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効率的な略奪と燃料補給

鋼鉄の船殻が、まるで見えない巨人に握りつぶされるかのように悲鳴を上げた。


覗き窓の向こう側。そこには「風景」など存在しなかった。

ただ、世界が丸ごとくり抜かれたような、果てしない「穴」が横たわっている。


超巨大宇宙生物――『虚空の海月くらげ』。

それは星々を背負って泳ぐ神話の獣などではない。

光すらも情報の断片として飲み込み、背後の銀河を歪ませる、移動する「無」そのものだった。


海月が悠然と舞うたびに、数光年先にあるはずの星々が、まるで水面に投げ込まれた石のように波打ち、歪み、消えていく。


「……なに、あれ……」


動力席で、カタリナの喉が小さく、引き攣るように震えた。

漏れ出たのは、かつての英雄に似つかわしくない、湿った、情けない喘ぎ。

魔王を討った伝説の聖騎士としての直感が、かつてない激しさで警鐘を鳴らしている。

――「あれ」に近付いてはいけない。生存本能が、彼女の誇りを粉々に砕いて逃走を命じていた。


海月から放たれるのは、単なる殺気ではない。それは存在そのものを根底から否定する「重圧」だった。

船体を守る魔法障壁は、接触する前にすでに結晶化し、ガラスのように砕け散っている。


カタリナの指先からは血が滲み、操縦席のレバーを握る力さえ奪われていた。


「……シン、無理だよ、逃げようよ」


カタリナは、震える手を伸ばしてシンの背中に触れた。

だが、その絶望の渦中にあって、シンだけは「人間」の形を保っていた。


「……脈拍160。眼球の震え、魔力の異常放出。想定内だ。カタリナ、網膜に映るものを『怪物』だと思うな。それは、ただそこにあるだけの『巨大なバグ』に過ぎない」


シンの声は、凍てつくほどに平坦だった。

彼の指先は、火花を散らすコンソールの上を、まるで愛撫するように滑らかに踊っている。


彼の眼鏡には、海月の巨大な影ではなく、その体内を流れるエネルギーの流動――この世界の「書き換え可能なコード」が、冷酷な輝きを放って映し出されていた。


「バグ……? ……あれが……?」


カタリナは、血の混じった唾液を吐き捨て、朦朧とする意識の中で喘いだ。

彼女の目に見えているのは、一飲みで銀河を消し去る絶望そのものだ。


だが、シンの瞳に映っているのは、不具合を起こした機械の部品に過ぎない。

その圧倒的な認識の乖離に、彼女は戦慄した。


「ああ。存在してはならない質量が、宇宙のルールを圧迫しているだけだ。……なら、やることは一つしかない」


シンが、最後の一打を下す。

瞬間、船内の予備照明さえも完全に消え去り、墓場のような静寂が訪れた。


「この船を世界から『未定義』にする。……今、この船は世界から消去された」


宇宙船の全魔力が、外装へと集中される。

それは光を屈折させるような安っぽい迷彩ではない。


この宇宙を管理する法則に対し、『ここには何も存在しない』という真っ赤な嘘を認めさせる、禁忌の隠密。


「……息を殺せ、カタリナ。今の私たちは、宇宙の帳簿から抹消されている。

物理的に接触しない限り、あの災厄は、こちらを背景のノイズだと認識するはずだ」


ガラクタの箱舟は、吸い込まれるように海月の至近距離へと肉薄していく。


窓外、海月の表皮が視界を埋め尽くした。山脈のような隆起、地獄の釜のように開いた気門。

その一つひとつから、一吹きで惑星を蒸発させる密度の魔力が、死の色をした蒸気となって噴き出している。


あと数メートル。

海月の巨躯が船体を完全に覆い隠し、全方位が「光の存在しない黒」に染まった。


「…………っ…………!!」


カタリナは呼吸を忘れ、目を見開いたまま固まった。

海月の鼓動。それは宇宙そのものの拍動だ。


ドクン、という巨大な振動が、船体を通じて彼女の骨を、魂の核を、無慈悲に揺さぶる。

すぐそこにある、圧倒的な「死」。


その喉元に、シンはガラクタの箱舟を、まるで寄生虫のようにピタリと横付けした。


「……同期完了。ここが、最も『皮』の薄い場所だ」


