1 兎翼-1.ルシャス・スパイヤー
ぐつぐつと、腸の煮えくり返る音がする。
……まるで実際に、その音が耳に聞こえてくるよう。空虚とも自嘲とも受け取れるその静かな表情に、ルシャスは背筋に沸き立つ鳥肌を感じた。
アルセステの専任教員、ミラーニア師の研究室。教員の研究室という割には、書棚の本はやけに整然と片付けられ、本の天と棚板の上は積もった埃で白くなっている。師は実績も数多い優秀な研究者だったが、人付き合いは大の苦手だった。アルセステを前に入門も断れなかった師は、春先早々に長期の研究出張の申請をした。
要するに、アルセステを御する自信がなく、逃げ出したのだ。
他の門下生はそれぞれ別の専任教員を見付け、研究室の移動を果たした。登録上問題がないからと、アルセステたちだけがここに残ったのだ。今この研究室はアルセステたちの溜まり場として機能していた。
「気分はど? オジョウサマ」
半開きの扉を押し開き、ルシャスが入室した。アルセステたち、四人だけのこの溜まり場に。
「いいわけないでしょ。生きてきて一番最悪よ」
「あっはは、そりゃそっか。あんな見事に無様に負けちゃって、今は全身大怪我の状態。その上ご両親の立場も悪くしたってなりゃ、なぁ」
「うるさいわよ。少し黙んなさい」
じろりと睨みつけるアルセステ。無様な様子を、ふふんと鼻先で笑う。
元々、ルシャスはアルセステのことを恐れてはいなかった。失うものがないので、何を脅されても響かなかった。いろいろなものを失ったアルセステを前にしてはなおのこと。憐憫くらいは多少あるものの、怯える要素は欠片もない。
「そう怒んなよ。今までさんざ自分勝手してきたんだし、そのツケが回ってきたってことでしょぉよ。ま、しばらくは大人しくしてたら? 今動いたって恨み持ってる連中に仕返しされるだけっしょ」
「何がツケよ。ふざけないで!」
アルセステが怒鳴る。なんだ元気だなとルシャスは目を丸くした。
「こんな目に遭うのも全部あの女のせいなのよ。見てなさい、この報いは必ず受けてもらうんだから。まずはそうね、眠らせて縛り上げて、裸に剥いて男どもに犯させてやるわ。それからその後は砂漠にでも売り払って……」
ぶつぶつと、穏やかでないことを呟くアルセステ。これはダメだと、深く溜息を吐いた。ここまでどん底に落とされても、少しもしおらしいところがない。これ以上、まだ人を恨み嫌うことしか考えていないのか。
これ以上、彼女の凄絶な言葉を、感情を、このままにしておいてよいものか。仕方がないなとルシャスは立ち上がり、隣の部屋に向かい、ポットに水を入れ点火台に火をつけた。
燐寸の燃えカスを殻入れに捨てると、戸棚からカップとティポットを取り出し、紅茶の葉を掬う。調理場、というほど大したものではないが、湯を沸かしたり、鍋があれば芋を蒸かしたり、その程度のことはできた。四人がこの部屋を重宝する理由の一つだ。
「そういや、あの二人は? ちゃんと生きてる?」
間をつなぐ目的で、隣室のアルセステに話を振った。
魚の糞のようにいつも後ろについてはなれなかった、ルートとアイント。彼らこそ、この状況ではアルセステの傍にいてやるべきじゃないのか。
「シェルラは捕まったらしいわ。スティラは……、知らない。あいつも私を裏切ったのよ」
「捕まった? 裏切った? 随分穏やかじゃないなあ」
逆立てた前髪を、固める目的でぐわしと掻き上げる。隣室で、顔を見せないからこそ浮かべられる苦笑。オジョウサマはだいぶご疲弊のご様子だ。
「クェインが足に怪我を負ってた。あれが多分、シェルラのやったことだと思う。何してたのかは知らないけど、ご丁寧に縛り上げられて教員たちに連れていかれていたみたいよ」
「へぇ? そりゃまた大変な。アイントのことなら、どうせ『ラヴェンナ様』のためにそんな目に遭ったんじゃないの?」
「知らないわよ。私別に何も命令してないもの。勝手にやったんでしょ」
ふん、と不満を言葉に出し、更に舌打ちを一つする。
あれほどアルセステを妄信していたアイントが、一つのヘマでこの扱いとは。何とも悲しいものを感じてしまう。
