1-14-7.魔法使として、バドヴィアの娘として、そして、ただの自分として
「ねえ、ティリル。お願い、少し話を聞いて。このままだとあなたが先に参っちゃうよ。ね、帰ってご飯にしよ。今日はこのまま、上の食堂に行こうよ」
ティリルの顔を覗き込むようにするミスティ。かすり、と炭を踏み込む足音が聞こえ、彼女が前のめりになったことに、ティリルも気付いてはいた。だからと言って、答えは変わらない。首を振り、行かない、と静かに答え、顔も上げずに手を動かし続ける、それだけ。
「ねえ、ねえってば! ちょっと聞いてよ!」
反応の薄いティリルに業を煮やしたか。元々気の短いミスティらしい。ティリルが無為な作業を続けていた、その手許辺りの瓦礫の上に左足をぐっと踏み込み、両手で肩をぐいと掴んで無理矢理、ティリルの首を擡げさせた。
自分が泣いていた。そのことに、ミスティの顔を見て初めてぼんやり気が付いた。月明かりの中、怒鳴りつけようと眉を吊り上げたはずのミスティの顔は、しかし目が合った瞬間息を飲むように口を止め、暗闇の中の猫のように目が丸くなった。
「……ティリル」
首を傾げず、真っ直ぐに。ティリルの顔を睨むように見つめ、ミスティは呟いた。
両手を地面につきながら、顔を上げ、ミスティを見上げるティリル。その頬を冷たいものが走り落ち、顎から右手の甲に滴った。気にはならない。自分の泣き顔を見て、顔を歪めてくれるミスティの暖かさの方が、余程胸に突き刺さる。
「何が、あったの? なんでそんな必死に……」
「だって……、だって…………っ」
声が、震えている。自分でも驚いた。
「……欠片でも見付ければ、そこから復元できるかもしれない……」
「復元? その絵を? そんなこと、どうやって――?」
「何か、何か手掛かりになるものでもないと、なんにもできないから。……できないかもしれないけど、できないと、私、何の価値もなくなっちゃうから……」
「……どういう、こと?」
ミスティの眉が吊り上がる。要領を得ないティリルの言葉に、それでも少しずつ感情を抱き始めているらしい。表情が少しずつ、アルセステの名前を口にしているときに近付いている。
「私、バドヴィアの娘としてこの学校に来たから……。その力を伸ばすために、国王様に推薦して頂いたから……。だから、もっとバドヴィアの娘としての力で、何でもできるようにならなくちゃ……。
もしも火事を鎮められたとしたって、それだけじゃダメだもの。友達の大切なものひとつ守れないようじゃ、バドヴィアの娘なんて言えない。お母さんだったらきっと、誰かを悲しませるような終わらせ方はしない。バドヴィアの娘なら、燃えた絵の一枚や二枚、簡単に元に戻せちゃうはずなのに…………」
ミスティの顔を見つめながら、声を震わせながら、呟くように囁いた。囁きながら、視界が滲むのを感じる。頬を伝う雫が、いつしか止め処なく流れていく。保っていたはずの無表情がいつしかくしゃりと崩れ、ミスティの胸に縋って必死に声を塞いだ。
嗚咽を噛み締めるティリルを、ミスティは慈愛の溜息一つ、優しく頭を撫で慰めてくれた。それがまた嬉しくて、堪らなくて、ますます強くミスティの胸に自分の顔をうずめ込んだ。
やがて、泣き止んだティリルに、まだ目頭が少しだけ熱いままのティリルに、ミスティが優しく諭すように言葉をかけた。
「ティリル。あなたが何かをできなくても、あなたがシアラ・バドヴィアの娘じゃないなんてそんなことはあり得ないのよ。だってシアラ・バドヴィアは、世界一の魔法使である前に一人の女性だったんだから。だから恋もしただろうし、結婚もしたし、ティリルのことを生んだんだよ。あなたがシアラさんの娘なのは、あなたが魔法の才を受け継いでいるからじゃない。あなたがシアラさんに、娘として愛されていたからでしょう?」
「…………」
ミスティの暖かい言葉に、ティリルは悲しみを見失った。そんなことはわかっていたこと。アルセステに何と言われてもその言葉を跳ね除けてきた、自分が持っていた筈だった理屈。けれど、感情の裡ではそれを飲み込みきれてはいなかったのかもしれない。魔法使として、バドヴィアの血を継ぐ者としてのプライドが、劣等感を生み出していた。それもまた紛れもないティリルの真実だった。
「それでももしあなたが、覚えていないお母さんのことが信じられないって言うなら、私のことを信じてよ。私、ティリルがバドヴィアの娘だから親友やってるわけじゃないよ。有名人だからとか、いずれすごい魔法使になるだろうからとか、考えたこともないよ。私がティリルを大切に思うのは、ティリルのことが好きだからだよ? それじゃ、あなたがここにいる理由にはならない?」
「う、……ふ、う……。うぁ」
堪えていた涙声が、堰を切る。
ミスティの優しい言葉に、目頭の熱さが抑えきれなくなる。親友の胸に顔を埋めて、ついにティリルは慟哭した。
空にはうすらと雲が広がり始める。先程まで煌々と輝いていた白い月が、薄い雲のヴェールをまとい、その姿を隠していく。まるでティリルの涙を覆い隠してくれるように。誰にも見つからぬようにと、ティリルが親友に甘える姿を影にしまいこむように。
「ごめんなさい。ごめ……なさい。ごべんな……いぃ……」
泣き声の合間を縫って、繰り返し口をつくのは謝罪の言葉。
ミスティは黙って、ティリルの頭を撫でてくれた。まるで本物の、血のつながった姉妹のように、優しく力強く。華奢なのにしなやかなその右手の平の感触を、ティリルは後頭部で感じ続けている。
どれくらいそうしていただろう。いつまででも泣き続けていられそうな、深い安堵を感じていたティリルも、やがて涙は涸れる。ミスティのぬくもりが、自分の体にすべて馴染んだ程合いか。
泣き止んでも尚、ティリルはまだミスティから離れられないでいた。
彼女の背中に、肩にしがみついた自分の拳が、まるで彼女の服を放そうとしない。これを手放してしまったら、自分の大切な何かも、一緒に手放してしまう。そんな気がして。
「謝ることなんて、何もないんだよ」
随分と間の空いた、ミスティの返答。恐らくは、ティリルが繰り返した「ごめんなさい」に対しての。
「建物に火が付いたのも、絵が燃えてしまったのも、あなたの友だちが救護室へ運ばれることになったのも、全部、あなたのせいじゃない。あなたが謝らなきゃいけないことなんて、何もないの。ね? だから何も心配しないで」
ミスティの言葉は続く。
ティリルは思わず、また嗚咽を零しそうになる。
しがみ付きながら、ティリルは心に誓った。この人の暖かい心を、見失わないようにしよう。自分の全てを受け入れてくれるこの親友こそ、この街に来て自分が得た中でも最高の、何よりの宝物。それを、忘れないようにしよう。
ようやく顔を上げたティリルが、慈愛の笑顔をくれるミスティに答えた言葉は、先程唱えた「ごめんなさい」の数を超える程、たくさんの「ありがとう」だった。