シンは、深夜の解剖室でメスを振るうような手付きで、一本の細い伝導ニードルを射出した。

静寂の中、ニードルが海月の次元障壁を、音もなく「浸食」し、その神聖な肉体へと深く突き刺さる。


「……さあ、リソース(資源)を頂こうか」


直後、船内に、視神経を焼き切るような蒼い閃光が奔った。

海月の体内から、圧縮された純粋なエネルギーがニードルを通じて逆流してくる。


それは、神の血管から血液を盗み出すような、禁忌の掠奪だった。


「――――――――っっ!!!」


カタリナの絶叫が、空気のない船内に響き渡る。

船内の制御システムに直結された彼女の肉体を、宇宙を再構築できるほどの莫大な力が駆け抜けた。


皮膚が焼け、血管が浮き上がり、神経網が臨界点を超えた回路のように白熱する。

あまりの激痛に、彼女の指先は座席の金属をひしゃげさせた。


「あ、あ、あああああッ!! シンッ! シンッ!! 頭がッ!!

助けて、剥がれ……ッ!? 嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ!! 誰か、だれかああああああああッ!!」


だが、その壮絶な崩壊の最中でも、シンは彼女の顔すら見なかった。


「耐えろ、カタリナ。お前の『聖騎士の器』だけが、この出力を受け止められる唯一のフィルターだ。

……今、この海月の『存在』そのものを燃料に書き換えて吸い出している」


「……あいつはまだ気づかない。自分の肉体が、少しずつ『希薄な影』に置き換わっていることに」


シンの声は、どこまでも冷たく、どこまでも狂っていた。

窓の外。かつて世界を終わらせる神と崇められた巨大な影が、暴れることもなく、悲鳴を上げることすら許されず、ただ静かに、その輪郭を霧のようにぼやかせていく。


最強の捕食者が、シンの「ストロー」一本で、生きたまま推進力へと加工されていく。


やがて、蒼い閃光が収まり、船内に重苦しい沈黙が戻った。

エネルギー充填率を示す数値は振り切れて、ガラクタの船体は以前よりも不気味な輝きを帯びていた。


シンはようやくシートに深く腰掛けた。

背後には、もはや星々を歪ませる力も失い、ただの薄暗い「宇宙の汚れ」のようになった海月の残骸が、潮が引くように消えていく。


「……これでしばらくは燃料の心配はない」


シンが、予備の端末を起動しながら、短く呟いた。

その時、足元で、ピクりと指先が動いた。


動力席からずり落ち、床に這いつくばっていたカタリナだった。

彼女の金髪は焦げ、全身からはまだ小さな放電がパチパチと音を立てている。


かつての美しい鎧も、誇り高い聖騎士の面影も、そこにはない。

ただ、巨大な力に蹂躙された「残骸」のような姿だった。


彼女は、涙を流しながら、震える腕で床を這い、シンの足首を掴んだ。


「……ぁ……っ、あ、……うぅ……」


何度も何度も、掠れた呼吸が漏れる。

シンは、冷めた目で彼女を見下ろした。助けようとも、声をかけようともしない。


ただ、彼女が何を言うのかを観測している。


カタリナは、地獄の底から這い上がってきたような形相で、シンの顔を見上げた。

その瞳には、もはや海月への恐怖は残っていない。


神話の化物を淡々と解体し、自分を「フィルター」として使い潰した、この男。


カタリナは、震える唇を噛み切り、血を滲ませながら、ようやく一言を絞り出した。


「……あんた……本当に……人間なの、か……っ」


その問いに、シンは答えなかった。

ただ、眼鏡の奥の瞳をわずかに細め、興味深そうに彼女を眺めるだけだった。


「……さあな。だが、効率的な『観測者』がいなければ、この宇宙はただのゴミの山だ」


シンは、力尽きて意識を失った彼女の腕を、事務的に振り払った。

そして、再びモニターへと向き直る。


静かに、そして誰にも知られることなく、二人の「ガラクタ」は深宇宙の闇へと加速した。


後に残ったのは、名前を、力を、そして存在理由さえも奪われ、単なる「処理済みデータ」となった神話の墓場だけだった。

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