ゆっくりとした動作でお茶を入れる。湯気の立つカップを持ってきては、床に座るアルセステの脇に。まぁ飲みなよ、と勧めるルシャスの声。アルセステは返事もせず、ただ手だけは素直にカップを持ち上げて、口許にやった。
「……何よこのお茶。薄っぺらい味ね」
「え、そうか? 葉っぱが悪くなってたのかな」
「ケチっただけでしょ? もっと贅沢にいれなさいよ。気が利かないったら」
入れてもらった立場で、アルセステの辛辣さは容赦ない。ずっと一緒にいておいてなんだが、普通に会話をするだけも息苦しい相手だ。呼吸が難しいという意味ではなく、言葉一つで人の喉を絞めに来るような。
だから、もういいと思う。熱いお茶を飲むその時間だけ、ゆっくりと待っていてあげれば。それでもう、十分だ。アルセステの隣に座って、はあと大きく息を吐いた。
「スティラも、なんか知らないけど途中から指示にないこといろいろやり始めて。トーナメントだって決勝にすんなり上がってきて私に負けりゃいいものを、準決勝で他の奴に勝たせるし。まぁ、そいつがちゃんと負けてきたから問題なかったけど」
「いやぁ、ルートが裏切ったって言うんなら、もっとずっと前からだろ」
にまにまと口許を緩ませながら、アルセステの言葉を訂正する。思わぬ物言いに、あ?と眉間を歪めるアルセステ。あんたが何知ってんのよ、と言いたげな疑念の表情に、ルシャスは得意になって先を続ける。
「ルートはこの大会の準備期間中、ずっとお前の動向を見張って情報を流してったんだよ。お前にも大会の筋書きがあったんだろうけど、そりゃあ全部書き直されてた。ルートの情報を元にした、あいつの手で、さ」
「あんた、……何言って」
「実際お前の状況はもうどん底もどん底、それこそ地獄だってもう少しマシなんじゃないかって勢いだよな。多少は同情するぜ、まぁ、ほぼほぼ自業自得だって話なんだけどさ」
にまりと笑う。別段アルセステに見せるというわけでもなく。ただ、笑う。アルセステの顔など見もせずに。
「何がどん底よ。どういう意味よ。大会で負けたこと? 怪我をさせられたこと? それともバルディアルおじ様が議員をやめさせられたこと? そんなことどうでもいいわ。その程度のことでこの私が――」
「それらもそうだけど、他にあと二つある」遮って。嗤って。「ひとつは、お前の親父さんの会社のこと。バルテ帝国が新しい貿易社を設立して、各国間の交易を活性化させようって、計画してるそうじゃんか」
「は? 何の話? それがどうかしたっての?」
「わかんねぇの? 親父さんの会社の、強力なライバルが出てきたってことだよ。お前ん家がどんだけ金持ちだって言ったって、国が用意する予算にゃ敵わねぇだろ? 強大な資本と国同士のつながりを使って、バルテの新会社はアルセステ通運の商域を丸ごと奪うくらいの勢いで展開していくって話だ。
オジョウサマの『逆らうならお前の実家との商売は終わらせるぞ』って脅し、もう効かなくなるんだよ。今後は『どうぞご自由に。新会社の方にお願いしますから』って言われておしまいさ」
「な――っ」
アルセステが息を飲む。さすがに、状況を理解したか。……親の会社の業績よりも、七光りで翳してきた自分の脅し文句が使えなくなることの方に大きな衝撃を受けている、いい年してこんな娘はもうダメだろう、と思いつつ。
「そしてもうひとつは、お前の自慢の魔法さえ、今後は使えなくなっちゃったってこと」
「…………は?」
バルテの動きの話だけで既にアルセステは困惑しきっていた。そこに間髪入れず、ルシャスは最後の要素を数え上げた。
何のことだと喚かないのは、思い当たる節があるのだろう。それを信じられず、信じたくなくて、次の言葉を紡げずにいるのだ。
止めを刺してやらなければ。信じずとも、現実は変わらない。
「お茶、薄くて悪かったな。ルートが渾身の作だって言ってたよ」
左手の平に隠しておいた、ガラスの小壜。立ち上がって、ひらひらと振って見せる。揺れる薬液は、もうその中にはない。
アルセステの手からティカップが逃げて落ちた。冷たい床に当たって、カシャンと割れる。もう、お茶は数滴しか残っていなかった。
