子:子
高官から要求された金額の金を得るために、輝夜は思いつく限りの犯罪を行なった。
強盗に窃盗、恐喝から傷害と多数の事件を起こしては多額の金を強奪していった。
輝夜の口から語られることのなかった知られざる一面に、龍吾はただただ愕然として見ていた。
幸か不幸か、彼女は犯罪の度合いに関係なく一度も捕まらなかった。いつも既の所で彼女は警察の目から逃れ、危機を脱していたからだ。
一見すれば幸運なことのようにも思えるが、逆に考えればこの時点で捕まっていた方が人生の狂いを最小限に留められたかもしれなかった。そのように考えればこれ以上ない不幸でもある。
だが過去は変えられない。とにもかくにも輝夜は、土台子供には無理だと思えた高額の大金を月界の時間軸で一年ほどで集め終えたのだ。
出来るわけがないとタカを括っていた高官は当然驚いたが、それ以上に驚いたのはたった一年で激変した輝夜の風貌だった。
多くの血を流させ、多くの凶行をし、多くの修羅場をくぐり抜けて来た彼女の眼は猛禽のように鋭く光のない獣の眼になり、隙を見せようものなら八つ裂きにされかねない荒んだオーラを纏っていた。
長い間入浴はおろか、清潔という言葉から疎遠だったことを思わせるように身体からは異臭が漂い、絹のようにサラサラだった黒髪は浮浪者の如くボサボサになっていた。
玉のように丸みのあった柔肌もアザや擦り傷で塗れ、獣のように伸びた爪をよく見ると血や垢が内側にこびり付いている等、はっきり言ってしまえば野生児そのものな見た目だ。
月神であった頃の優雅で爛漫な面影は無く、人がここまで変貌することに高官は背筋の凍る思いに駆られていた。
龍吾は輝夜が変貌していく過程を全て見たが故に胸が詰まる思いでいっぱいだったが、受難はまだまだ続く。
「さあ、約束通り私を地球へ送りなさい」
「あ……ああ。叶える、叶えるとも……」
怯えた高官は集めた金を受け取ると本当にコロニーへと案内した。
輝夜に与えられたのは、他惑星の調査用に作られた小型艇が一隻。旧式ではあるが地球へ向かう分には申し分ない。
いよいよ待ち焦がれた出発の時。輝夜は我先にと乗船し、手慣れた操作で小型艇を起動させた。
宙に浮いた小型艇は出港レールへ移動し、行き先を決定させるとエネルギーをチャージして地球へ一直線に射出された。
一人残った高官は輝夜が乗った小型艇が完全に見えなくなると、大金の入った包みを見ながら非常に醜悪な笑みを浮かべた。
「所詮はガキだな。特にああいった盲目なガキほど操るのはたやすい。……天源様、聞こえますでしょうか。……はい……巫界は地球へ確かに向かいました。……ええ、かしこまりました。予定通り、彼女にはとびっきりの絶望を与えて始末しておきますよ」
※
獣のような鋭い剣幕だった輝夜の顔は、地球が近づいて来るにつれて元の温和で柔らかな、年相応の少女のものへと溶けていった。
膨らむ期待、弾ける慶び、耐え難き焦燥。
一分一秒が惜しい。今すぐにでも翁と嫗の元へ行きたい。離れていた分の倍以上の話を沢山したい。
今にも爆発しそうな思いを抱いている輝夜を乗せた船は地球の大気圏に突入し、長い長い摩擦熱のベールを抜けて遂に都から少し外れたところにある山間へと着陸した。
船から飛び出し、一目散に翁たちが住んでいる屋敷へと走る。
夕焼けに染まる山を駆け降りる度に地球で過ごしてきた記憶が鮮明に甦る。
湿気を含んだ緑の香りと、冬を感じさせる引き締まった冷気が一歩を踏み出す輝夜の鼻腔と肌をくすぐって、ますます輝夜のスピードは早まっていく。
ところが山を降りていくにつれて、本来なら町からの活気ある声が麓付近まで来ても全く聞こえないことに、輝夜は違和感を覚え始めた。
声だけならまだしも、先ほどから歩けど歩けど視界を塞ぐ緑が一向に減らないのも気がかりだった。
もう山間からは抜けてここは都へ続く通り路であるはずなのに、木立や生い茂る草木は濃さを増してゆくばかり。
