- 不穏を告げるアップルティー - ③
秋人と出会ってから恐ろしいスピードで時間が過ぎて、季節はすでに夏真っ盛りを迎えていた。
京都の町のあちこちから蝉の鳴き声がけたたましく響き、人々は身体中から滝汗を流しながら歩いている。
夏の風物詩である風鈴の涼しげな音と、打ち水をするパシャリとした音。
近年の異常気象で夏の暑さに拍車のかかっている京都では、この時期ばかりはどこか観光客も少ないように思えた。
そんな日々を雪子は秋人と共にお店の修繕や改装、メニューや食材の仕入れ先を探したりなどで慌ただしく過ごしている。
業者に見積もりを取ったりなどして、いよいよ動き出している“うさぎの夢”の再出発に、雪子は疲弊しつつもやりがいと充足感を感じていた。
秋人と出会う前は穏やかながらも孤独で、仕事にやりがいは感じていたものの、ただ日々を消費している感覚が強かった。
しかし、こうして秋人の夢を応援するという、雪子にとって明確な目標ができた。
憧れである秋人の夢を一緒に見れる幸福を噛み締めつつ、雪子は彼との距離に悩み始めている。
(秋人さんは……うちのこと、どう思ってはるんやろ)
女性として優しく、大事にしてもらっている自覚はある。
そんな秋人に惹かれている雪子自身にも。
しかし、秋人から好意を寄せてもらえる理由が、雪子には皆目見当もつかない。
秋人のようなモデルかと思うほどの整った容姿を持ち、素晴らしい人格まで兼ね備えた男性であれば引くて数多のはずである。
わざわざこんな地味でなんの取り柄も無い――“これぐらいで、ちょうどいい女”ポジションの自分に見合うはずがない。
職場から帰宅し、速攻で冷房をフル活用してベッドへ倒れ込んだ雪子は、鞄を引き寄せてスマートフォンを取り出した。
今まで特に用事がなければ開くこともなかったメッセージアプリを見るのが、最近の雪子の日課となっている。
秋人との何気ないメッセージのやり取りは、雪子という名の植物に水を与えられるような感覚で、会えない日の癒しとなっていた。
しかし、画面に表示されているメッセージアプリではなく、1件のメールを知らせる通知であった。
なんだか嫌な予感がして、雪子は急いでメールボックを確認すると、そこに表示されていた名前に指先が急激に冷たくなる。
――卯ノ宮栄一郎。
もう何年も顔を合わせていない実の兄の名前に、雪子は身震いをした。
(なんで、どうして……)
兄にとって、雪子の存在は人生の汚点とでもいうような扱いであった。
何故、突然連絡など寄越したのだろう。
恐る恐るメールを開き、雪子は表示された文字の羅列に目を走らせた。
『8月2日10時にこの店に来い』
要件だけを端的に述べた、短いメール文と店の場所を示す地図が添付されているだけ。
そこには雪子を気遣う言葉も、予定が空いているかどうかの確認の言葉すらない。
その日は出勤日なのだが、有休消化で休みをもらうしかないだろう。
『女の仕事なぞ所詮ごっこ遊び』というあの兄が、仕事なので別の日にしてほしいという願いを聞き入れるはずがないのだから。
雪子は翌日店長に断りを入れて、その日はなんとか都合してもらえることになった。
それからしばらくの間、職場に富山が押しかけないことだけが救いだった。
――そうしてやってきた約束の日。
雪子は久方ぶりにやってきた大阪の地に上陸した。
最近は大阪の支店へ出張する機会もなかったのですっかり忘れていたが、こちらも京都に負けず劣らず凄い人の数に雪子は圧倒された。
京都駅からJRで30分と少しで到着する大阪駅は、新幹線が停まる新大阪駅から1駅先にある。
大阪駅の周辺は梅田エリアと呼ばれ、その昔大きな墓地があった場所だという。
ビジネス街でもあり、繁華街でもある梅田エリアはいくつもの高層ビルが立ち並び、大学のキャンパスなどもあることからサラリーマンから学生、観光客に休日を楽しむ人々が一堂に集まる場所なのである。
そして梅田エリアといえば、梅田ダンジョンとも呼ばれる地下迷宮であった。
JR大阪駅と北新地駅に阪急線の大阪梅田駅と阪神線の梅田駅、地下鉄は御堂筋線の梅田と谷町線東梅田と四つ橋線西梅田、そして新たにうめきたという新駅まで登場した魔境なのである。
