宇宙がサイコロを振るのを止めるまで
それは、世界から「当然」という文字が完全に消え去った瞬間だった。
「――っ、捕捉された……? 馬鹿な、この船は世界に存在しないはずだ」
耳を覆いたくなるような警告音が船内に響いた。
覗き窓の外、何もなかった虚空が「意味」の破綻に耐えかねて鏡のように割れる。
そこから溢れ出したのは、生命体とは程遠い、銀色の流動体――宇宙の免疫システム『事象の抗体』。
彼らは「目」で追うのではない。この空域に生じた物理法則の「矛盾」を嗅ぎ取り、その原因であるシンたちを、時空の因果ごと削り取りにやってくる。
カタリナの絶叫。
船体を繋ぎ止めるボルト、鋼鉄の装甲、その分子結合が維持されるという「成功確率」が、猛烈な勢いで減衰していた。
本来、物質が形を保つのは、天文学的な回数の試行において分子が結合し続けているという、統計的な「当たり前」に過ぎない。
その前提が、今、この抗体たちの領域では「失敗」へと強制的に収束し始めていた。
装甲板が、熱も衝撃もなく砂のように崩れ落ちていく。ボルトが結合を止め、虚空へと霧散する。
そして、その「死の抽選」は、生命体という複雑な演算体にも等しく牙を剥く。
「――っ、か、はっ…………っ、あ…………!?」
カタリナが喉を掻きむしり、床に崩れ落ちた。
酸素はある。肺も無傷だ。
だが、肺胞で酸素が血液に溶け込むというミクロの化学反応が、「たまたま、数億回連続で失敗する」という異常事態が起きていた。
(……く、そ……っ。統計的アノマリー……『運』という名のリソースを、完全に……崩壊させる気か……っ)
シンの視界も、急激に暗転していく。
彼自身の心臓が、次の拍動を「打つのに失敗」した。脳内の神経伝達物質が、シナプスを越えるのに「失敗」した。
一歩歩く、呼吸をする、目を開ける。
人間がこれまで無意識に行ってきた全ての生命活動が、一回ごとに「成功するか失敗するか」の極限のギャンブルへと成り果て、その全てで最悪の「ハズレ」を引き続ける。
「……が、は……っ、あ……」
ついにシンは血反吐を吐いた。
だが、血が床に落ちるという重力現象すらも確率的に不安定になり、血溜まりは空中で不規則に形を変え、意味を失ったシミとなって消滅していく。
船体はバラバラになり、シンの指先も、実体と虚像の間を激しく明滅し始めた。
(……論理的に、殺す気だ……)
脳に酸素が回らない。思考が霧に包まれ、記憶の断片がボロボロと剥がれ落ちていく。
隣では、カタリナが光を失った目で、もはや「肺であること」を止めた臓器を必死に動かそうと、無様にもがいている。
聖騎士の奇跡も、ここでは単なる「失敗した乱数」に過ぎない。
抗体たちが、銀色の波となってすぐそこまで迫っていた。
彼らにとって、今のシンたちは「宇宙の記述を汚す書き損じ」だ。
(…………確率が死んだ、だけだ、…………『確定』させ、れば……)
シンは、もはや感覚のない右腕を、執念だけで動かした。
指の骨が折れ、皮膚が座標を失って剥がれ落ちる。
だが、その激痛すらも「信号の伝達に成功した」という奇跡の結果として、彼は狂気じみた歓喜を覚えた。
彼はコンソールに、自らの「存在」を強引に宇宙へ叩き込む最後の一行を打ち込んだ。
(…………自分を、……この場に、……召喚)
それは、宇宙の不具合を逆手に取った、究極の論理的パラドックス。
「今、この瞬間に消えゆく自分」を、一秒後の「同じ座標」へ、観測者として強制的に召喚し直す。
宇宙というシステムが「お前はもういない」と判定を下すより早く、自分自身で「私はここにいる」と現実を再登録し続ける。
それは、全宇宙を敵に回した、一秒間に数兆回繰り返される「自己証明」の乱打だった。
――ガツンッ!!
世界が、悲鳴を上げた。
崩れ去ろうとしていた物理法則という巨大な壁が、シンの「我執」という名の楔によって、強引に固定される。
「……はぁっ!! げほっ、ごほっ……!!」
シンは、激しく血を吐きながら、数億分の一の「呼吸の成功」を力技で手繰り寄せた。
同時に、存在が希薄になっていたカタリナの身体も、荒れ狂う情報の渦の中から実体として「再定義」される。
彼女は狂ったように酸素を求めて肺を震わせ、破裂しそうな勢いで呼吸を再開した。
バラバラになりかけていた船体のパーツが、強力な磁石に吸い寄せられるように、本来あるべき座標へと「再登録」され、パズルのように組み上がる。
「……はぁ、はぁ……。……勝ったぞ。不条理め……」
シンの瞳には、もはや人間としての体温はなかった。
窓の外、自分たちを「ゴミ」として処理しようとしていた事象の抗体たちが、確定されたシンの「存在の重み」に弾き飛ばされるように、次々と霧散していく。
彼らはバグを消しに来た。だが、シンはバグそのものを「宇宙の仕様」へと強制的に書き換えたのだ。
「……っ……げほっ、シン……なに、したの……?」
カタリナが、震える手でシンの血塗られたシャツを掴む。
彼女の目には、目の前の男が、さっきまで自分たちを消し去ろうとしていた「宇宙そのもの」よりも、遥かに恐ろしい存在に見えていた。
「……簡単な、ことだ。……宇宙が『サイコロを振る』のを止めるまで、……私が横から出目を指で押さえつけ続けただけだ」
シンは、血を拭いもせず、冷徹な笑みを浮かべて次の演算を開始した。
船体は継ぎ接ぎで、二人の生命力は極限を超えて摩耗している。
だが、その瞳には、もはや「不確かな死」への恐怖は存在しなかった。
二人の「ガラクタ」は、もはや宇宙の番人すらも置き去りにし、真理という名の終着点へと加速を開始した。