身体と記憶に染み付いた都周りの地理構造と、目の前にしている現実との差異。
何かがおかしい。
期待と喜びが不安へ転生していく中、輝夜はあるものを見たことで不安は受け入れ難い確信へと変わってしまう。
「……え……」
輝夜が目の前にしているもの。
それは朽ち果てて緑に呑まれた、我が家を囲っていた特徴的な塀だった。
輝夜を支えていた希望が音を立てて崩れていく。
塀を伝いながら門の方へと歩いて行くが、門を抜けた先は更に残酷な現実だった。
栄華と贅を極めた屋敷は屋根だけを残して潰れており、その屋根すらも時の流れによってか、自然の侵食による影響かボロボロに朽ちていた。
風情あふれていた庭も野草と木が無造作に生え伸び、ここが輝夜と翁と嫗が住んでいた屋敷であったことなぞ誰も分かるわけがない。
「……そんな……そんな……。うそ……うそよ……」
輝夜は知らなかった。月界と地球の時間軸にはズレがあるということを。
輝夜は月界で一年近く高官から要求された大金を集めて奔走していたが、その実、この一年は地球の時間にすれば途方もない時間が経っていた。
その間翁と嫗は当然ながら他界。住んでいた屋敷だけでなく都は衰退の一途を辿り、後世に名を残すこともなく滅亡してしまったのだ。
高官はすでにそのことを知っていた。知っていながら受け取るものは受け取り、輝夜を地球へ送った。
その事実に、輝夜の怒りは臨界点を超えてしまった。
戦慄く輝夜の身体からドス黒い炎が噴き出し、ヘドロのような粘り気のある物体が辺りに流れ出る。
正気と理性を無くし、憤怒に燃え上がる瞳が見据える先は夕闇に浮かぶ月。
慟哭を上げて血の涙を流しながら、彼女の持つ暗符が完全に解き放たれた。
「お前ら……おまえら……お前らァァアッ! 殺す! 殺してやる! 殺してやる! 殺してやるッ!! お前ら皆んな、皆殺しにしてやる! お前ら皆んな! 死んでしまええええっ!」
その日、見捨てられた地で天に昇る黒き炎龍を見た者や知る者は大和国に誰もいない。
夕闇に混じって日本の空に昇った龍は脇目も振らず月へと向かった。
※
高官の計画では、輝夜が騙されたことを知って激憤しながら戻って来たところを防衛ゲートの機銃で掃射し、宇宙の藻屑にして輝夜という厄介者を亡き者にするという段取りだった。
だが彼の計画は脆くも崩れ去った。
日本に照準を定めていたカメラに異形の姿となった輝夜が映し出された瞬間、彼とその場にいた全ての隊員が言葉を無くし、本能的に死を悟った。
顔の無い黒い炎の龍。
口と思しきポッカリと空いた穴から、真空の宇宙で聴こえるはずのない野太い赤ん坊の泣き声に似た咆哮が轟く。
「……あ、ああっ! な、何を呆けている! 早く奴を撃ち殺せ!」
呆気に取られる高官と隊員たちが反撃を行うよりも直前、月の周りに張られた不可視のバリアに黒龍は激突した。
何層にも張られたバリアは惑星間戦争を想定した強固なバリアであったが、そのバリアは何の造作もなく破られ、黒龍は月面に到達した。
決壊したダムのように、勢いよく黒炎が月界へ流れ込む。
炎の津波は瞬く間に本部を飲み込み、高官を含む隊員たちは灰すら遺さずこの世から消えた。
業火の奔流は一ヶ所だけではない。
長大な身体は月そのものを包むように広がり、各方面に点在するクレーターに偽装した出入り口をこじ開けて全方面から月界に侵入していく。
月界にけたたましいサイレンが鳴り響く。
だがそのときにはすでに月の内側に大量の黒炎が流れ込んでいて手遅れだった。
多くの命が失われた。
多くの物が壊された。
多くの世界が無くなった。
赤子から老人、女に男。差別なく殺された。
どこにでも建っている民家から、貴重な文化財も尽く壊された。
輝夜と何の接点もない無関係な世界も、例外なく破壊された。
応戦に向かった兵士は漏れなく皆、犬死にした。
兵器も、能力も、何一つ通用しないソレは、あるときは龍に、あるときは四足歩行の獣に、あるときは人型に姿を変えて暴れ回る。