「……は? …………え。…………え、嘘。…………え、なんで? なんで、よ……?」
「所詮世の中は敵だらけ。汝己の友を疑え――。
ゼーランドの嬢ちゃんに飲ませる予定だった嫌精薬が彼女の腹に収まってなかったってことは、誰かがどこかですり替えたってことだって、もうちょい冷静なお前なら思い至ってたろうな」
「あ、え……、そん、な……、うそ……」
部屋の真ん中、床の上に座り込んだアルセステが、蒼褪めながら苦悶の声を漏らす。手の平の動きを見るに、魔法を試みている様子。何を喚ぼうとしているのかはわからない。そこには何も現れなかった。やがてその手が、小刻みに震え出す。雫が、甲に落ちる。
そんな様子をにやにや笑って見てしまう自分、随分と性格が悪いもんだと、ルシャスは苦笑した。けれども。自分の迂闊な失言でティリルの秘密を校内に広めてしまった上、こんな厄介な女に目を付けさせてしまった。ずっと気掛かりだったし、彼女のために何かしたいという思いも、できなかった不甲斐なさも、ずっとあった。ゼルから「二度と接触するな」と言い聞かされ、こっそり話しかけることもままならず、何も償えないまま半年以上が経ってしまったのだ。
「待ちなさいよっ!」
アルセステ。まだ、立ち上がり声を荒げる元気があったか。
「何でよ……っ。何で、私にそこまでするの……」
拳と声を震わせながら、虚勢の残滓。ルシャスの前に真っすぐに立ち、激しく睨みつけてくる。
さすがの精神力。せめて答えは丁寧に。
「わかんだろ。お前が、ティリルや他の連中に、ここまでのことをしてたんだから。今さら自分がやられたって文句言えねぇって。その程度の覚悟もなかったのか?
まぁ、そう落ち込むことねぇよ。魔法が使えなくて、親が議員じゃなくて、親の会社の名前を出しても人を従わせることなんかできない。そんな奴世の中にゃいっぱいいて、結構平然と生きてるもんなんだ。だからヘーキヘーキ。今までお前が酷いことしてきた奴らに土下座して赦してもらえさえすりゃ、あとは凡人として生きていけるって」
にんまり笑うと、アルセステは妖魔の形相でこちらを睨みつけてくる。
今まで一年間、同じ研究室にずっといて、ずっと見てきた彼女の表情の中では、それでも一番人間らしい顔。目許は既に涙でいっぱいになっていた。
「これは全く、ウサギの翼なんだけどさ」それでだろうか。つい、在りもしないものを描き足したくなってしまった。「お前は、もしここまで甘やかしてくれる環境がなかったら、もっとまともで魅力のある人間になれたんじゃないかって、俺なんかは思うんだ。だから、まぁ、少し今の立場で人生振り返ってみるのもいいんじゃないか? がむしゃらに魔法を覚えるのもアリかもしんないけど、学院って、そういう風に自分を見つめ直す場所でもあるんじゃねぇのかな」
「……うるさい。お前も敵だ。ゼーランドも、スティラもアイントも。ルーティアも、スヴァルトも。みんなみんな敵だ。お前ら全員、私よりも酷い地獄に送り込んでやる。覚悟してろ」
「はは。その意気だ」
ルシャスは笑った。そして、軽く右手を振って扉を閉める。
背を向けた扉。三歩四歩離れたところで、ガヅンと鈍い音が響き、それから、聞き取れない、文字に起こせないくぐもった怒号が轟いた。振り返りはしない。するつもりがあるなら、彼女を突き放す役目など担わない。
足取り軽く、階段を降り、研究室棟を出る。
いつの間にか、連中とつるむことが多くなっていた。登録上問題がないからと、ミラーニア師が出張に出てから、この四人だけがここに残った。言っても自分はサボりたいだけだったので、最初のうちは、ここに屯しているアルセステたちとの接点もほとんどなかった。
転機は、彼らがティリルに難癖をつけ始めたこと。ティリルに関する自分の失言があり、責任を感じた。それで、何とかやめさせられないかと、ここに通うようになった。親密になって改心させられないかとルシャスなりに努めたが、無理だった。
「いい気味だ、って心底から思えないのも、俺が人がいいからなのかねぇ」
誤魔化すように、そう、自嘲した。




