1-21-7.アルセステの焦燥
研究室棟の建物の入り口で、道を塞がれた。
「ア、アルセステさん……」
「ずいぶん待ったわ、ゼーランドさん」
相変わらず、心中を暴かぬにやつき顔。ルートとアイントが、それぞれの表情を浮かべながら、定石の通りに脇に侍っている。
冷汗が湧いた。周囲には誰もいない。一歩外に出れば人の気配はあるだろう。背後に下がれば部屋の主が籠った研究室の扉が並んでいる。だが視界には人の姿がなく、まして頼れる味方など探せようはずがない。フォルスタの研究室は二階。逃げ込むには遠いのだ。
「勉強熱心なのね。こんな時間まで専任教員の元で。まぁ、あなたの実力を考えれば当然の努力かもしれないけれど」
腕組みをしながら、いつにもまして安い挑発をよこすアルセステ。
そう、頼る者はいない。対峙するしかないのだ、自分一人で。
「ええ。私はまだまだ力不足ですから。魔法の研鑽と論理の研究には、どれほど時間があっても足りないです」
「ふふ、真面目だこと。どうせ三流魔法使の親から継いだ血では、逆立ちしたってバドヴィアに並ぶことなどできないでしょうに」
嘘吐き、と回りくどい罵詈をよこす。
開いた扉から、冷たい空気が流れ込んでくる。スカートの裾から冷える体を気候のせいだと言い聞かせ、親にまで向けられた嘲笑を心を燃やす燃料にくべる。
「そんなことが言いたくて、この時間まで待っていてくださったんですか? 寒いのに大変でしたね」
「まぁ、言うようになったじゃない。これだからあなたみたいな女はさっさと潰すべきなのよね。実力なんか何にも伴わないくせに、度胸ばっかり身に付いてどんどん生意気になっていく。大人しい山猿だった貴女の方が、私は好きよ?」
キシシ、と、ルートが例の独特な笑みを浮かべる。挑発のダメ押しだろうと思っていたが、直接彼女と会話してから改めて見てみると、ひょっとしたらアルセステの言いようを嘲っているのかもしれない、とも思えた。
などと冷静ぶってみても仕方がない。実際確かにティリルは度胸がついた。アルセステの安い挑発に胸中を激しく燃え上がらせる程度には。
「そうですね、気を付けます。度胸ばっかり身に付けて、あなたみたいに傍若無人にならないように」
「……口も減らないわね。
あなたを待っていたのは、挨拶をするためよ。出るんでしょう? 魔法大会に」
舌打ちしながら、アルセステが話を続けた。アイントが、アルセステの後頭部に目を向けている。いつでも澄まし顔で、開いているのかわからない細い目でこちらを見遣っていたのに。
「え、ええ、出ますけど。……挨拶?」
「そうよ? 私も出るのだから、ご挨拶に伺うのは変なことではないでしょう? よろしくね、学友さん」
「は、はぁ。……確か、正式な出場申請がまだだったと聞いていましたけど、済まされたってことですか」
「ええ、そういうこと。私なんかはね、国王陛下からのご推薦、なんて畏れ多いものおいそれと頂けないので、あなたとは異なる一般申請をしてきましたわ」
にんまりと表情を作り直し、両腕を腰に当てるアルセステ。アイントが静かに視線をこちらに映し、ルートは依然同じ表情でにしにしと笑っている。
「そうですか。でも、推薦を受けたからと言って大会で有利になることはないですし、何も変わりませんよね?」
「ええ、その通り。何も変わらないわ。せいぜい、対戦相手が『陛下は自分ではなく対戦相手を見たがっているんだ』と意識して全力を出せなくなる、くらいの差じゃないかしら」
言葉を飲み込んだ。
確かに、自分が対戦相手だったら。その観点は忘れていた。こんなところでこの人物が敗れ去るのは『陛下が望んでいない』と思えば、多少の手加減はしてしまうかもしれない。
「全く、ねぇ。陛下からの書面ひとつで、大会の結果も大きく変わってしまうかもしれない。人ひとり、勘違いして運命を変えられてしまうかもしれない。罪なことだと思うわ」
「……それも含めての実力だと思いますけど」飲み込んだ言葉を、拳を握って吐き出す。「陛下のお名前に委縮して本気を出せなくなってしまっても、それはその方の実力。大会で優勝するなら、そんなことに動じない強い心も必要だということでは?」
「本当に、言うようになったわね」
今度は笑みを絶やさない。くすくすと、高い形の良い鼻の先で嘲笑を弄ぶ。
「さすが、今回も前回も、国王陛下からの書面を受け取られた方は、肝の据わり方が違うということですよね」
