3・イコガの噂
セリは家に飛び込むと、そのまま部屋へ駆け込んだ。
恐怖で身体が震え、涙が止まらない。
「どうしたの?、セリ」
扉の外から戸惑いながら母親が声をかける。
本来なら大声で叱る母だが、今は娘の心配をしていた。
セリは「何でもない」と言いたかったが、声が出てこない。
ぐずぐすっとしゃくりあげるだけの自分がもどかしい。
「わしが代わろう」
祖父の声が聞こえた。
「セリ、開けておくれ」
母親の足音が去るとセリはようやく扉を開けた。
真っ赤に腫れた目元を隠すように顔を逸らして。
祖父はセリの衣服の乱れがないことを確認し、ほっと息を吐いた。
「食事はとっといてもらったからな。
あとでゆっくり食べなさい」
セリがコクンと頷きベッドに腰かけると、祖父はその隣に座った。
「ほれ」
祖父から暖かく湿ったタオルを差し出され、セリはそれに顔を埋めた。
「う、うぅ」
祖父は孫娘の頭をそっと撫でる。
「誰かに追い掛け回されたのか?」
彼女が黙っていると祖父は話を続けた。
「今、この界隈じゃ怪しい奴らがウロウロしておる。
あいつらは魔力のある者を狙っているらしいんじゃ」
一般的に魔力は何もないところから生み出される燃料のようなものだと考えられている。
火を点け、水を生み、風を呼ぶ。
極端な言い方をすれば、胡散臭い連中には魔力がある限り無料で使える道具として見られていた。
「魔法学校の生徒がよく狙われると聞いたぞ」
セリは驚愕の表情でタオルから顔を上げた。
「いいか、セリ。 暗くなったら決して一人にはならないようにな」
何度も頷いた孫娘の肩を抱く。
「わ、わたし」
セリは今日の帰りが遅くなった理由を話した。
「そうか。
まあ、医者が助けられない子供を未熟なお前たちが助けられるはずはないからな」
亡くなった子供のことに心を痛める優しい孫娘を慰める。
だけどセリはその時、祖父にもイコガに助けられたことを話せなかった。
翌日、学校では緊急対策が行われた。
すでに何名かの被害者が出ていたことが判明したのである。
その多くは無償学校の生徒だったらしい。
「必ず数人で行動すること。 何かあればすぐに助けを求め、逃げるように」
この学校では裕福な家の者も多く、自前で護衛を雇ったところもある。
彼らは他の生徒も一緒に引率し自宅へ送迎してくれた。
セリはあの後、イコガがどうなったのか、それが気になっていた。
彼なら剣術も魔法も奴らに劣るとは思えないが、何があるか分からない。
数人で学校から家に向かいながら広場を通る時は、あの飲食店の椅子にその姿を探してしまう。
「何キョロキョロしてるの?」
他の女生徒が訊いてくるが、彼女は首を横に振る。
セリは仲の良い友人にも何も言わなかった。
あの夜のことは彼女の胸の中にそっと秘められたのである。
ある日、セリは教室で唐突にイコガの噂を耳にした。
「ねえねえ聞いた?、例の話」
「もちろんよ!。 コーガ先輩、さすがね」
きゃあきゃあと話す彼女たちの側に何とか移動する。
「わざと奴らに捕まって一網打尽にしたらしいわ」
セリはグッと息を呑んだ。
まさか、あの時、自分を助けるために先輩は捕まったのではないか。
そう思うと胸が締め付けられた。
本当のことが知りたい。
だけど、彼にはいつ会えるのかは分からない。
セリの気持ちははやるばかりで、時間だけが過ぎていった。
やがて事件の収束が確認され、数人での登下校は解除された。
それから毎日、セリは帰りに広場に寄ってはギリギリの時間までそこで過ごした。
他の生徒たちも通るため、見つからないように祖父のいる美術館の側に隠れている。
「何をやっとるんじゃ」
「ひゃあ」
当然、祖父に見つかってしまう。
「お仕事の邪魔をしてごめんなさい」
セリは母親には内緒にしてもらう条件を付けて、先日の男性を探していることを話した。
「ああ、あのひょろっとした若者か」
祖父は納得したように頷いた。
「そういえば見映えは良さそうな姿をしておったなあ」
顔を赤くする孫娘に微笑む。
「セリ、もう少しで閉館時間じゃ。 またよろしく頼むよ」
「はあい」
バレてしまうと恥ずかしくて広場を見ることが出来ない。
