1-27-1.祭の翌朝
目が覚めると、見慣れない、白い布の仕切りに囲まれたベッドだった。
感じられる光は太陽のもの。窓際からは少し距離があるようだったが、カーテンが閉じられていても暗くはない。どうやら、今は朝のようだ。
半身を起こし、体に掛けられていたふんわりとした蒲団をそっとめくる。昨日の格好のまま。大会に出ていたときの、白いシャツと赤いスカート、紺色の下履きという姿だった。
――私、部屋に戻らなかったんだっけ。
自問するが、なにも思い出せない。どころか、昨日の、試合の後の記憶がまるでない。勝負がどうなったのか。どちらが勝ったのか、それすら思い出せなかった。
「ゼーランドさん、失礼しますよ。まだ休んでらっしゃるの?」
すぐ脇の布がひらひらと揺らされ、静かな低い声がかけられた。
誰だろうか、慄きながら答える。起きています、どうぞと。布がそっと開かれ、黒い衣服の女性が顔を見せた。校医だろうとティリルは肩の力を抜いた。
「具合はどう? どこか痛いところはない? 気分が悪かったりは?」
「あ、大丈夫です。ありがとうございます」
笑顔を向けるが、校医の女性は無表情。そう、と呟き、黙ってティリルの首許に手を伸ばし。ぐりぐりと指で触りながら、「健康そうね。倒れたのも、単に力を使い過ぎただけということかしら」随分簡単な、診断をくれた。
「悪いところがなければ、いつでも戻って大丈夫よ。今日一日くらいは激しい運動をせず、なるべくのんびり過ごしなさい」
それだけ言って、ティリルに背を向けようとする校医の女性。もっと聞きたいことがあったティリルは、待ってほしいと声をかけようとして。
――ぐゎだんっ!
家具を壊すような轟音に、ひゃんと悲鳴を上げ耳を塞いだ。
「ゼーランドっ! 出てきなさいっ!」
聞いたような声が、医務室に響いた。
部屋中が緊張に支配された。カーテンの内側にいても、そのことが伝わってくる。寝ていた者も怒号に目を覚まし、何が起こるとそわそわしながらそのくせ誰も口は開かず、聞き耳を立てて様子を窺っている。
ああ、この怒声は、そうか。ティリルは薄れていた昨日の記憶を鮮やかにした。薬がどう働いたのかわからないが、自分が放った最後の一撃は、アルセステを上回り、飲み込んだ。自分は勝ったのだ。
「さっさと出てこいっ! どうせ逃げられやしないのよっ!」
「逃げませんよ」
呆れ半分に声を上げる。
カーテンの外に出るタイミングを逸し眉間に皺を寄せている、胸の大きな女校医の脇。ベッドから立って「すみません」と手を伸ばし、カーテンを大きく開いた。
外の様子が、視界に飛び込んでくる。多くのベッドがカーテンと衝立で囲われ、埋まっている。
アルセステは部屋の入口の近く。左手を肩に吊り、右足も包帯でまとめ。頭も包帯で止め、体中に膏薬を塗り、右脇に大きな支体杖をつきながら。表情ばかりいつもと変わらぬ傲岸ぶりで、ティリルの姿を認めると、にやりと口を歪めてこちらに歩んでくる。
一歩、一歩。精一杯なのだろうが、不慣れな杖ではいかにも遅く、ティリルはその接近を、ベッドに腰掛けゆっくりと待った。
「ゼーランドっ! よくもやってくれたわねっ」
「その、昨日はどうも」
いつもと変わらぬ傲岸ぶり……。いや、とティリルはかぶりを振った。こんなに憔悴した彼女は初めて見る。この怪我でなぜ彼女が医務室にいなかったのか不思議だが、恐らく自分の寮室の方がより療養に向いているのだろう。それくらいの特別扱いは、最早想像の範疇だ。
「でもあんたもこれでおしまいよ! 昨日のことは学院中の誰しもが、いいえ学院外の人間だってみんなが見ていたの! 国王陛下や王女殿下さえご覧になっていたんだからね。たかが大会の試合でこの私にこんな大怪我を負わせたこと、しっかり裁かれるがいいわ!」
はぁ、と生返事をする。試合中なら事故で済まされるとばかりに、散々ティリルを傷付けようと攻撃を重ねてきたのは誰だったか。その姿を、見られていないとでも思っているのか。
おかしいな、ティリルは訝る。目の前の女が、全く怖くない。自分の感情を、怒鳴り放たれる言葉の群れが、欠片も揺さぶらない。自分は半年以上の間、こんな相手を恐れていたのか。
「アルセステさん。とりあえず、まずは静かにしてください。周りに、休まれてる方がたくさんいらっしゃいます」
離れそびれた校医も、腕を組みながらうんうんと頷いている。
「ふざけんなっ、アタシはあんたを殺してやるんだからっ! そのふざけた余裕顔を、後悔と苦痛に染めてやるんだからっ!」
大声で、とんでもないことを喚き出すアルセステ。こんなに取り乱したところを医務室の他の人たちに見られるのは、彼女にとっては問題なのではないだろうか。額をそっと押さえ、汗っぽい前髪を撫でた。
と、もう一度医務室の扉が開いた。
先に校医が気付き、アルセステの脇を抜けて、入室してきた者のところへ向かう。ティリルも気付いた。スヴァルト学院長だった。頭を下げる校医に、二言三言言葉を向けて、それからこちらに向かってくる。
「失礼するよ」
端的に、硬い表情で挨拶をくれた。そういえば、立ち上がった学院長を前にするのは初めてかもしれない。ラクナグと同じくらいか、細身の印象なのでラクナグよりは小柄に見えたが、身長だけだとどちらが高いのだろうか。
ティリルが腰かけているベッドを見据えるその視線。鋭い眼光には、余程緊張を覚える。
「学院長! ちょうどよかったわ。あなたも見ていたでしょう、この女の暴挙を!」
アルセステががなる。怪我の軽い右手を振り回し、目を輝かせて、やれとばかりに命令する。口調など、最早飾り立てる気もないようだ。
「さあ、まずはこの女を退学処分に! それから警察隊を召喚して、獄に繋いで、砂漠に売り払って、それから、それから――」
「ラヴェンナ様」
学院長が、呟くように呼んだ。
溜息を交えたようにも聞こえた。大きな体が、少しだけ縮まって見えるのは、肩が丸まっているせいか。
「な……、何よ、様って。学院長先生にそんな風に呼ばれる謂れは」
「ラヴェンナ様。私は本日早朝をもって、この魔法大学院の学院長の任を解かれました」
「え――」
アルセステが呆然と、目を見開く。
ティリルもぽかんと口を開け、スヴァルトの言葉を反芻した。学院長の任を解かれた。それがどういうことか、ただそれだけのことなのに、思考はなかなかうまく繋がらない。




