第10話「田中邸のイチジク」
一本のイチジクの木が植えられている、丁度小さな保育園の運動場のような広さの中庭。
もちろんその周りには、広大な敷地がどこまでも続いているのだが、松や桜などが無数に植えられているため、敷地、という認識が田中自身にも薄かった。
子供のころから住む土地であり、住居である田中邸は田中利一の体の一部でもあった。独身である。
身の回りは、すべて世話人の早川浩子が取り仕切っていた。田中の同級生だった。
「今年はイチジク・・・食べずに終わった」
利一は日曜の10時を回り、遅い朝食を取りながら、浩子に言った。浩子は必ず利一の正面に座り
食事の間、自分は食べずに、利一の言いつけをあれこれ聞いたり、話し相手になっていた。
「あら、お食べになりましたわ。ヨーグルトに混ぜて・・・・・」
「うん? そうでしたかね?」
「甘くて食べきれん・・・そうおっしゃって、私に残りをおすすめになられましたわ」
そう言って、下を向いて笑った。
「毎年食べているモノというのは、どうも去年だったのか今年だったのか、はっきりしない時がありますね。決してまだボケているわけじゃありませんよ、念のため」
利一は大真面目な顔をして浩子に訴えた。
「わかっておりますわ、あなたはご聡明でいらっしゃいますもの。でも、お仕事をお辞めになられたら、お早くにお世話が大変になりそうでございますわね」
浩子は、そんな風に言って悪戯っぽい目をした。
「そのときは、よろしく。見捨てんでください」
「はい。ずっとおそばにいますからご心配なく・・・」
2人には特別な関係はなく、浩子は使用人の娘であった。田中家は地域との親交が厚く、利一は地元の小中学校へ浩子と共に通った。その当時は普通の男女の友達であった。
浩子が食べたいと(べそ)をかくと、利一はイチジクの木に登り、浩子にイチジクを取って食べさせた。
驚くほど浩子はたくさんのイチジクを食べて、利一はその食べっぷりに、そのうち浩子はぶくぶくと
太り、やがては自分よりはるかに大きくなって、威張るのではないか?
そのような恐れを抱いたことがあった。しかし、浩子は痩せのナントカ・・・食べても食べても、太るどころかヒョロヒョロと背ばかりが伸びて、利一を一時追い越す背丈になった。
そんなことを思い出した利一は
「君は今、身長どれくらいあるの?」
と、聞いてみた。浩子は少し考えるようにしたが、
「高校の時には158cmでしたわ。確かそんなもので、160cmはございません」
「私はかろうじて172cm・・・・・・今ではそう大きくないね。もう少し欲しかったな」
「いいえ、あなたは見上げるほど大きいですわ」
「オーバーだね・・・見上げるほどではないよ。君より14cm大きいだけだ。高い靴でも履いたら肩が並ぶ」
「私、高い靴など履きませんもの。それに大きな男性は怖いわ」
「今年、君はイチジクを食べたのですか?」
「ですから、あなたのお残しになられた物をいただきました。美味しうございました」
「来年は私が取って上げるから」
「まあ、嬉しい!楽しみにしておりますわね」
浩子は本当に嬉しそうだった。利一も顔を赤らめた。
(なぜ、結婚していないのだろう?)
利一も浩子も、心の中で同時に同じことを思った。
利一に一本の電話が入ったのはその日の昼少し回ったころだった。
その内容に利一の動きは急に慌しくなった。浩子も様子を察し、利一の身支度を手伝い始めた。
「今日は帰りませんので・・・」
いかなる場合にも決して厳しくも、険しくもならない利一のある種のポーカーフェイスを浩子は愛していた。浩子にとって、利一は崇高な存在であり、かけがいのない男性であった。人生を通して彼以外の男性を愛することは一度もなかった。
利一を乗せた白いリンカーンは、中庭を一周して、大きな田中家の表門をすり抜け暗闇に吸い込まれていった。
イチジクの葉がヒラヒラと悲しげに風になびいていた。




