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遙かなるシアラ・バドヴィアの軌跡  作者: 乾 隆文
第一章 第十四節 美術棟を襲う災難
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1-14-2.ヴァニラの先輩






 そんなティリルの驚きに、気付いているのかいないのか。青年は軽く右手を肩の辺りで振り回し、すっと作業室の隅を歩いていく。ヴァニラのキャンバスから少し離れた、壁に寄り掛かるようにして立てられている画架。黄色と赤が鮮やかな、小さな油絵のようだった。その画架の足元にあった何かを、ひょいと取り上げ踵を返す。


「財布なんか忘れたの? 危なっかしい」


 今の一瞬で見えたのか、それとも元々そこにあったのを知っていたのか。ヴァニラが小首を振りながら、男に苦言を呈した。


「よく見てんなお前。まさか抜いたりしてないだろうな」


「失礼ね、あんたと違うんだから」


 軽口を言い合い、くつくつと笑い合う二人。ヴァニラの友人を見かける機会が今までなかったので、普段の美術室はこういう雰囲気なのか、と新鮮に感じてしまう。


「しっかしお前、同じ絵をずーっといじってるな。そんなにあちこち手を入れるとこがあんのか? 逆に描けてた部分を潰しちゃったりしてんじゃないのか?」


「うるっさいわね、すぐ出てくんじゃなかったの?」


 或いはただの友人、というわけでもないのか。わざわざヴァニラに近寄って、絵を覗き込んで零す溜息は、露骨に親しげな様子を表していた。


 どうだろうか。ヴァニラの表情は一向に見えず、親しげな男性の態度をどのように感じているのか読み取ることは難しい。声音だけ聞けば、心底鬱陶しそうに響いている。


「あ、ひょっとしてあれか。その絵をプロが上手に剥がしていくと、その下から全く違う絵が現れるとかいうトリック」


「何のためにそんなことするの」


「自分の絵に何千万ランスの価値が付いたときに、下から絵が出てきてこっちの絵は何億ランスの価値があります!とかなったら楽しいだろうなあうひひ、という妄想心を満たすため?」


「……あんたの中の私って相当痛い奴なのね」


 うん、火の気はなさそうだ。


 表情が見えなくても感じられる、呆れ返った友人の声の色。嫌そうでもないけれど、好意的でもない。ただひたすらに面倒くさそうだ。というか横で聞いていてすら「面倒くさい人だ」と思ってしまった。


「まあ、もうちょっとで完成なんだろ」


 男性が聞いた。


「ええ。あとほんの少しね。二三日中には完成させられると思う。先生もいい出来だって言ってくれてるしね」


 ヴァニラが答える。少しだけ首を動かし、ようやくその目が見えた。心なしか嬉しそうな表情だ。


「完成したら見せろよな」


「興味あったの?」


「そりゃあるだろ。かわいいかわいい後輩の渾身の一作だもんさ」


「そりゃどうも」


 素っ気なく答える。こちらは、別に嬉しくもなさそうだった。


 もう二言三言言葉を交わして、男性はやがて部屋を出て行った。「お邪魔さまー」と、ティリルにも軽く手を振りながら。腰を浮かせて頭を下げたティリルが、視線を上げた時にはもう、その姿はなくなっていた。


 一方のヴァニラは、なんとも疲れたとばかりに深い溜息を一つ、キャンバスに向けた。


「ごめんね、騒々しくて。いっちばんめんどくさい奴に絡まれちゃったね」


「そ、そんな。……えーと、た、楽しい方だったじゃないですか。先輩なんですか?」


「うん、ファルハイア先輩。フェルマール先生の元で美術学を学んでる専門科生だよ。面倒を見てくれるのはいいんだけどね。こう、年の離れたお節介焼きの兄貴、みたいな感じで、時々結構鬱陶しいんだよね」


 兄貴、か……。なるほどしっくりくる。面倒くさいと感じつつもいちいち相手をするその姿は、確かに兄のちょっかいに受け答えする妹のそれに近かったように思えた。


「あ、それよりヴァニラさん、その絵、もうすぐ完成なんですか?」


 話題を変える。それよりも自分が今一番聞きたい話題に。


「ん、ああ。先輩に言った通りよ。描きたいものが全部表せてるかっていうとすごく不安なんだけどね」


「でも、先生は褒めて下さってるって」


「うん。だからまぁ。……っていうか同じ絵をいつまでもいじってても仕方ないからね」


 なるほど、とティリルは頷く。なるほどとどこまで理解できたのか。気持ちは、完成したその後のことにどうしても意識が向いてしまう。


「完成したら、見せてくれるんですよねっ?」


「え、や、そりゃ勿論だけど。……ホントに、何も期待するようなものじゃないのよ? 私の絵なんて先生や、悔しいけど先輩の足元にだって及ばないんだから」


「そんなことないですよ! 私、最近あんまりちゃんとこの絵を見せてもらってなかったから、どうなったのか本当に楽しみにしてるんです」


「や、やめてやめて! 先輩の言葉じゃないけど、ホントに細かいとこちまちま直してるだけで、全然大きく変えたりしてないんだから。楽しみにされるなんてすごく恥ずかしいよ」


「ええ、でも……」


 そう言われても、昂る気持ちは抑えられない。実のところ、ティリルには、もう一つこの絵に対する予感があった。二度目にこの絵を見せてもらった時、主人公の女の子のイメージを変えた、と言っていた。あの言葉にはもう一つ隠されていることがあったのではないか。気になって、しかし自分から確かめることもできなくて、ただひたすら完成するのを待ち侘びていた。最近は、毎日ここで昼食をとっていても、絵を覗きこまないようにしていた。いよいよ完成、とその言葉を聞いたその時初めて、確認しようと決めていたのだ。


「楽しみです」


「もお、勘弁してよ」


 にこにこと友人に本心を伝えるティリル。


 少し困った声を出し続けるヴァニラ。


 二三日。今週中には答え合わせが出来るなと、折り畳んだ雑布を右手で小さく握り締めるのだった。




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