1-14-5.火を鎮めた誰かの魔法
――雨が、降り始めた。
天気の雨ではない。建物の上だけに降り注ぐ、局所的な雫の束。
誰もが、驚きを声に漏らしていた。奇跡を目にしているかのように、目を輝かせ、空を眺めた。
炎の勢いが、初めて弱まった。
俄然、魔法師たちの意気が上がる。横からは水が、下からは砂が炎に塗され、さらに上空から雨が降る。もうもうと辺りを燻していた煙が、少しずつ勢いを失っていく。
――すげえ。
――これ誰の魔法だ?
――ペンタグリヤ先生か、エルダール先生辺りじゃないの?
――二人ともいらっしゃらないぞ。こんなことできる先生が他にもいたのか。
ざわつく、野次馬たち。
実際ティリルも、その凄まじい魔法に吃驚していた。天候そのものが操られたわけではないが、ほぼたった一人の力でその激しい猛火をはや鎮めてしまわんとする水の魔法。本の中でしか見たことのない強大な魔法。それを、目の当たりにしたことに感動すら覚えていた。
やがて、火が消えた。
建物は最早二階もない。燃え尽きた炭があちらこちらに散らばり、辛うじて背丈を残す柱が何本か、斜めに立ち尽くしているばかり。
ふっと、集中力を断ち切る。使っていた魔法を散じさせる。
雨が、止んだ。
情けないことに、気付いたのがその瞬間だった。ひょっとして、この驚異の魔法を唱えていたのが自分だったのかもしれない、と。
馬鹿げたことだと、自分で自分を笑う。いくらラクナグの教えを忠実に再現したとして、唐突に自分に魔法行使の才が降って湧くはずがない。入学してから今まで三か月、いや、そもそも生まれてこの方十六年間、自分に魔法の力など欠片も感じたことはなかったというのに。
「ティリル! どうなった?」
ミスティとマノンが帰ってきた。
「あ、二人とも。火は消えましたよ。皆さんの魔法のおかげで」
「そう、よかった。校舎中駆けずり回ってとにかく人を集めたんだけど、役に立ったみたいね」
「私も頑張ってミスティの背中に『本当です! 信じて!』と書いた紙を貼っておいたのですが、お役に立てて何よりです」
「はあ?」
ミスティが背中を触る。カサカサと音がして、前に戻された彼女の手には一枚の藁半紙が掴まれていた。マノンの言葉通りの文言が書いてある。とても、達筆だった。
「いつの間にこんなの書いたのよ。そして何でこんなもの貼ってるのよ。バカじゃないのこの非常時に」
「だってミスティがとても必死に、あちこち走って声を上げていたでしょう? その真剣さが少しでも伝わるようにってお手伝いをしたのだけれど」
「逆効果でしょうよっ、こんなもん貼ってたらふざけてるようにしか見えないわ!」
大体どうやって張ったのよ。腕組みをして目を鋭くするミスティに、マノンはその紙をもう一度受け取り、「こうですよ」と言って器用に紙の端を襟元に挟んで見せた。なるほど、これなら少しくらい動き回っても落ちそうにない。
「やらんでいいわっ。ったく」
二人のやり取りに、思わずティリルは吹き出してしまう。緊張していた雰囲気が、少し緩和されたように感じた。
落ち着いて辺りを見回すと、確かに人の数が先程よりも増えていた。立ち位置的に、ほとんどの人が野次馬に徹していただけだったようだが、それでも二三人は消火に加わった人がいたようだった。中には大魔法使然とした貫禄のある白髭の老師もいた。噂には聞いている。現在の学院内で一二を争う実力を誇る、アルゴ・ペンタグリヤ師。そうか、先程の雨の魔法はやはりかの師のものか。あの時誰かが「師はいないぞ」と言っていたようだったのだが、見落としか、勘違いか、そういうことだったのだろう。
「とにかく良かったじゃあないですか。大事にならなくて。燃えたのがこの古い建物だけだったのは不幸中の幸いでした」
「や……」マノンの笑顔に、しかしミスティは依然厳しい顔を崩さない。「まだわかんないよ。人が中にいなかったかどうか聞いていないもの。それともティリル、何か聞いた?」
「あ、ううん。まだ何も。多分、まだ誰も中を捜索まではできてないと思うよ」
答えながら、抑え込んでいた不安がまたぞろ膨らんできた。ヴァニラはどうしたろうか。あの中にいなかっただろうか。普段あれ程人気の感じられない建物だから、他に誰かがいた可能性は極めて低いだろうが、ヴァニラだけは例外だ。
「ティリルのお友達も、無事ならいいけど……」
重々しく、ミスティが呟いた。見に行きたかったが、ペンタグリヤ師や他の教員たちも近付くのを躊躇している。まだ、軽々に足を踏み入れられる状態ではないのだろう。
と。
「……え、…………ちょっと、…………何よ、これ」
聞き知った声が、耳に届いた。




