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遙かなるシアラ・バドヴィアの軌跡  作者: 乾 隆文
第一章 第十四節 美術棟を襲う災難
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1-14-4.火事






「ったく。本当にあんな奴がなんでこの学院に――。……なんか、騒がしいわね」


 ぶつぶつと文句を言っていたミスティが、ふと顔を上げ、辺りをきょろきょろ見回した。


 何も見えるものはない。死角に入ったここは、こちらからも周囲の様子が著しく見えないのだ。


 三人、通りの方に戻り、様子を窺う。


 鼻を突く木のくすむ臭いと、ざわざわと西の方の空を見上げ指差す学生たちの姿。


 不穏な気配。


 ざわつく学生たち、教師たちが、尋常ならざる空気を感じ取っている。


「これって、まさか……」


 マノンが、ゆっくりとミスティの方を見た。


 拳を口許に当て、ああ、まさか本当にしてしまうなんて……、と声を震わせる。


「ふざけてる場合じゃないよ。あれ、本当に洒落にならないやつでしょ。行かなきゃ」


 マノンの冗談など鼻息で吹き飛ばし、ミスティが二人を先導した。ティリルも慌てて後を駆け出す。


 やはりミスティはとても良い人だ。野次馬をしに行こう、と声を上げたわけではない。一大事を感じ取り、自分たちができることを探しに行こう、と言ったのだ。


 応えるしかない。できることなど、何もないとしてもだ。ミスティの背を追い、マノンの横に並び、ティリルは拳を握り走り出した。


 ひとつ、気になることがある。ミスティの進む道。ティリルが向かっている先。良からぬことが起きている、その場所。


 先程ティリルは、こちらから歩いてきたのではなかったか。マノンに会う前、ティリルはこの先に向かい、目当ての人に会えずに帰ってきたのではなかったか。


 細い校舎裏の道を抜け、裏庭のような小さな野原に辿り着く。


 通い慣れた、小さな木造の建物。昨日もここで昼食を取った、黴臭い美術室のある校舎が、炎に飲み込まれ、黒い煙を勢いよく吐き出していた。


「……え、…………嘘…………」


 心が抜けてしまったかのように、呆然と立ち尽くした。


 すでに何人かの教師と学生が、魔法で水や砂を召還し、鎮火に当たっている。その数、見えるだけで六人。煙の向こう側にも一人二人いるのかもしれないが、圧倒的に少ない。火の勢いは一向に衰える気配がない。


「嘘、……嘘。ヴァニラさんっ? ヴァニラさんはっ?」


 声が漏れた。思いのほか大きな声だった。


 今日は昼休みの一番にここに来て、珍しくヴァニラに会えなかった。だから、昼食をどこで取ろうかと悩みながら学食の方へ向かっていたのだ。


 ヴァニラがいまだに戻ってきていない可能性も、高い。だが、あの炎の中に戻ってきていた可能性も、また高い。


「やだっ、そんなっ、ヴァニラさんっ? そんなの、そんなの嫌……っ」


「ティリルっ、ティリル、落ち着いて!」


 取り乱すティリルの肩を、ミスティが掴みぐらぐらと揺らす。困惑するティリルの目に、親友の力強い黒い眼が映る。


「落ち着いて。あそこに友だちがいるかもしれないのね?」


「え、あ、えっと、は、はい。ヴァニラさん、あの中にいるの? いるんですか?」


「わからないわ、落ち着いて! いるかもしれないなら、早くあの火を消さなくちゃ。ティリル、あなたも魔法を使いなさい。あなたの今の実力はわかってるけど、ないよりはきっとマシよ。いい? 落ち着いて。私とマノンもできることをするわ。あなたもあなたができることをなさい」


 きっぱりと言われ、ティリルも目が覚めた。


 そうだ。もしあの炎の中にヴァニラがいるのなら、一刻も早くこの火を消さなければならない。


 ティリルは落ち着いて、もう一度周囲を見回した。


 消火活動をしている人間、きっちり数えて八人。操っている魔法の勢い、とても弱く、火の勢いは収まる様子がない。三十人から集まっている野次馬の数を考えれば、もっと皆が協力していてよいではないか、魔法を使える人間が来ていないのか、パニックで動ける人間が少ないということなのか。


 ミスティとマノンはいち早く駆け出してしまった。もっと人を呼びに行ったのか、桶で水を汲みに行ったのか。状況を確認しても、把握できることは少なかった。


 その中で、自分が何をできるかを考えなければならない。


 ミスティは魔法を使えと言った。だが、大学院で教壇に立つような魔法使ですら、燃え盛る炎を消し流す程の水の召還はできていない。自分の魔法がどれだけ役に立つか、しばらくの間逡巡し、結論、やるしかないんだと(かぶり)を振って前に出た。


「……精霊さん。私に水の力をください。今だけでもいい、あの火を消してください」


 炎に当てられ、体の表面が熱くなる。それ以上近付くのは、自分の身が危ない。建物は三階まである。いつ崩れてくるともわからない。


 距離を置いて魔法を唱えれば、その距離を魔法で埋めなければならない。両手の平を前に出し、そこから水鉄砲のように発する水は、しかしそもそもが自然の湧き水程度の勢いでしかないティリルの穏やかな魔法で、炎に届くまでにはすっかり勢いもなく、ただほんの少し木片の端っこを濡らしては蒸発していくだけのものだった。


「そこの女! 役に立たないなら下がれ! 遊びじゃないぞ」


 十メトリ程離れたところから、土砂降りの雨程の勢いで水を放っている学生が、ティリルに叫んだ。


 びくりと肩を震わせ、集中を途切れさせた。自分は邪魔になっているのか、他の人に任せた方がいいのだろうか。だが、自分がいようがいまいが、炎の勢いは増しに増して一向に治まろうとしない。


 であれば。ティリルは下唇を噛み締め、もう一度魔法を唱え始めた。


 背中に、笑い声が刺さり始める。なぁに、あれ。あんなちょろちょろとしか出せないのかしら。いつか聞いたような嘲笑が、二言三言聞こえてくる。構わない。見ているだけの彼らよりは、きっと役に立っているはずだ。


 炎の勢いは、まるで衰えない。ついに上階の部分が少しずつ、削り取られ木の柱が降ってくるようになる。


「危ない!」


 声が響いて、自分と、先程声を上げた男性との間程に、焦げた柱が一本落ちてきた。


 火の粉がいまだ燻ぶっている。まずい、このままでは他の建物に類焼してしまうかも。振り返って、気付いた。風の流れ。まるでこの美術室棟だけを隔離するように、うねる風の壁。消火に携わる魔法使があまりに少ないと感じていたが、中にはそうして、別の形で学院を守っている者もいたのだ。


 尚更だ。他のことに気を向けず目の前の炎に集中できるなら、できる者ができることをしなければ。ティリルは再度炎に向き直り、目を瞑り、静かに念じ始めた。


「……精霊さん手伝って! 今は一大事なんです! 早く!」


 ラクナグの言葉を思い出す。精霊に、頼むのではない。命令して、そうさせるように。そして、集中するのは手の平ではなく、額からすぐのところ。




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