真一は、偶然芦ノ湖のほとりで、二人の逢瀬を見てしまったのさ。2人は愛し合ってる。自分の姉を裏切られた憤りはあるが、それより・・・来日中の重要人物と、そのような関係になるという、そのことに俺は大きなショックというか、ある種の感動すら覚えたよ」
有里はまったくの無表情になり、
「その二人、浅田君が最後の目撃者ってことになるわ。その後2人で逃走してる。私はそのことで警察を辞めることになったの」
一樹には、その予感が、つまりレイ・ルヒと村井の逃避行の予感が2人を目撃した時点であったような気がした。これは一樹の時間的能力とは一切無関係な、単なる勘であった。
「2人はどこに隠れているのだろう?」
「今日は父の所に出かけるの。浅田君、落ち着いたら連絡するわ」
作り笑いが哀れな有里の様子に
「大丈夫だよな?」
一樹は聞いた。有里はやはり作り笑顔のまま頷いただけだった。
翌日から退職するまでの間、有里はアパートを留守にした。
しかし、一樹には有里の行き先がわかっていた。
彼が最後に彼女のアパートを訪ねた時に、ドアの所で入室する5秒前の光景がいつものように見えた。
彼女は
『(前方後円墓)にでも行ってみることにする』
と誰かと電話で話していた。




