1-22-4.ティリルの知らない、ふたりの昔
「悪いわね、遅れて」
「別に悪いこたないけど、珍しいな」
男の人の声ですね、リーラが声を潜める。ミスティ先輩、隅に置けないなぁ。くすくすと笑うリーラをティリルは強い目線で窘めた。
リーラはわかっていない――、いやきっと知らないのだろうけれど、ティリルは抱いていた期待もあって、もう一人の声の主にはすぐに目星がついた。ルースだ。
「で? あんたが呼び出すなんて珍しいわね。何かあったの?」
椅子でも引いたか。ずずっと何かをこするような音と一緒に、ミスティが聞いた。
ルースが、ミスティを呼び出したのか――。ティリルの心が少しずつ高鳴る。
「珍しく取り巻きがいないじゃない。どっかに隠してるの?」
「あのな……。この狭い部屋のどこに隠せるってのさ。人を呼び出して話をしたいっていうときに、いくら俺だってそんなの連れてこないよ」
「わかってるわよ。何まともに受け取ってんの」
ミスティなりの冗談のつもりだったらしい。ルースにはどうやら届かなかった。
「わかったわ、冗談を聞く余裕もないって言うなら、さっさと本題どうぞ?」
乱暴な言い方になる。あくまで言い方の問題。扉越しでも、ティリルはミスティが優しい表情をしているのを確信した。
「本題、ね。本題。……いやぁ、そりゃ、そうなるよね」
「何よ。用があるから呼んだんでしょ? 何で言い淀むのよ」
「いや、その……。いざとなると覚悟がいるなぁって。はは」
「なんなのよ、気持ち悪いわね。さっさと言いなさいな」
ルースの躊躇いと、ミスティの苛立ちが、扉越しに伝わってくる。
ティリルは正面にあるリーラのにやにや顔を見ながら、はらはらと胸の内側をびつくかせた。がんばれと、声にできない応援を、何度も何度も喉の奥で繰り返した。
「そうだよな。ミスティは、うだうだ言うより結論ありきの奴だもんな。
よし! わかった。言う! 俺、実は、今度の魔法大会の第三種に出場しようと思ってさ!」
一瞬、誰もしゃべらない時間が過ぎった。
ミスティの反応は、数秒後まで、ない。もちろんティリルやリーラが口を開くはずもない。ただ、ティリルの内心があれ?っと疑問を抱いた。聞こえた言葉はそれくらいだった。
「……唐突ね」
そして、数秒が経った。
「なんだよ、反応薄いな。結構勇気要ったんだぞ、これでも」
「ええ、わかってる。そんだけのことを言うのに、あんだけもじもじしてたのかって呆れてるとこ。どこの乙女の告白かと」
「うぐ……」
はぁ、とミスティが溜息一つ。それから一呼吸置いて「まぁ、あんたがあの大会にどんだけ入れ込んでたかは、知ってるからね……」呆れ半分といった様子で、呟いた。
「ん……。実際若かったなって思うよ。地元じゃ神童。けど都の大学なんてすごい奴の集まりで、俺なんかより実力がある奴なんてわんさかいるのに、一年学んでてもまだ一番は俺だなんて妄想を本気で信じてたんだから」
「でも、頑張ってたじゃん実際。勝負なんて時の運なんだし、負けたからって相手より劣ってるって証明になるわけでもないのに」
「わかってるよ。……あぁ、当時の俺はわかってなかったのかもな。負けたことが、優勝できなかったことが恥ずかしいくらいに思ってた。ほんっと、ガキだったと思うよ。論理学はミスティ。行使学は俺。二人でこの大学院のトップに立つんだって、本気で信じてた」
「っぷ、何よそれ。妄想に私まで巻き込んでたの?」
ミスティが吹き出しながら聞き返した。恐らく、今のミスティはとても楽しそうな顔をしている。それが感じられて、微笑ましくも、羨ましくも、なった。
「巻き込んでたさ。あの頃俺の世界は、魔法行使と、ミスティのことだけでできてた。他の物なんて全部ガラクタだって思ってた。なんであんなにバカだったんだろうって恥ずかしくなるくらい、何にも考えてなかったよ」
「そう。でも、そんなあんたのバカさ加減、私は好きだったよ。少なくとも、今のあんたのバカっぷりよりはよっぽど」
「ああ。言われるのは覚悟の上だよ」
楽しそうだった声が、ふっと淋しそうになった。自嘲するように。自虐するように。ルースが沈黙を作る。
