1-24-3.昼食は庶民的なお店で……、と言ったのに
――ボオオォ、ボオオォオ!
反射的に両手で耳を塞ぐ。
制服の男性が、茶色の細長い小屋の脇を歩きながら、空いていた扉を手で閉めていく。
「何が始まるんですか?」
「ですから汽車の発車時刻なんですよ。ほら、乗客がみんな客車に乗り込んで、駅員が扉を閉めて。あとは走り出すだけです」
リーラもティリルの隣に立って、説明をしてくれた。楽しそうに腕を伸ばし、柵越しに例の不思議な建物を指差す。数えるほどしか人がいなくなった石段の先、ティリルが自分の目を疑うような光景が、展開された。
緑と茶色の細長い建物たちが、がくんと揺れたかと思うと、そのままゆっくりと、滑るように左へ移動していく。左端に位置する煙突から溢れ出す煙が、取り残されるように右側に流れていく。
「――え。……え、えっ?」
しゅぅ、しゅぅと迫力のある擦過音を立てながら、見惚れるティリルを鼻で笑うように、それは滑らかに動いていく。気が付けば、一瞬の出来事。動き出したそれは、靄のような煙を残して、気が付けば『駅』の中からいなくなっていた。後には数人の乗客たちと、ひと仕事を終えて石段の上から降りてくる駅員とやら、だけだった。
「ふわあぁ……」
煙が風に飛ばされた頃、ようやく、感嘆が口から漏れた。正直なところ、それまでは感想どころか息さえ満足に吐き出せていなかった。
「初めて見る機関車って、迫力ですよね」
「……すごかったです。ええと、あの筒と箱でできたみたいなものが、どこまで行くんですか?」
聞いてみて、ええととリーラに首を捻らせてから、しまったと後悔する。どこまでと言われても、サリアの外の町などティリルはまだ覚えていない。聞いてもきっとわからないだろうと、少し申し訳なくなった。
「どこ、ええと、どこだったかなぁ。ニューディニアからファクラル……、ファディアーフまでは行かなかったと思いますけど」
ほら、わからない。
「…………ええと、ごめんなさい」
「え、えっ? 何で謝るんですか?」
「いえ、その、せっかく教えてもらったのに、全然どこだかわからなくて。その、聞いちゃってごめんなさい」
「あ、すみません。わからなかったですか」
さらにリーラにも謝らせてしまった。魔法学と王国史の勉強には力を入れてきたけど、少しは地理に興味を向けないといけないなぁ。深く反省した。
「ごめんなさい。もうちょっとざっくりにしますね。ええと、一番東はフィールラストラス帝国です。今の蒸気機関車は二日ほどかけてそこまで行くはずです」
「フィールラストラスって……、エネア大陸の北東端の国ですよね……。え、嘘。そんなに遠くまで行くんですかっ?」
地理に疎いティリルも、さすがにエネア大陸十四か国の名前と配置くらいは覚えられた。南北よりも東西の方が距離があるエネア大陸の、西端の海岸を持つのがソルザランド王国。対するフィールラストラス帝国は東の端。サリアは国の東寄りに建つので、大陸の最長距離とは言い過ぎだが、それでもかなり長い距離を結んでいることになる。
せいぜい隣国グランディアの首都くらいまでの距離かと思っていたので、これには相当驚かされた。
「あれに乗るって、どんな感じなんでしょうか」
ぼんやりと、半ば無意識に、呟いていた。
「いつか乗ってみたいですね。ぜひ一緒にどこかの国へいきましょうよ!」
リーラが嬉しそうに答えてくれる。
旅行か。今の自分にそんな余裕はないけれど、そう、いつか、そんな機会があってもいいかもしれない。まだ耳の奥で蒸気を焚く機関車の音がこだましているような錯覚に陥りながら、そんな「いつか」を夢想した。
「すみません。寄り道させちゃって」
汽車を見送って一時。ゆっくりと夢から現に戻ってくると、ふと申し訳なさがこみ上げてきた。駅の柵から手を放し、ティリルはついつい隣のリーラに謝ってしまう。時刻は一時過ぎ。駅の建物の入り口上方に据え付けられた大きな文字盤が、今の時刻を静かに告げている。
「えぇ? 何で謝るんですか?」
「その、私が汽車を見てみたいなんて言ったから、お昼がずいぶん遅くなっちゃいましたし……」
「そんなの! 私だって見たいって言ったじゃないですか。それに遅くなったって言ってもまだ一時ですよ? お昼を食べる店なんていっぱいありますよ」
それはそうだ。ティリルは前髪の上から額を掻いた。
