1 節間-2.ゼル・ヴァーンナイト
ふう、と大きな溜息を吐き、ゼルは屋上の床に背中を預け、仰向けにごろんと転がった。
校庭が見える校舎の屋上。普段人が立ち入るような場所ではなく、雨に濡れて腐りかけた塵や埃が、そこら中にへばりついている。
「辛うじて及第点だな」
脇に立つ長身、黒髪の男性が、腕組みをしながら、気を抜いたゼルの姿をじっと見つめていた。
「辛うじてですか? 厳しいなぁ」
疲れ果てた、と腕の一本も上げぬまま、ゼルは苦笑いしながら答えた。
種明かしには、少々長い説明を必要とする。
最初に、もうティリルやミストニア達も気付いているとは思うが、ゼルは、自分が皆に授けた作戦がうまくいくなどとは欠片も思っていなかった。むしろ途中で頓挫する方向に力を注いだ。ティリルと敵対するためではない。むしろティリルを守るため、守りながら自らの力で勝利を勝ち取ってもらうために、選んだやり方だった。
元々、エルム六世王がティリルを大会に推薦した、という話自体が出鱈目だ。これはアルセステの策略。推測も交じるが、推薦状自体は本物で、恐らくは国議会議員の父親を通して、国王の印の入った推薦状を「正式に」発行させたのだろう。
アルセステは無理矢理ティリルを大会に出場させ、せいぜい恥をかかせて笑ってやるつもりだった。そのために実行委員会副委員長であるランツァートと交渉し、自分の意に従わせた。いつもの手口。ランツァートがそれに喜んで従ったのか渋々だったのか、それはわからない。だが、少なくともティリルを陥れることに躊躇の仕草を見せることは一度もなかった。
アルセステたちとランツァートの動向を眺める中で、自分の手許に、本国からの指令が届く。
『ゼーランドの魔法の才の、片鱗でよいので発揮させ、利用価値を証明すること』
読んだ瞬間、反射的に「うっそだろぉっ?」と大声を上げた。
彼女の魔法の才は、まだまだ開花には程遠い。近くに寄ればわかる。何かを隠し持っていること。だがそのことは、彼女への興味が並大抵では気付かない。恐らく学院内で気付いているのは専任教員のフォルスタと、もういなくなってしまったがラクナグ。自分を除けばこの二人くらいだっただろう。
何より当人が気付いていない。時折自信を見失いかけて落ち込む姿を見れば、まだまだ実力を覚醒させる段階にないことがわかる。
それを、報告書類にしか目を通していない本国に伝わるように証明しろなど、五歳の幼児の将来性を目に見える形で発表しろ、と言われたような気分だった。
無理だよぉ、と愚痴を零すこと数分。しかしこうしていても仕方がない。既に掴んでいた情報を元に、ゼルは戦略を練り始めた。
どの道賭けだが、眠っている才能を叩き起こすには、危険に晒すのが手っ取り早い。魔法大会なら第三種。それもティリルを本気で傷つけようとしてくれるくらいの対戦相手が望ましい。――キャストはすぐに決まった。
そこから組み立てた計画は、確かに粗雑と言えば粗削りもいいところ。当日は早々にルシャスがドジを踏み、まずミスティやティリルの疑念を生んでしまった。
ルースに授けた策は、そもそも失敗するように、アルセステが途中で退場してしまわないように仕組んでおいたものだったけれど、思いの他王室付きの隠密の目が厳しく、下手をしたらルースの方が檻に入れられてしまうところだった。
さらには自分が潜んで全体を見渡していた時計塔という潜伏場所も、鼻の利くミスティに嗅ぎ付けられ最終的に拠点移動を余儀なくされた。
アルセステとティリルの試合こそ、あの難物のペンタグリヤさえ丸め込んで「違和感があっても途中で試合を止めないよう」準備ができたのだが。頼れるアイヴィスは終始助力をくれず、駒がほとんどない状態では、腐心にも限界があった。……という自己評価だ。
手持ちの駒は、直属では二つ。
ルームメイトのルシャスは、ゼルの正体を見破っているわけではない。ただ、ゼルがいつもこそこそ何かをしているのは察していて、事あるごとに面白半分に首を突っ込んでくるのだ。
「俺はわかってるからさ。お前には任務があるんだろ。この国を守るっていう大事な任務が。いい、いい。何も答えんな。俺も協力するよ。なんでも言ってくれ」