セリは閉館作業を始めた祖父に見送られ、美術館の中へと入って行った。
「ここは『王家の財宝』かあ」
美術館では月に何点か王家の宝物庫から一般に公開される。
治安のあまり良くない街なので、展示物はもちろん本物ではない。
偽物であっても、その由来や姿形を間近で見ることが出来て、セリの好きな展示物の一つだ。
「王族って魔力がすごいって聞いてるけど、魔道具も多いのよね」
魔力を増幅する杖、攻撃を弾くマント。
これまでも何度か目にしたが、王家の物は魔石と呼ばれる宝石がたくさん付いている。
美術品としても値段は付けられないほどの価値がある。
セリはまだ時間の余裕があるので少し展示物を見ながら歩いた。
一つの展示物の前で立ち止まる。
「あ、『聖者の腕輪』だ」
死者さえ蘇生するといわれる国宝。
キラキラと大粒の宝石たちが輝く。
偽物だけど。
「これさえあったら」
亡くなった少年を、いえ、あの病院の子供たち皆を助けることが出来るのだろうか。
「それは偽物ですよ」
セリはバッと振り返った。
「こんにちは。 無事に帰れたようだね」
漆黒の髪と対照的な透き通るような白い肌。
背の高い青年が微笑んでいた。
セリはあれほど心配していたというのに、喉まで出かかっていた言葉を言えなかった。
「コーガ先輩こそ、ご無事で何よりです」
それだけの言葉を。
コーガにクルッと背を向け、眩しそうに腕輪を見る。
「あ、あの、偽物っていうのは分かってます」
まともに顔を見なければいい。
セリは腕輪を見ているフリをして、ガラスに映るコーガを見ていた。
「いや、その腕輪は『聖者の腕輪』ではないらしい」
彼はセリの白いマント姿を見ながら言った。
「確かに死者蘇生や、失った腕などの身体の一部を復活させるけど」
ガラスに映るイコガの姿がどんどん近づいて来る。
「対価に他人の同じモノを要求する『悪魔の腕輪』だそうですよ」
彼の話を聞いてはいたが、セリの頭には入ってこなかった。
「そ、そ、そうなんですか」
激しい鼓動を悟られまいと必死で無表情を装う。
「それより、閉館時間です」
「ああ、そうだったね」
イコガは驚いた様子のないセリに感心したように微笑んだ。
ふたりは連れ立って、以前と同じ出口から出た。
「今日は守衛さんは来ないのかな」
「はい。 署名は最初だけですので」
そう言ってセリは、美術館の入り口へと身体を向けたイコガの広い背中を見ている。
「せ、先日は、あの、助けていただいて……」
今しかないと勇気を振り絞り、何とかお礼が言えた。
「あー、あれか」
彼は振り返り、何故か険しい顔でそう言った。
そのまま話すことを止めようとせず、ふたりは何故か歩きながら会話を続けることになる。
彼はどうやらセリを家まで送り届けるつもりのようだ。
「実はあの日、ちょうどアイツらを探していたんだ」
イコガは誰かからの依頼で悪さをする者たちを捕まえる手伝いに来ていたそうだ。
「おかげで早く解決できた。
だけど君を囮のように使ってしまって、申し訳なかったね」
怖い思いをさせたと謝罪された。
駅を抜け、あの時、奴らに出会った場所が近くなる。
セリの呼吸が少し荒くなった。
「そういえば、君の名前を訊いていなかったね」
ふいに立ち止まったイコガをセリは見上げた。
「セナリーです」
「では、愛称はセナかな?」
「いえ、母の名前がセシュナといいましてセナと呼ばれているので」
そのせいでセナリーはセリと呼ばれている。
「へえ、そうなんだ。
私は、生まれた土地では『イ』を発音しないので、『コガ』と呼ばれてるんだ」
「そうなんですか。
では、イコガ先輩は学校で呼ばれていた『コーガ』ではなく、地元では『コガ』と呼ばれているのですか」
「うん、そう」
先輩は少し照れたように笑った。
ふたりが談笑している間に、家の前に着いてしまった。
「お前は誰だ」
玄関先でセリの弟が仁王立ちしてイコガを睨む。
「それじゃ、私はここで」
先輩は苦笑いで挨拶した。
「あ、ありがとうございました」
家の前で姉弟げんかをするわけにもいかず、セリは駅へ戻って行くその後姿をただ見送った。