「……自分のバカさ加減が、自分で赦せなかったんだ。それで、本当のバカになろうとした。頭からっぽにして、快楽だけを求めて、生きている価値も自分で貶めようとしてた」
「それが、そういう行為が、少しでもあんたを助けたの?」
「気持ちは楽になったな。誰になんて思われたって、自分はどうしようもないバカでクズで益体のないゴミムシだって思ったら、何にも気にならなくなった。大会で失敗したことだって、自分が行使学で一番じゃないことだって、当たり前だって思えるようになった。そんな俺のことをいいって言ってくれる奴が意外にいっぱいいて驚いたよ。そういう連中に囲まれるのも、ものすごく安心した。得るものはなかったけどな。助けたかって言われたら、多分救われたんだと思うよ……」
そんな言い方をしなくても。傍で聞くティリルの方が、ルースの口調にやきもきさせられてしまう。どうか、ミスティ。彼の捨て鉢な言葉を、正面から受け止めないで。バカなことばっかりしてるその裏に、ルースの純真な本音が隠されているんだから。
「なんだか、酷い人ですね。こんな人に、先輩は何か頼みごとをしようとしてるんですかね」
声を潜め、悪態をつくリーラ。彼女は知らないのだ、とわかっていても、ティリルはその発言が赦せなくて、強く睨みつけてしまう。事情を知らないくせに、印象だけで貶さないで! 思わず怒鳴ってしまいそうになる。
感情をぐっと飲み込んで、話の続きに耳を傾けた。
「で?」ミスティが、強い口調で続きを促す。「改めて大会への出場を決めたってことは、どうしようもないバカでクズで益体のないゴミムシのままじゃいけないって、気付く何かがあったんでしょ?」
「あ、ああ。まぁな。……その、この前、さ。ティリルと二人で話す機会があったんだ」
「ティリルと二人で? ……その話、私聞いてないな。あんた、ティリルに変なことしてないでしょうね」
「冗談は言うけどな。お前の親友に手を出す勇気はさすがにねぇよ。ただ、夜中に偶然会って、少し話をしただけ。そしたらちょっと俺自身、あの子に刺激もらうような形になっちゃってさ」
「刺激?」
ミスティが聞き返した。
ティリルも心の中で鸚鵡返しにする。
「話の流れで、あの子に聞かれたんだ。……もう、欲しいものに手を伸ばさないのかって。その時は俺は、『存在しない自分の才能なんてもう信じられない』って答えたんだけど……。実際、それが俺の紛うことなき本音で、それは今考えてもその通りだなって思えるんだけど……。けど、なんかさ。あの時負けた悔しさ、みたいなものも、蘇ってきちゃって。
あの日からなんかさ、……夜、寝るのが難しいんだ」
胸が、躍った。
あの夜の会話を思い出し、ティリルはルースの言葉に舞い上がった。なぜだろう。彼の話は彼の自己評価に過ぎないのに、まるで自分のことを認められたような、誇らしい錯覚に陥った。
「そりゃあ、殊勝なことじゃない。ティリルに何言われたのかはここでは追及しないであげるけど、それで結局、自分のことは信じられないままだけど、大会に出てみるってわけ」
「そう。なんで、実際出場申請する前に、相談してみたくなったんだ」
「誰に? …………は? 私に?」
「そりゃそうだろ、こうして呼び出してるんだから」
「なんで私よ。あんたには、いくらでも追従してくれる取り巻きたちがいるじゃない」
「だからそういうんじゃないんだよ。無理だろって思ったら正直に無理だって言ってほしいんだ。そういう意見――、しかも俺のことよく知ってくれてる奴の、そういう意見がほしいんだよ」
「別にあんたのことなんて知らないって。そりゃ二年前ならともかく」
「二年前でいいよ。サボってたし、上達も衰えもろくにしてない」
「…………」
うー、とミスティの唸る声。なんで私、とぶつぶつ文句を言うその様子は、ずいぶんと珍しい。印象を言うだけなんて、いつものミスティなら聞かれれば両断即答するだろうに。
「二年前の印象なんて……」
「頼むよ、正直に教えてくれ。ミスティは俺のこと、優勝できそうだって思ってたか? それとも、どうせダメだろうなって思ってたのか?」
ずいぶんと下手に甘えるルース。その様子を、ティリルはほのぼのと、少しだけはらはらと耳にし続ける。ミスティは、何と言うのだろうか。ルースのことを、本当はどう思っているのだろうか。