富裕層向けのここのレストランは、ランチはパンの食べ放題がお得なお店で、雪子も以前大阪支店にヘルプに来た時に連れてきてもらったことがある。
お店の中に入り店員に名前を告げると、ご予約の方ですねと奥の4名掛けの席へ案内された。
シックな店内は少し早いランチを楽しむお客でそこそこ埋まっている。
(前に来た時はお肉のコースにしたから、今日はお魚にしよかな……)
一体兄に何の話をされるのだろうと思うと気が重いが、今回は何を食べようと考えていると少しは気が楽になった。
すると店員がこちらでございます、と雪子の席を指して案内をする姿が目に入る。
いよいよ兄と対面だと気を張った雪子だが、眼前に現れた人物に言葉を失った。
「どうして、富山さまが……?」
「どーも、いつもうちの息子がお世話になっております。ようやくお会いできて、光栄ですわ!」
兄と会うという話だったはずなのに、何故か雪子の前に現れたのはストーカー紛いのことをしている富山勘司とその母親の富山華美であった。
「あのっ、うち……私は今日は兄と会う約束だったのですが……!」
「あたしは卯ノ宮さんからぜひうちの妹とお見合いを、と言われて来ましたの。行き違いではなくて?」
お見合い? 何故兄が富山を知っているのか。
何が何だかさっぱり分からず、雪子は目の前が遠くなる感覚に襲われた。
(何で……こんな、騙し討ちみたいなこと……)
あの兄のことだから、メールからしていい予感はしていなかった。
でも、こんな突然、あんまりではないか。
兄に対しての絶望と失望、困惑と混乱で雪子の頭の中は真っ白に染まる。
『お前みたいな地味な女、誰も相手にしねーよ!』
『なんだ、このうっすい味はよ!』
『こんなクソババァが作りそうな料理なんか持ってくんじゃねーよ!』
『お前は本当バカだよなあ。みんなが美味いって言ってくれてたのはただのお世辞。京都で生まれたくせにそういうのマジで疎いよなあ、ぶぶ漬けと一緒だよ、ストレートに言えないから遠回しに言ってんだよ』
『仲がいいとはいえ、しょせん他人の言うことだろ? お世辞じゃないってどうしてわかる、本当のことを言ってくれるのは身内だけだろ? なあ!』
今まで兄に吐かれた暴言の数々が、雪子の心に突き刺さる。
今までだってロクな扱いはされてこなかった。今回の件だってある程度の覚悟はしていたはずだったのに。
また別の角度から雪子の心をズタズタに引き裂く兄の所業に、息が浅くなるが、この冨山親子の前では絶対に倒れるわけにはいかない。
雪子は鋼の意思で、呼吸を整えてなんとか自身を落ち着かせようとした。
「あなた、雪子さんといったかしら?」
「……はい」
「うちの勘司があなたに会いに教室に行っても、全然会わせてもらえないそうじゃない? 一体どういうつもりなのかしら」
「それは……シフトの関係もありますので……絶対に私が担当するとは……」
「あらそう。それじゃあ仕方ないわね。あ、ちょっとそこの店員! 注文を取りに来てちょうだい!」
富山華美は通りかかった店員を呼び止めてからメニュー表を開き、「勘司はどれがいい?」と猫撫で声で尋ね始める。
「あの、お客様……恐れ入りますが、メニューがお決まりになりましたら、お呼びいただいても……」
「うっさいわね! すぐに決まるんだから、待ってなさいよ! そんなに忙しい立場の人間なのかしら、あなたはッ!」
恐る恐る申し出た店員に返し、息子への猫撫で声から一変、大声を上げて豹変する富山華美。
そんな彼女の豹変ぶりとヒステリックな叫び声に店員はもちろん、雪子までビクリと体を強張らせた。
そんなに広くない店内なこともあり、他の席のお客までもが何事かとこちらに視線を向けてくる。
雪子は恥ずかしさと恐ろしさから顔を上げられず、スカートを強く握りしめてじっと耐えるしかなかった。
「も、申し訳ございません。ご注文を伺います」
「ったく、今時の若い子は躾がなってなくて困るわ。じゃあ、このステーキセットを2つ、どっちもライスね。この子にはこの1番安いセットね」
「お飲み物は……」
「コーヒー3つ。食後にね」
そう淡々と告げると、悦子は乱暴にメニュー表を閉じた。
店員も焦った様子でバックヤードに下がったが、雪子も悦子の迫力に何も口を挟めず唖然とするしかなかった。