ルシャスがよく使う言い回し。都合がいいので訂正も何もしないのだが、ただ協力の名目でしょっちゅう邪魔をしてくるのはどうにかしたいところだった。
春先、ティリルがバドヴィアの娘であることを明かしたのもそう。入手した情報をうっかり机上に放置してしまったゼルに何か言う資格もないが、「これマジ? すげぇじゃんバドヴィアの娘なんて! 是非お近付きになりたい!」と言って本人の元に特攻していった能無しぶりには沸騰しそうになった。
まぁ、長い目で見ればこの軽挙のおかげで、ラヴェンナ・アルセステがティリルの当て馬となるべく彼女に妬みを抱き始めた。そう考えれば、非難ばかりを募らせるわけにもいくまいか。
ともあれ、そんなこんなで半年以上「ティリルに近付くな」と釘を刺し続けていたのだが、ちょうど大会実行委員などという役割を受けていた彼。今回は情報収集とランツァートの監視に、しっかり働いてもらった。
スティラ・ルートを味方にできたのも大きかった。直接会ったことはなかったが、情報はルシャスから聞いていたので、人となりもわかっていた。彼女を靡かせるのはとても簡単。手伝ってくれれば面白いものを見せてあげられるよ。その一言であっさり陥落した。
ルシャスにも遠巻きにはアルセステたちの様子を探らせていたのだが、ルートのおかげでその距離はさらに近付けられた。
アルセステが考えていることはこちらに筒抜け。リーラに薬を渡すことやトーナメント表に細工をすることもすべて把握できたし、逆にティリルを第三種競技に出場させるべく行動するよう、彼女を唆したりもできた。第三種に出場する選手には、一部屋四人で三部屋の控室が用意されたが、その部屋割りや連絡指示系統、中にいる人間の動きはほとんど、ルートが把握していた。アルセステはその辺りのやり取りをルートに任せ切っていた。ルートは策を巡らせ放題だった。アイントが初戦で敗退するのも、ルースとアルセステが戦うのも。
校庭の様子が一望できる時計塔に潜んでいた際、アイントにその入り口を守らせてくれたのも、結局ミスティたちに見つかり、別の場所を探す必要が出きたときも。手を貸してくれたのはルートだった。屋上に登れる校舎を見付けてくれ、場所の設定とルシャスへの連絡もこなしてくれた。あの手間は本当に助かった。とはいえ一般人のおかげで想定外の事態を何とか乗り越えた、それについては減点されて文句はない。
更にルートは、「固着魔法」なる魔法を活用してくれた。彼女が得意とする珍しい魔法で、薬物や石の粉末を、糊も使わず対象物に固着させ、味や匂い、効能を張り付ける。例えば、以前にティリルがゼルに見せた薬物の塗布された本も、彼女の作品だった。風と地魔法の応用だと本人は言うが、それ以外の要素も関わっているように感じられる。
まぁ理論解釈は今はいい。とにかくその固着魔法によって作られた「嫌精薬」が、アルセステの目を眩ます良い小道具になった。
「ホンっと、こんなの初めてだから苦労したよ」
薬がリーラの手に渡ったと、その報告がてらルートはゼルに愚痴を零した。
「『飲んですぐは魔力が向上したように感じられるけど、しばらくしたら魔法が一切使えなくなる。けど、強大な魔法を使おうとすれば、溜まった魔法力が一気に放出されるような、一旦力を食い止める堰のような役割を果たすような薬』ってどんなよっ? 聞いたことないよそんなの!」
「や、改めて言われると俺もそう思うよ。そんな都合のいい薬、作れって言われたって困るよなぁ、ホント。
……で、首尾は?」
「試してはいないけどね。たぶんうまくいくんじゃない? 少なくとも短時間魔法が使えなくはなるよ。それ以外の効果は何にも保証しないけどね」
「えー」
そんな軽口を叩きながら、こちらも、作った本人も、実のところ効果のほどをまるで保証できなかった薬。大成功だった。彼女の実力は相当のものだ。彼女は彼女で、連れて行けば利用価値はあるのではないだろうか。
とまぁそれはいい。
