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第5話「河境の少女」

 量子フィルタリング・ドームの最終エアロックが背後で閉じると、無菌の静寂は一瞬で消えた。


 網膜ディスプレイに警告色が明滅する。


『現在の汚染レベル3.2。防護服の完全密閉を確認。浄化周波数を256ヘルツから512ヘルツへ移行することを推奨します』


 手首のコンソールでダイヤルを回す。腰の浄化装置が甲高い唸りを上げ、その振動が背骨を伝って脳幹を揺らした。


 河境地域。大断絶以前は都市間を繋ぐ交通の要衝であり、両陣営が局地戦を繰り返してきた場所だ。分厚い「記憶の堆積層」が積もったこの荒野は、物理的な廃墟であると同時に、情報的な墓標の群れでもある。


 赤錆びた鉄骨が、剥き出しの肋骨のように鈍色の空へ突き刺さっている。風はない。それでもまとわりつくような粘り気が空気にはあった。


 防護服の完全密閉下にもかかわらず、蒼の鼻を強烈な異臭が突いた。焦げた獣脂、泥に混じった血、火縄銃の硝煙。物理的な微粒子ではない。レベル3.0を超える情報場が、嗅覚野に「過去の死の記憶」を直接書き込もうとしている。


 脳髄の隙間で、悲鳴とも怒号ともつかないざわめきが渦巻く。遠くから、いななきと蹄の音。現代の装甲車両ではない。装甲を持たない肉の塊が戦場を駆けていた時代の、本物の軍馬の嘶きだ。


 512ヘルツの浄化周波数をもってしても、歴史の怨嗟はフィルターをすり抜け、神経系にノイズを挿入してくる。


 蒼は記録板を起動し、周囲のデータを収集した。護衛のドローン、UG-03ケルベロス二機の挙動に目をやる。


 昨夜、自室から河境の闇に「フィボナッチ数列の光」と、暗視カメラ越しの「黒と赤の軍服の男」を見た。あの計算され尽くした気配の痕跡を探ることが、本日の非公式な目的でもある。


 だが記録板のTACTICAデータは平坦な波形を示すだけだった。


『セクターD周辺、物理的脅威度LOW。ヴォルガ軍の侵攻兆候なし』


 演算結果とは裏腹に、随伴するケルベロスの脚部サーボが不規則に痙攣していた。直進を指示されているのに、わずかに斜め前方を警戒するような歩行リズムを刻む。地形補正ではない。過去の重装歩兵の「斜線陣」を無意識に模倣しているかのようだ。


「ドローンも泣くんだ」


 前日のレオの言葉が脳内で反響する。論理的な演算装置ですら、歴史という猛毒を消化しきれず、情報場の重力に引きずられている。


 蒼は呼吸を意識的に深くした。記録官は事実を記録する者だ。幻覚に呑まれてはならない。足元の泥が一瞬赤黒い血の沼に見えた錯覚を、瞬きとともに消す。


 瓦礫を越え、旧地下鉄の入り口だった陥没穴に差し掛かったとき、先行するケルベロスの一機が歩みを止め、光学センサーを穴の暗がりへ向けた。


『生体反応検知。識別コード不明。対象は非武装の人間と推測されます』


 蒼の指先がわずかに硬直した。


 レベル3.2の領域に生体反応。ヴォルガの特殊部隊か、それとも。


「ドローン、待機。索敵モード維持。攻撃は許可しない」


 蒼はケルベロスを制止し、自ら陥没穴の縁へ近づいた。ブーツが砕けたコンクリートを擦る音が異様に大きく響く。


 崩落した天井の隙間から差す灰色の光の中に、小さな影がうずくまっていた。


 泥にまみれた粗末な衣服。防護設備は一切なし。膝を抱えて丸まっていたのは、推定十二歳ほどの少女だった。腕の中には、片目が取れかけたウサギの人形が強く抱きしめられている。


 蒼は息を呑むのを堪えた。


 この環境に、防護設備のない子供が残っている。蒼は少女の胸元を見た。薄い服が、短い間隔で動いていた。


 瞳孔は極端に開き、焦点は蒼を通り越して虚空の一点に釘付けになっている。青ざめた唇が小刻みに震え、言葉を紡いでいた。


「……馬が、いっぱい来る。怒ってる人が……首がない人が、立ってる」


 かすれた声だった。蒼は少女の視線の先を確かめた。自分の画面には、馬も、首のない人影も映っていない。


 人形を握る指先は白くなっていた。右耳の縫い目が擦り切れ、灰色の綿が少し出ている。


「ミスターホップ、こっち見ないで」


 少女は人形の顔を自分の胸へ伏せた。取れかけた片目が、服の端に引っかかった。


「だめ、来ないで。焼かないで……」


 何に向かって言っているのか、蒼にはわからなかった。少女の肩が震え、人形を抱く腕が離れない。イワノフの仮説を思い出しても、いま目の前にある苦しさの見方は変わらなかった。


 蒼は記録板を構えた。


 規則に従えば、直ちにこの事象をデータ化し、中央アーカイブへ送らねばならない。記録官は干渉しない。観察し、定着させるだけの存在だ。


 だが、キーに置いた指は鉛のように重かった。


 バイザー越しに、少女の痙攣する肩が見える。保護し、浄化カプセルへ収容する権限を、蒼は持っていない。与えられているのは情報を収集する端末だけだ。


 軍のプロトコルでは、前線の高汚染地域で見つかった無所属の民間人は「戦術的ノイズ」であり、資源を割いて救出する対象ではない。


『感情はノイズだ。消去しろ』


 エリナの声が脳裏に蘇る。


バイタルモニターが心拍数の急上昇を警告した。防護服の内側で冷や汗が伝う。


『時刻1045。河境セクターDにて民間人1名を発見。推定年齢12歳。重度の幻聴・幻視を伴う極度の共鳴症状を呈している。精神崩壊の危機にあり、即時の――』


 打ちかけた文章を、蒼は自ら消した。


「重度」「危機」といった主観的評価は、システムに自動でリジェクトされるか、ノイズとして処理される。中央アーカイブに残せるのは、無機質な事実の羅列だけだ。


 一度強く目を閉じ、開く。震えを押さえ込み、キーを叩く。


『時刻1045。河境セクターD。民間人1名(推定12歳女児)を発見。軽度の共鳴症状あり』


 Enterを押す。送信完了の無機質なシグナル音。


 軽度。それが軍の基準に照らした「公式な現実」だった。少女の怯えも、彼女を蝕む歴史の呪いも、人形を握る白い指も、すべてはその一語に押し込められ、均質化されたデータの一部として消費されていく。


 蒼は少女の前で片膝をついた。


「名前は」


 返事を待った。少女は人形の耳を握ったまま、唇を少し動かした。


「サヤ」


 蒼は聞こえた名を記録へ追記した。手は伸ばせなかった。防護服の厚い素材が、彼女との間にある。バイザーに付いた泥を拭うと、少女の小さい指が、また人形の耳を探した。


 立ち上がり、背を向けて歩き出そうとした時、少女の呟きが不意に止んだ。


 振り返ると、虚空を彷徨っていた焦点がぴたりと一点に定まっていた。蒼の顔ではない。肩越し、背後の空間の歪みを見つめている。


「……数字が、光ってる」


 怯えとは違う、純粋な戸惑いの色が瞳に浮かぶ。


 蒼の背筋に悪寒が走った。昨夜、窓から見たあの論理的な光の明滅。歴史の混沌の中に現れた冷徹な計算の気配。


 振り向こうとした視界の端で、警告音もなく空間の屈折率がわずかに変わった。

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