第6話「幕間・隼人」
泥と乾いた血の匂いが、冷えた空気に重く沈んでいた。
河境の東側、ヴォルガ条約機構軍の前線陣地。対岸のアウレリア軍が量子フィルタリング・ドームで外界を拒絶するのに対し、ここは大地に根を下ろし、歴史の傷跡をそのまま受け入れるように築かれている。分厚い石造りのトーチカ。壁面には意図的な凹凸が残され、旧世界の要塞を模した構造が続く。
アウレリアが情報を「浄化」するのに対し、ヴォルガはそれを「先祖の英知」として取り込む。汚染レベルは計測器なしでも2.9の臨界点付近だと肌で分かった。旧時代の突撃ラッパ、軍馬の嘶き、鉄と鉄がぶつかる響き――排除すべきノイズではなく、兵士の血を滾らせる戦歌としてそこにある。
隼人は、トーチカの銃眼から灰色の空と河境の荒野を見下ろしていた。
黒と赤を基調とした特殊部隊「梟の団」の戦闘服。左胸に「二羽の鷹」の家紋。左頬には、頬骨から顎にかけて深く刻まれた傷痕がある。冷たい風が吹くたび、情報場の揺らぎと共鳴して微かに疼く。
十五歳の初陣。一瞬の逡巡が、弟の命を奪った。その戒めの傷だ。
無意識に傷跡をなぞる。後悔はない。あるのは、二度と立ち止まらないという強迫的な決意だけだ。迷えば人は死ぬ。だから前進する。この狂った世界で生き延びるための、唯一の絶対法則だった。
背後に、濃厚な血の気配が渦巻いた。
足音はない。物理的な質量はない。それでも、確かに「何か」が立っている。
《覇王の圧》。
純粋な暴力と前進への渇望の塊。隼人の影に溶け込むそれは、明確な意志を持たないまま空間を歪めていた。トーチカの空気が赤黒く変色したかのような錯覚。呼吸のたび肺の奥が焼け焦げるような熱を帯びる。大断絶よりはるか古代から受け継がれた、敵を粉砕し蹂躙する執念。
心拍数が跳ね上がる。首筋の血管が脈打ち、指先が武装のグリップを求めて痙攣した。史霊との契約者としての自覚はない。だが、背後の気配――項羽と呼ばれる古の覇王の残り香――が、隼人のトラウマと結びつき、退くことを許さない重力として機能していた。
「退くな」
低く掠れた声が漏れる。それは彼自身の意志であると同時に、背後の影が彼という器を通して発した命令でもあった。
奥から硬い靴音が近づいてきた。
「大尉。第三中隊の渡河準備、完了しました。弾薬の分配、夕刻の『記憶統合食事』の配給も規定通り終了しています」
副官のカタリナ・オルロワ大尉だった。二十八歳、重厚な防寒コートを隙なく着こなし、整った顔に感情はない。冷徹に集団を統制する彼女の眼差しは、隼人の背後で揺らめく「危うさ」を正確に測っているようだった。
「ご苦労」
隼人は短く応え、彼女の後方に視線を移した。
薄暗い通路の隅で、若い兵士がうずくまっている。ユーリ・ペトロフ兵長、二十歳。偵察兵としての適性を見込まれ徴兵されたが、前線には不釣り合いなほど穏やかな性質だった。
両手を胸の前で固く組み、何かを祈るように唇を動かしている。手には古びた革表紙の手帳――軍の規則をかいくぐって密かにつけている従軍日記だ。彼もまたレベル2.9の汚染に晒され、過去の戦死者の断末魔を耳にしている。だが、それをヴォルガの教義通り「先祖の英知」として受け入れるには、自我が柔らかすぎた。
「神よ、この血の連鎖に……意味はあるのでしょうか」
ざわめきに紛れても、その呟きは隼人の鼓膜に届いた。
カタリナが振り返り、鋭い視線をユーリに刺す。
「ペトロフ兵長。祈りは休息時間に行え。今は武器の手入れを優先しろ。貴様の迷いは、分隊全体の生存確率を下げる」
ユーリは弾かれたように顔を上げ、手帳を防寒着の奥にしまい込んだ。
「は、はい、大尉殿。申し訳ありません」
震える手でアサルトライフルのボルトを引き、点検を始める。その指先には、歴史の重圧に押し潰されまいとする恐怖が張り付いていた。
隼人は無言でその光景を見ていた。兵士の恐怖を軽蔑はしない。恐怖は生存本能の裏返しであり、戦場における最も純粋な反応だ。だが、その恐怖に足をすくわれれば待つのは死のみだ。
左頬の傷が、再び熱を持った。
「ペトロフ」
低く響く声に、ユーリが直立不動になる。
「恐怖を感じているなら、正常だ。だが、立ち止まるな。迷えば死ぬ。お前が死ねば、隣の奴も死ぬ。前だけを見ろ」
その瞬間、背後の影が爆発的に膨れ上がったように錯覚した。
威圧感がトーチカの石壁を軋ませ、空間全体を満たす。ユーリの顔から血の気が引き、カタリナでさえわずかに息を呑んだ。だが同時に、その圧力は奇妙な熱狂を兵士たちの深層に叩き込む。後退という選択肢を脳髄から消去し、前進するしかないという決意を植え付ける、力による統制。
「は、はいッ! 隼人隊長!」
ユーリの目に、恐怖を無理やり押し殺した、切羽詰まった獣のような光が宿った。
隼人は再び銃眼に向き直り、対岸を睨みつけた。
遠く、瓦礫を這うように移動するUG-03ケルベロスのシルエットが見える。あちら側は歴史を記録し、分析し、安全な壁の内側から世界をコントロールしようとしている。
だが、戦争はデータでも計算でもない。血と肉のぶつかり合いだ。退く者は去り、進む者だけが歴史を刻む。
夕闇が空を侵食し、汚染濃度がさらに増していく。過去の亡霊が一斉に目を覚まし、虚空で刃を交える音が明確な質量を持って隼人の耳を叩いた。
「渡河作戦を開始する。全軍、前進せよ」
その命令は、退路を断つ絶対の宣告として響き渡った。
背後の影が、わずかに揺らいだ。明確な言葉ではない。それでも隼人の脊髄を駆け抜けた波動は、一つの感情を伝えているかのようだった。
圧倒的な暴力を伴う、獰猛な歓喜――そう感じたのは、隼人自身の血が、まだ戦いを求めていたからかもしれない。




