1-14-6.そして静まらない、友人の心、ティリルの心
ヴァニラさんっ。名を呼びながら、笑顔を浮かべられたのは振り向くまでの刹那だけ。彼女の表情を目に映した瞬間、ティリルはヴァニラが受けている衝撃を知ってしまい、その無事を喜ぶことができなくなってしまった。
視界に収めた友人は、野次馬の視線を背負いながら、ゆっくりと、ゆっくりと消し炭に近付いていく。誰よりも、最前線で消火活動を行っていた先生や学生たちよりも、さらにさらに近付いていく。危ないぞ、まだ鎮火したばかりで火種が燻ぶってるかも知れないんだ! 誰かが叫ぶ。彼女の耳には届かない。そして、扉があったところの前まで来て、糸が切れたようにへたり崩れ落ちた。
言葉が見付からない。彼女が、どれだけの時間と、どれだけの気持ちを賭けてそれを築き上げてきたか、傍で見守っていたからこそ、何も頭に浮かばない。簡単な言葉で、その喪失感が埋められるなんて思わない。
「――ヴァニラさん」
せめて、近付く。じり、じゃり。足音が、心臓を磨り潰すように冷たく響く。
彼女のすぐ後ろまで来て、足を止めた。その顔を覗き込むことができなかった。怖くて、できなかった。
「…………私の、……絵……」
虚ろな呟き。その声音があまりにか細くて、ティリルは目頭を熱くしながら。ヴァニラの体を背後から抱き締めた。
「――ヴァニラさん。あなたが無事で、よかった」
絵のことを慰める言葉は結局見つからなかったが、せめてティリルは自分の中の正直な安堵を口にした。
ヴァニラは、ティリルのことを見ない。他の何も見ず、ただ只管に、燃えた建物を、自分がいつも座っていた辺りの場所を見つめている。抱き締めても、ティリルのことに気付いていないかのように、反応がなかった。
「……なんで、…………なんで、こんな」
「ヴァニラさん。あの――」
「ねえ、なんで? なんでこんなことになってるの? 何があったの? どうしてこんな……っ、こんな……」
弱々しい声で、ヴァニラが呟く。
答えられない。そもそも誰への問いかもわからない。
「ねえ、おかしいよね? 私、あんなに頑張ったんだよ? あんなに全部詰め込んで、時間もかけて、今までで最高の仕上がりになりそうで、……なりそうで、あとほんの少しだけ仕上げれば、それで終わりだったのに……。なんで? なんでそれが全部……」
「ヴァニラさん……」
「ねえ、ティリルっ? あなたシアラ・バドヴィアの娘なんでしょっ? どうにかしてよ、お願い、どうにかして!」
抱き締めたティリルの腕を振り解いて、初めて力強く、ヴァニラがティリルに振り向いた。壮烈な表情をしていた。悪魔にでも魂を売りそうなほど、冷たい、虚ろな微笑を浮かべていた。
張り上げた声は、それでも掠れていて、多分、野次馬達には何も聞こえていない。ただ、たった一人の耳にだけ、その言葉は鉛よりも重く響き渡った。
「どうにかして……。お願い。できるでしょ、あなたなら。……なんでもするから。お願いよ……」
今自分がどんな顔をしているか、全くわからない。何を言えばいいのかも、全くわからない。何を感じていいのかすら、ティリルは見失っていた。
周囲の人たちが動き出した。
学院長と教頭が姿を現し、事務の人間たちが集まってきた。あれこれと指示が飛び、少しずつ現場の片付けの準備が始まる。教師や学生たちは、次の授業が近付いてきたことでほとんどの人間がその場を離れ始め、何人か、恐らく次の授業がない者が残り作業を手伝う素振りを見せ始める。
ティリルとヴァニラには、学院長から早々に、「離れなさい」と言葉を浴びせられた。程なくミスティとマノンが駆け寄り、二人のことを抱き抱えながら一緒に歩いてくれた。
ミスティに肩を借りながら、最早何の音も光も頭に響かなくなった自分に気付く。ただ、ヴァニラの言葉がねっとりと、頭の内側に張り付いて剥がれなくなっていた。午後の授業はなかったが、あっても恐らく出席することはできなかっただろう。その日は数週間ぶりに、フォルスタ師の研究室にも顔を出さなかった。
夜が更けた。
後で冷静になって振り返れば、ミスティがなぜすぐにここにきたのか、それは大して不思議な話ではないとわかる。だがこの時のティリルは少々錯乱していて、ミスティの出した簡単な結論にも思い至ることはできなかった。
研究室にも行かずに部屋に戻り、自分のベッドの上でぼんやりと時を浪費するルームメイト。それが、何も言わずにふらりと外へ出かける。思うところは、昼間の火事か、その火事で美術室を失った友人か。では行く場所は、燃え尽きた校舎跡か、友人のところか、どちらか。普段黙って外出することのないルームメイトが、それから二時間、三時間経っても帰ってこないとなれば、心配にはなろうとも、探しに行く当てなど限られたものだ。
そうして、ティリルは見つかった。
片付けもそこそこに、まだ炎の爪痕がそこかしこに残る校舎の燃えかす。ティリルはここ数時間、一心不乱に瓦礫を除け、焼け焦げた柱を掘り返して、探し物をしていた。気が触れたように。
「……あ、ミスティ……」呆けた声で、親友の名を呼んだ。
「何してるの、こんなとこで」
当惑した彼女の声。何と問われて、抑揚なく答える。
「探してるの。絵を」
「絵? あの、友達の描いてたっていう?」
「うん」
答えながら、手は止めない。休まない。掘り続けていれば、いつかその欠片でも出てくるはずと、ただ信じ続けた。
「見つからないよ、そんなの。こんな、建物がまるごと潰れちゃうような大火事だったんだもの。絵だけ燃え残ってるなんて、悲しいけど、そんなこと有り得ないよ」
ミスティが、精一杯暖かい声で言った。声だけが耳に届いた。聞こえていたが、聞かなかった。
返事もせず、手を動かし続ける。そうしなければいけない。ヴァニラのためでももちろんあったが、何より自分のために、そうしなければならなかった。