ともかくも、ティリルたちに「うまくいくんじゃないか」と思わせる程度の策を示し、アルセステの策謀を陰から操作し、実行委員会の情報をゆるゆると掴む。その全てをこなし、状況を形作り、チャンスを整えて……。それでも結局、最後の最後はティリル次第、というところまで来て、どうにか彼女は期待に応えてくれた。
もちろんあの場でティリルが魔法を使えていなかったとしても、死なないように守るつもりではあった。怪我をしないよう、とまで気を使えたかは保証できないが。それが、彼女はゼルが期待した以上の実力を示してくれた。アイヴィスの目にもその姿は映った。『辛うじて及第点』は随分評価が厳しいのではないかと、苦笑いしながらゼルは思ったものだ。
「ふざけるな。こんな人の多い場所でハイタカ銃まで持ち出して。結果的にうまく行ったことだけが評価だ。途中のやりようなど落第もいいところだ」
黒髪の長身男性、アイヴィス・メルティノーと名乗る男が、微かな嘆息とともにゼルの戦果を評した。夕焼け空を見上げながら、あー、確かに。ゼルは呟く。
大の字に広げた四肢の、右手の先には一丁の狙撃銃。鉄製の長い銃身に、胡桃製の銃床。ソルザランドではまず見かけることのない、北の国からアイヴィスが持ってきた武器だ。ティリルの最後の一撃の、少し前。用意したのは試合の流れを懸念しての保険だったが、結局、試合内容に魔法でちょっかいを出すランツァートが鬱陶しく、排除するために狙いを定めたのだ。
「ソルザランド王も列席する場だ。もし見つかっていたら、国際問題に発展していたかもしれないぞ」
「はは、そういやそうですね。すみません、そこまで考えてなかった」
「しかしよく当てたな、この距離で」
「体のどこかに当てられりゃいいかなって、ど真ん中狙いました。実際ど真ん中撃ち抜いちゃったら、まぁそれはそれ、仕方ないなと」
ようやく上半身だけ起こし、両手を後ろについて軽く背を反らしながら、笑う。相変わらず大雑把だなと、何度目か溜息を吐くアイヴィス。表情の少なさは彼の特徴。もう付き合いの長いゼルは、それは骨身に染みる勢いで理解している。
「まぁ、なんにせよお前は成果を出した。ギリギリだろうがスレスレだろうが、及第点は確かだからな。後でちゃんと報告書を仕上げておけ。それで今回の任務は終了だ」
「ええっ? 報告書、書くんですか?」
「当然だろう。任務なんだからな」
「いや、少佐が見てくれてたんですし、この後帰って報告してくださるんだろうから、俺の報告書なんていらないんじゃ――」
「誰が、見てくれていたって?」
眼光が、ゼルの油断を貫く。
自分の失言に気付き、慌ててゼルは言い直す。
「失礼しました。アイヴィス兄さんが、です」
「気を抜きすぎだな。任務は失敗したと報告しておこうか?」
「いや、いやいやいやそれは酷くないですか?」
慌てて立ち上がり、縋るように両手を振る。彼の冗談は冗談と受け取り辛いのだ。
「まぁいい。俺は明日の汽車で帰る。今晩中にお前がマインに報告書を送れば、その方がずっと早く本国に届くだろう?」
「……マインはマインでいいんですか。あいつだって名前を伏せておいた方が――」
「わかったのか?」
「はいっ! 雪原を転がる勢いで理解しました!」
念のために注釈しておくが、バルテ帝国にもそんな慣用句はない。
「では、今晩中に報告書を仕上げるよう。励めよ」
アイヴィスはゼルの戯言には触れる様子なく、冷たくそれだけ言って背を向けた。
銃を拾い上げ布袋に詰めてから、後を追うゼル。口を尖らせ「ちぇっ」と口を鳴らす。こんなに頑張ったんだし、今日ぐらいゆっくり休ませてくれたって……。だが、そんなささやかな愚痴にももはや返事は届かず。アイヴィスは身軽にひょいと屋上の縁を飛び降り、一つ下の部屋の窓に手をかけて、建物の中に滑り込んでいった。
彼の背中を目で追いながら、ゼルの胸中は二つの思いに深く染まっていった。いよいよ、彼の下で今までとは異なる任務を負うのだ、という高揚に似た予感。そして、五年近くも潜入していた、この学院との別れの寂寥。
最後に遊ぶ分には、ティリルも、ルートもアルセステも、なかなか面白い相手だった。そう、振り返っては思うのだった。