アイントが、言葉を挟んだ。
意図を汲み取れず、困惑する。
「前回も? どういう意味ですか?」
「そんな、一から説明などさせないでくださいよ。今回、魔法大会へ出場するようご推薦を受け、その前は大学院に編入される際にその旨の通達を手になさった。ゼーランドさんは、これまでに二度、陛下からの書状を受け取られたのでしょう?」
「ああ……」
何らかの皮肉かと勘繰ってしまったが、アイントの話を聞けばなるほど、まだ、か。皮肉ではないにしても、世間話であるはずもない。あくまで、まだ、なだけだ。
「そういう意味でしたら、私は、手にはしていないです。一度も。
まず今回のご推薦は、私宛てではなく実行委員会の皆様のところに届いたそうですので、文面を見せてもらってもいません。それから自分が編入した時のことですと、最初は王様の使者の方が家を訪ねてくださいました。それからサリアに来て、陛下にも直接ご挨拶をさせて頂いたんです」
「な……っ?」
アルセステが大声を上げた。
何事か。びくりと体を震わせる。目を大きく見開き、いつも浮かべていた口許の微笑みを消して、腕を腰から離して強く拳を握り締めている。
「――……あなたが、陛下に直接ご挨拶した、っていうの?」
「え、……ええ。そうですけれど。城内の応接室で、陛下と、宰相のルクソールさんと、宮廷魔法使のネスティロイさんと、お話ししました」
ギリ、と。歯を軋る音がここまで聞こえてくる。両の拳が小刻みに震えている。
何をそんなに惑っているのか、ティリルにはわからない。初めて見せるアルセステの焦燥の顔色が、逆に正体不明の、泥の中で動く輪郭も判別できない小動物かなにかのように感じられて、気味が悪かった。
「ふ……、う、嘘を吐くのも大概になさいな」
震える声で、ようやく絞り出した。
「嘘?」
「そんな筈がない! ありえないわ! たとえ本当にあなたがバドヴィアの娘だとして、まずあなたを検分するのは国議会のはずよ。いえそれ以前に書面で十分事足りる用件じゃない。わざわざ使者が、そんな田舎まで迎えに行くなんて!」
両の掌を広げ、両腕も広げて、踊るように困惑と怒りを表すアルセステ。
「馬鹿も休み休み言いなさいな。私だって、まだ直接陛下へのお目通りは叶っていないのよ? それを、あ、……あなたのような、根も葉もない虚言癖の山猿が、私より先に陛下にお声をかけて頂いた、ですって? ふざけないでよ。ええ、ふざけないで。あなたのどんな誇大妄想も笑って聞き捨ててあげるけど、それだけは聞き流せないわ」
落ち着いて――、そんな言葉をかけるのは、本来はルートとアイントの役目なのではないのか。ルートは開いた右手のひらを口許に添えながら、「ありゃあ~、こりゃ大変だ」なんて呑気な声を零すばかりで、アイントはおろおろと慌てながら、アルセステの肩を抱くことさえできないでいただ見守るばかりの体たらく。
本当にこの二人は、アルセステの何なのだろう。自分の何だと思って、アルセステは連れ回しているのだろう。
「いいわ、決めた。あなたのことなんてちょっとからかってやるだけのつもりだったけど、今度こそ徹底的に磨り潰してあげる。楽しみにしていて。今度の魔法大会、あなたにとって忘れられない大会にしてあげるわ」
そして、ようやく落ち着きを取り戻してきたかと思えば、吐き出す言葉がこれである。唐突な宣戦布告に、怯えるのも忘れて目を丸くしてしまう。理不尽な話の流れに、今度はティリルの心中が恐慌状態だ。
「え。……え? なんで、ですか?」
「黙りなさい、あなたに与える説明なんかないわ。もういい加減、あなたみたいなドブネズミのフン、放置しておかないでちゃんと掃除しなきゃいけなかったのよ」
山猿だのネズミのフンだの、先程から、アルセステにも合わぬ強烈な悪口を重ねられていることにも、ティリルは激しい違和感を覚えた。
しかしその違和感を、布巾でしっかり拭い去ることはおろか、ひっくり返した料理の皿を一切片付けるそぶりも見せず、気にもかけずに三人は踵を返してしまう。わからないことだらけのティリルは、緊張に震えればいいのか、訳の分からぬ敵の物言いに憐憫でも抱けばいいのか、まるでわからずしばしその場に立ち尽くした。
とりあえず、あんなに迫力のないアルセステは初めてだ。
そのことが不思議で、ただ言いようのない漠然とした不安に、足許からじわじわと巻き取られていきそうなのだった。




