1-18-6.セリング師の専門科目と趣味
「ああっ! 先生何やってるんですか! なんですかこの絵は!」
と、描き終わった頃合いをまるで見計らったかのように、リーラが飛び込んできて声を荒げた。
「何のための素描きなんですか! これじゃティリル先輩のかわいらしさ麗しさがちっとも伝わらない!」
「い、いや、何のためって、衣装の研究のためだよ? ゼーランドさんのかわいらしさを伝えるためじゃあないよ?」
「そんな意味のないことやめてください! ちゃんと先輩の顔を描いて! ああっ、でも、まだお化粧してないんだった……」
ものすごい剣幕で、ファーレル師に何やらとても理不尽な文句をがなりつける。自分の生徒だろうにファーレルは言い返すことはせず。ただ言われるがままに頷き、あるいは少しだけ漫談に興じながら、リーラの言葉を受け流していた。
「先生! セリング先生! 早く来てください!」
「はいはい。あなた本当に姦しいわね。あら?」
リーラの大声に反応し、半開きの教室の扉から中に入ってきたその人物は、ティリルも知った、神学史の担当教諭だった。稲穂色の三つ編み髪を肩の前に垂らした、背の低い壮年女性。以前に、アルセステに貸された本のせいで授業に遅刻し、謝罪に赴いた。
「あなた、ゼーランドさんじゃない」
「セリング先生。どうしてここに……?」
「私は、レイデンさんに呼ばれたの。化粧を施してほしい人がいるって」
「あ、ええと、はい。リーラさんがそんな話をもってどこかへ出かけたところまでは把握しています。でも、どうしてセリング先生が呼ばれたんですか」
「ああ、そうね。本科の方にはまだ知らない方もいるのね。
私の専門は神学史研究なんだけど、サークル活動で化粧史の勉強もしているのよ」
化粧史?と、ティリルは鸚鵡返しにした。その問いに答えるのは、なぜかファーレル師だった。
「僕の研究科目と重なるところもあるんだけど、古代の各地の宗教や、それを中心にした民族の生活には、体を飾る、化粧という文化が欠かせないんだ。目の周りに色を塗ったり、体中に文様を施したり、そうすることで神への祈りを捧げていたんだね」
「体中に、なんていうのは文明開拓以前の話ですけれどね」
セリング師が注釈した。口を挟まれて、あまり嬉しそうではない様子だった。
「ファーレル先生のご専門は服飾、装飾関連を中心とした魔法学研究のようですね。私の場合は研究はあくまで神学が中心。化粧についての考察はあくまで趣味の範疇で、まぁ宗教学を学ぶ上で欠かせない要素があるので興味を持った、という程度の余興です。
今は趣味の延長で、最先端の各国の化粧文化を取り込んで実践する、美学研究会を開催しています」
はぁあ、と、細かいことはわからないながらも、ティリルは感心した深い溜息をついた。
服飾や化粧。そんな分野から、魔法学や神学へアプローチできるとは思いもよらなかった。自分は、フォルスタ史のバドヴィア学研究を中心に、直接的な魔法行使学、魔法論理学の研究をすることがほとんどだ。自分の視野の狭さを指摘されたような思いだった。
それに、正直ティリルは化粧が苦手だった。自分でしたことなど今までなかったし、身近な人間がする様子もあまり見たことがない。唯一記憶にあるのは、十三くらいの頃だったか。養母ローザが、確か知り合いの葬儀に出ると言って、ティリルとウェルを置いて街に出かけたことがあった。その時の服装は礼装と呼ぶべきものだったのだろうが、子供心には元の顔が全く分からなくなるほどの厚い化粧に肩を震わせたものだった。
「あれ、母さんかよ。化粧なんて二度としてほしくないな……」
そう呟いたウェルの苦渋面も、やけに印象に残っている。
だが、よくよく見れば今日のセリング師も、うっすらと何やら顔に塗っているように感じる。白粉と頬紅か。目許の輪郭も黒く塗っているのか。ともあれ、ローザの化粧とは随分印象が違う。
「と、いうわけで私が呼ばれたのだけれど。お化粧をするのはゼーランドさん、ということでよろしいの?」
「はい! ぜひぜひ、これ以上なくかわいくしてあげてくださいっ!」
わくわくと両の拳を首の辺りで握り、リーラがセリングに答えた。
最早リーラに対する苦言は、誰も口の端にしようとしない。どうやら空気を読み取ったらしいセリング師が、ファーレル師に向き直り、「よろしいの?」と一言確認する。
「ゼーランドさんの素描きは終わったので。その間、僕はウォルノートさんとレイデンさんの服を素描きしているので、そちらはお任せしますよ」
静かにそう答え、すっと目線をクリスの方に向ける。
ファーレルの許可も下りてしまった。どうやらもう、人生初の化粧から逃れる術はないらしい。クリスの「お疲れ様」という憐みの視線を背中でしっかり感じ取りながら、よろしくお願いします、と震えた声でセリングに一礼、背凭れのない木の椅子に腰を落とした。
リーラの暴走は感じ取っていたのだろう。セリング師は作業に向けて慎重だったけれど、声を出して反対する者がいないので、ようやく自分のすることを決めたようだ。手に持っていた木の箱を横の机に置き、中から何やら小さな壜をいくつか取り出す。白や、赤や、オレンジや、黒や。ああ、この壜の中に入っている何かが、自分の顔に塗られていくんだなぁ、とティリルは少しだけ憂鬱な気分に落ちた。
「お化粧は初めて?」
至近まで顔を近付けながら、セリング師がティリルに尋ねてきた。
会話をしても平気なのだろうか。なるべく顔を動かさないように気をつけながら、はい、と頷いた。
「緊張することはないわ。あなたは別に何もしなくていいの。ただ動かないでいれば、すぐすむから」
言われるが、体に入る力はなかなか抜けない。ぎゅむっと目を瞑り、口を真一文字に結び、さあどうにでもしろ、と言わんばかりの勢いで師に顔を突きだす自分の姿。さてセリング師にはどのように映っているのだろうか。まぁ、化粧がしやすい素地ではなかったに違いない。
「今までにお化粧をした人を見たことはないの?」
緊張をほぐそうとしてくれているのだろう。小さな筆でティリルの顔を、まずは頬の辺りを優しく撫でながら、セリングは続け様に質問をくれた。
「ええと、子供の頃、養母が葬儀に出るときにしていたのを、一度見る機会がありました」
「お葬式。それじゃあ儀礼用のちゃんとしたお化粧をされていたのね」
「はい。そうなんだと思います」
「ひょっとしてそういう化粧をされると思って緊張しているのかもしれないけれど、全然違いますからね。最初にそれは理解しておいてください」
優しい声で語りかけられ、目を開けて、違うんですかと声を漏らしてしまった。
開いた視界に、師の優しげな微笑みが映る。




