薄く白い空
「……あ。もしもし、笹川さんですか?」
『笹川よ。さっきはすぐ出れなくてごめんなさいね』
全然、と微笑む華の左手には以前もらった笹川の番号が書いてある紙切れが握られていた。初めて電話で聞く笹川の声に、華は少し緊張している。
「すいません。こんな朝早くに」
『いいのよ。それで、どうしたの?』
「ああ……ええと、お願いがありまして」
華はベランダにいるため、すこし風の音が入る。そのせいか、はっきりと笹川の耳に届きずらかった。夏の早朝のベランダは肌寒く、細い手で自分の肩をさすった。
さすがに吐く息は白くないが、まるで目に見えるようにハアと息を吐く。携帯を持った手が、カタカタと震えた。
「私を、研究所に連れて行ってくれませんか」
『……研究所は、病院じゃないわよ』
「もちろん、私のこと……足を実験してくださってかまいません」
先日あった時のか弱い声とは似つかない、覚悟を決めたような声をしていた。
『どうしたの、急に。』
「このままだと壊れてしまう」
『壊れる?』
ゆらゆらと張りつめた2人の生活の表面張力が、弾けそうだった。張りつめて張りつめて、もう限界になったとき、感情が漏れて、伝って溢れて、2人は空っぽになってしまう。戻りたいと願った日常すら、無くなってしまう。その予感が、ひしひしと華の胸を痛めていた。
「もう、ゆうくん、限界なんです。……今日の明け方、ポロポロ泣いてた。」
『……』
フウと一息いれる。
肌寒い空気のせいか、泣いているのか、ズ、と鼻をすすった。
『……あなたも寝れていないの?』
ああ……と華は口どもった。言おうか言わないか迷ったようにうーんとひとしきり悩んだあと、ポツポツと話し始める。
「最近、寝れないというか、眠くないんです。ゆうくんの手前寝たふりはするけど」
だめなんですかね、もう。と笑った。夏、早朝の爽やかな風が華の口をすり抜けて行く。発言の重さがなくなるわけでもなく、尚更、苦しさを引き立てていた。
「本当は、私が腹を括って諦めたらいいんです。私はもうだめだから、ゆうくんごめんねって。別れを切り出せたら1番幸せなんです」
きっと、と後ろで寝ている涙の跡を残した雄太を、ちらりと横目で見る。まるで子供のように寝ている雄太に、胸が切なくなる。ジワりの滲む目から雫が落ちないように、鼻からやるせなさを逃す。
「でも、諦めきれない。また、日常をゆうくんと過ごしたい、笹川さんたちが救ってくれる、また戻れるかもって……希望を捨てられない。」
だめですね、とまた華は苦笑いをする。そのたまの苦笑いが、笹川は苦しくて仕方がなかった。笑わないでいいのよと言いたかったが、それすらも言えないほど胸が締め付けられる。
「このまま、甘えて一緒にいたら、ゆうくんがおかしくなっちゃう」
笹川は、声は笑っていたが涙が伝っている華が目に浮かぶ。儚く、脆く、すぐにでも壊れそうな声だった。この世のものは強く、まっすぐで硬いほど、簡単に折れる。なんて不条理なのだろうか。
『華さん……』
「笹川さん、お願いします」
突然の凛とした声に、笹川も背筋を正す。
笹川から華はもちろん見えなかったが、空を、上を見上げているような気がした。