確かに、逆の立場だったらティリルもリーラにそう答えただろうけれど。何の衒いもなく目を丸くできるところは、彼女の素敵なところだと感じられた。
「そんなこと気にするより、早くご飯のお店を探しましょう!」
両手いっぱいの荷物を抱えたまま、もし空手なら、諸手を上げて踊ったり、はしゃぎまわったことだろう。そんな様子も微笑ましく、ティリルはつい今し方まで申し訳なさを抱えていたことを、すっかり忘れ去っていた。
ふと、リーラが「そうだ」と口を開ける。聞くと、この辺りにある美味しい店を思い出したのだという。ではと案内を頼むと、一本細い道に入った先、ほんの五分ほど歩いてすぐのところに建つ、青い屋根の三階建ての可愛らしい建物に連れてきてくれた。閉じられた窓にはレースのカーテンが下がり、入り口前の小さい屋根は幾何学的に彫刻された白い柱が支える。まるで精巧に作り込まれたお人形の家のようで、ティリルは思わず、その佇まいに見惚れてしまった。
「可愛らしいお店ですよね! でもそれだけじゃなくて、料理も美味しいんですよ」
さあさあ入って入って! まるで店主か、店のスタッフのような――、いやむしろ家主のような振る舞いで、扉を開け、ティリルの背を押して中に誘い込むリーラ。その強引なやり口に、ティリルの頭からは昼食の条件に挙げた項目が、すっかり頭から抜け落ちてしまっていた。
店員に案内されて席に着く。さあどうぞどうぞとリーラに勧められ、品書きの冊子を開いた。
「ここはソルザランドの最高級コース料理が食べられるお店なんです。王城にもしょっちゅう出入りしてるらしいですよ」
両手でついた頬杖に顎を乗せ、にこにこと笑うリーラ。その笑顔にちらちらと視線を向けていたおかげで料理の内容に集中できていなかったティリルは、そのことで逆に、料理の名前の横にあるその表記に気付いてしまった。思わず品書きを両手でつかんで見据える。
「――って! リーラさんっ。なんですかこのお値段!」
いかにも前菜らしき品揃えの平均額が、ざっと三百ランス。一品で満足できそうな料理は七百ランスを越える値段のものもあり、ミルルゥやエル・ラツィアでの食事の平均予算を軽く上回っている。食後の甘味ですら、一番安いものでも二百ランスだ。安い方の学生食堂でなら、二食食べてもお釣りが来る。
「そうなんですよねぇ。ちょっとお値段張っちゃうのが玉に瑕で……」
「あの、さっき大衆料理のお店を探すって言いませんでしたっけ?」
「え。そんなこと言ってましたっけ」
白々しくごまかした。姿勢崩さず笑顔も崩さず、頬杖の上からティリルの顔をじっと見つめている。
安っぽい店を探しましょう、なんて酷いことを言ってたのはどこの誰だ。ティリルは、親指で額を押さえ、言葉にならない唸り声を響かせた。
「私、これ以上お金を使うの、できれば避けたかったんですけど……」
「あっ、ですからそれは大丈夫ですって! 私だって少しはお金持ってきてますし、ここのお支払いくらいは――」
「そういうことじゃなくて、ですね……」
こめかみを押さえて溜息をつく。リーラの悪癖だ。一度夢中になると、他人の都合や意見はお構いなしになる。しかも悪いことに、彼女はきっと周りが見えないくらいに夢中になっているのではなくて、見えているけれど気に掛けない、興味の対象外に置いてしまうだけのようだった。
仕方ない。今から店を出るのも迷惑だろう。ルームメイトで対等な関係、とはいえ年下の後輩におごらせるわけにはいくまいと、ティリルは更なる散財の覚悟を決めた。もう一度深く溜息をついてから、妙に質の良い紙の品書きに目を落とした。
料理は単品でも頼めるらしかったが、リーラの言葉に任せ、コース料理を頼んだ。玉葱やキャベツなど春野菜を使ったスープ、アスパラガスの玉子ソース掛け、牛肉のバター焼きなど、様々な料理が構成に沿った順番で供され、最後には野イチゴのパイまでついてきた。なんでもない日の昼食にしてはあまりに豪華すぎると素直に感じたが、目前のリーラがとても幸せそうにしていたので、更に何かを言うのはやめておいた。
全ての皿が下げられて、お茶を傍らにしばし談笑する。
気が付けば周囲から人の気配が薄れていた。昼時も過ぎ、食事客はほとんどいなくなった。自分たちのように食後の会話に座席を使っているグループが一つか二つあるようだが、後は手持ち無沙汰になった店員の姿が時折目の端に入ってくる程度だった。




