1-17-8.夢
夢を見た。
真っ暗闇の中に、ティリルは一人、立ち尽くしていた。
暗闇そのものは、怖くはなかった。ただ、どちらに向かって歩けばいいのかがわからず、不安な思いに支配されていた。
誰かの声が、響いてくる。
「まぁ、ゼーランドさん。体を壊して講義を欠席なんて、さすが世界一の魔法使の娘となると余裕があるのね」
アルセステだ。この癪に障る雑音のような声。
うるさいわね、と強気に言い返す。
「おお怖い。まぁ、せいぜい頑張りなさいな。あなたはどれだけ頑張っても、世界一の魔法使の贋物。私程度にも一生追いつけないガラクタなんだから」
ふざけないでよ! 親の威光を着てるだけのお山の大将はあんたの方じゃない!
口から飛び出していくのは、とても自分の言葉とは思えない罵詈雑言。
別の方向から、違う声が聞こえてきた。
「偉そうなこと言って。何にもできないのは本当なんだから、黙ってなさいよ」
ヴァニラの声だった。ころころとした、調子よく転がるガラス玉のような声。
そんな。どうしてそんなこと言うのっ? 私、これでもヴァニラさんのこと――。
「心配してくれたって何の役にも立たないのよ。それより絵を返してよ。あんたのその溢れる魔法の才能で、私の絵をもう一度返しなさいよ!」
そんな、こと……。そんな、私……。
次に響くのは、男性の声だった。やけに高い、軽薄な声。
「まったく、気楽なもんだよね」
昨夜遅くまですぐ近くに聞いた、ルースの声だった。
ルースさん。何が気楽だっていうの? 私の何がわかるっていうの。
「だったら君は、俺の何がわかるっていうのさ。ミスティとの仲だって? どんな夢を捨てたかだって? 余計なお世話だよ。それとも君に話したら、全部与えてくれるとでも言うのかい?」
そんなの、無理に決まって……。
強気に答えていたティリルの意気が、どんどんとしょぼくれていく。
今度は、もっと身近な声だった。
「人の言うことも聞かないで。心配だって受け取りもしないで。好き勝手やって体壊して帰ってくる奴が、何をいまさら泣き言言ってんのよ」
違う、違う違う違う! ミスティ、あなたの気持ちはちゃんと受け取ってる! 心配してくれて、いつもありがたいって思ってる!
「どうだか。どうせ私の話なんてお節介くらいにしか思ってないんでしょ。世界一の魔法使の血を継ぐティリル・ゼーランド様に、余計な口出ししてんじゃないわよって!」
……ち、がう。ちがう。そんなこと少しも思って……。
「……ミスティ、私、ミスティのことそんな風に思ってない……。いっつも感謝してるよ! そんな風に言わないで! 私、あなたにそんな風に言われたら。あなたに見捨てられたら、……どうしていいか、わからない……」
紡ぐ。
思いを紡ぐ。
声に出して紡いでも、その言葉は届かない。ミスティの声は、それ以上何も語らない。
ヴァニラもルースも、アルセステでさえ、それ以上罵倒の言葉すらティリルに残そうとしない。
暗闇の中に一人取り残されてしまったのか。
絶望感が、ティリルの足にさざりと押し寄せてきた。
「私、……わ、たし……」
「またそんなとこで泣いてんのかよ」
新しい声がした。
反射的に、顔を上げた。
懐かしい、声だった。
姿さえ、あった。
黒に近い濃い茶色の髪。茶色い瞳。ややあどけなさの残る面立ち。どこで見ても、見紛うはずがない旧知の背格好。
「ウェル!」
十年以上を一緒に過ごした幼馴染の姿が、そこにあった。
「ウェル! 私――」
「そんなところに、いつまで立ち尽くしてんだよ」
彼の声は、ひどく冷たかった。
記憶のどこを探しても見つからないような、突き放すような冷たい声。とても、彼のものとは思えなかった。
「ウェ、ウェル……?」
「俺は強くなったぞ。砂漠の国で腕試しして、今じゃおじさんよりも強くなった。ユリどころかソルザランド中探しても、きっと俺に敵う奴はいないよ」
「そ、そんなに……」
「ティリル。お前は、まだそんなとこにいるのか?」
氷のように冷たく、鋭い。
胸が、痛くなった。
「じゃあな。俺はもう行くよ。お前みたいなノロマ、もう待ってられない」
「ま、待って!」
声が出た。
一番大きな声が、喉から転び出た。
彼は、背を向けた。ティリルより少し大きい、程度の撫で肩の背を。
そして、ゆっくりと歩き出す。
嫌だと、お願いだからと、必死に手を伸ばした。
「お願い、ウェル! ウェル待って! 置いていかないで!」
返事はない。
姿が、どんどんと小さくなっていく。
「いやよ! ウェル! お願いだからっ!」
そして、消えた。
暗闇の中に一人、今度こそたった一人、ティリルは、置いて行かれた。
「う、うあ、う……、うわぁああぁぁっ」
たった一人で、嗚咽した。
誰に憚ることなく。
憚る必要なく。
そして、世界は明転した。




