1-17-2.浴室で思考に溺れ
講義が終わった後、フォルスタ師に提案した。基礎実習を捨ててもよいか。
「……どんなにくだらない、益体がないと思っても、得るものはある。年末まで耐えてみろ」
「授業のレベルがくだらないとか、そういうことじゃないんです。ラクナグ先生をバカにされるのはもう我慢ができません」
「耐えろ。ラクナグ本人に聞いても、恐らくそう言う」
確かに、とティリルは言葉を飲み込んだ。それ以上、何も言えなくなった。
黙り込んだティリルに、フォルスタは追い打ちをかける。
「あのヤルダとかいう小娘は、確かに身になるような実習はすまい。見ればわかる。だが、お前自身に言わせる隙があるのも確かだ。あの小娘が提示する課題くらい、小指の先でクリアして見せろ。それまでは実習を続けるんだ」
「そ、そんなこと……っ」
できるわけがない、と言おうとして、やはりその文句は喉の浅いところにへばりついた。自分は、学院首席を二人の師に誓った。こうも早々に白旗など上げられない。『できない』とは言えない。
項垂れて、自室に帰る。
迎えるミスティが、いちいち心配の言葉をくれなくなった。これも最早いつものこと。アルセステ関連の話なら、真っ先にミスティに相談する。魔法の成績の話なら、ティリルが弱音を吐くまでミスティにできることはない。ティリル自身、ミスティに心を開けるようになったと感じている。ミスティが、ティリルが自分に甘えてきていると自覚するほどに。だからこその関係だった。
夕飯のあと、浴室に向かう。
風呂桶に、魔法でお湯を張る。ティリルが集中して大体二十分ほど。けれど、今日はぼんやりとしていてまるで集中ができなかったので、その倍ほどの時間がかかってしまった。
「ティリル? まだ入ってるの?」
さすがに時間がかかりすぎたか、ちょうど風呂桶にお湯が溜まったタイミングで、ミスティが様子を見に来た。
「え、嘘。まだ入ってなかったの?」
「ああ、ええ、うん。その、ちょっと考え事しちゃって」
「びっくりした。いつものティリルにしちゃ長風呂だなと思ったのに、そもそも入ってすらいなかったとは思わなかったわ。まだお湯があったら今日は私も入らせてもらおうかと思ったけど……、やっぱいいわ。また今度にする」
「えっ、や、遠慮しないでいいよ。なんなら先入って」
「……や、ティリルがそこまで丁寧に溜めたお湯、申し訳なくて入れないわ」
不思議な言い回しをされて思わず目を丸くする。別に丁寧に入れていたわけじゃない、むしろ集中しなさ過ぎてただけなのに。
まぁ、ミスティなりの気が殺がれた言い訳だというのは重々承知していたので、それ以上は何も言わずに自分で入る準備をした。
服を脱ぎ、湯船に入る。少しぬるかったが、まだまだ汗ばむこの時期の気候。ゆっくり入るにはちょうど良いくらいだった。
桶の枠に両手を当て、その上に顎を乗せてふう、と溜息を吐いた。
「……フォルスタ先生の言い分も、もっともだよね」
ずっともやもやと考えていたことを、口に出してみた。
あんな教師に好き勝手言わせる、自分が未熟なのだ。学院での授業選択のしかた、考え方として妥当かどうかはさておき。嫌な思いをさせられた、それを見返す方法は、実力をつけるのが一番の近道だ。
「でも、……ねぇ」
上半身をもたげ、風呂桶の中で両手の平で器を作る。水の玉を召還すると、ゴムまりほどの大きさの水の玉が、ふわふわと空中に浮かんだ。
「……精霊さん。水の中に、火を灯して」
水の玉の中心で、小さな火花が散る。
無反応ではない。しかし、とても火が灯った、とは言えない程度の結果。
「だって、ねぇ。水の中で火が燃えるわけないし。どうしてこんな難題が、基礎実習の課題なの」
そして、今更愚痴が零れる。
結局授業のあの後の時間、同じ課題に挑んだ者はいなかった。ヤルダ師の露骨なやり口、同程度の難度の課題だと説明しながら、あからさまに容易な課題を用意する。あまりにわかりやすいやり口には、苦笑さえ浮かばない。
「ラクナグ先生。どうやったら、この課題、できますか」
いまだ手の中にある水の玉を見つめながら、師に問いかける。そこに師の顔は見えない。幻すら、浮かばない。当然魔法の水の玉が反応してくれるわけもなく、やがてティリルのやる気とともに、それは呆気なく砕けて風呂桶の中に混ざっていった。
お湯の中に、冷たい飛沫が散る。ひんやりとしたものを感じて、無意識に自分の胸の辺りを撫でた。
やるせなさも感じる。
いつか聞いた、ヴァニラの悲痛な泣き声は、今も尚耳の裏に焼き付いて離れない。
ヴァニラへの蟠りが残っているわけではない。ただ、自責の象徴として、忘れられないだけだ。
母なら。そうシアラ・バドヴィアなら。
そう思うと、自分の今の実力が、ふがいなさが、つくづくなのだ。
「お母さんだったら、どうしてた?」
今度は、面影も知らない母に問いかけた。
耳が期待する声は、ローザの声にかぶる。だが何か言葉をくれるわけでもない。ただ、小さくふふと笑ってよこすだけ。ひどい母だ、と顎まで湯につかり、口を尖らせた。
そうして、もう一度ルームメイトの声が届いた。奇妙なことに、ミスティが何と言っているのか、それもわからなくて、これも幻か幻聴かと首を捻ってみるのだった。