黒い雷が吐かれ、放たれ、纏い、落とされ、打つけていく。
全てが未知の相手によって月界は壊滅。
生き残った数少ない天月人たちは唐突に訪れた世界の終焉に絶望し、誰もが天月人の歴史に終止符が打たれることを覚悟した。
だが、その終焉に真っ向から挑んだ者がいた。
それが今は亡き神無の父『幻月』だった。
無論、彼の能力である初符と終符が輝夜に通じたのではない。
彼も、暗符を使って応戦したのだ。
異形にして不定形の災厄に挑む赤紫の巨人。
怪獣映画さながらの大激戦は三日三晩続いて、遂に幻月の勝利によって幕を閉じた。
こぼれ落ちるヘドロの中から暗符が解除されて人の姿へと戻った幻月が掬い上げ、首根っこを掴みながらおぼろげな意識の輝夜に言った。
「お前は、早過ぎたんだ。天月人に平等を語るには、あまりに早過ぎた。このまま死ぬのは無駄死に以外の何者でもない。
生きろ。生きてその時が来たら地球へ行け。この世界はお前にとって、あまりにも汚すぎる」
そうして輝夜は、幻月の手によって月界の果て。数限られた者しかその地に足を踏み入れることが出来ない、世界そのものが牢獄となった辺境の地『血涙の牢獄』へと投獄された。
外周を広大な湖に囲まれたそこは、かつて栄華を極めた王国だったが後に滅亡。
跡地は原因不明の不幸や曰くが纏わりついて誰も寄り付かなくなり、いつからか手に負えない特級犯罪者が征く最期の流刑地として使われるようになった呪われた世界だ。
数日後、目を覚ました輝夜は虚ろな目で周りを見る。輝夜以外誰もいない孤独な世界。
廃墟の城内から夜空を見上げていると、止めどない涙が漏れ出してきた。
押し寄せる後悔と怒り、そしてこれまで耐え忍んできたストレスは無尽蔵の爆発を起こし、当たり散らすように叫び、暴れ出した。
そしてこのとき彼女の脳では力の制御を司るリミッターに暗符の影響により、常に腕力が全開となった異常な状態を引き起こした。今日まで輝夜の武器でもある怪力は、このときの名残なのである。
彼女の暴走は一人で戦争を起こしているかのような大騒動となり、丸一日暴れ回った。
そして二日目を迎えた早朝。
輝夜の精神は暗符の副作用で崩壊した。
廃人となった輝夜は暗符によって生じた黒い澱みの中へ倒れ込み、暗然の夢へと落ちていった。
飲まず食わずでも輝夜から生じる澱みが宿主を殺させまいと絶えず栄養補給を行い、肉体だけは時の流れに従い成長を続けていく。
魂の無い空っぽの身体は長い年月を経ても覚めず、傍観している龍吾はこのまま輝夜が永遠に目覚めないのではと思いかけていた。
そのとき、輝夜の中であり得ざる奇跡が起きた。
初まりは、光と呼ぶにはあまりに儚い光。
無限に続く暗闇で灯る光に、粉々に砕け散った輝夜の精神が失われて久しい反応を示す。
その光が何かは分からない。けれど妙にその光が懐かしい。
遥か遠くで瞬く光を目の前にしたい。
あの温かな光を手にしたい。
人という種の防衛反応が再起動し、崩壊した彼女の精神は再構築を試みた。
しかし決して楽な道のりではない。
今の彼女は海岸に建つ砂の像。ほんの些細なことで崩れ、その度に彼女の精神は再構築を繰り返す。
鍾乳石が成長するような途方もない時間をかけて、彼女は新たな自分を築き上げていく。
いつ終わる。いつ辿り着く。そんな答えはない。
ただの幻で、先には何もないかもしれない。
けれど輝夜は止まらなかった。
染み入るような苦痛が身を軋ませ、叩き付けられるような激痛に何度見舞われても、輝夜は自分を築き、先を目指した。
「……オ……オ……ォ……」
声とも言えない産声をあげて、暗黒の世界から光のある方へともがく。
光が近づくにつれ、沈殿していた地球での日々が蘇る。
だが蘇るのは楽しかった頃の記憶だけではない。
地球での日々が思い出すにつれて忌まわしい記憶も、腹立たしい記憶もまた蘇るものの、幻月から言われた言葉が彼女の構築を決定づけるものとなる。
「……わ……た……し……は……!」
ここで死ねば自分の人生は全てが無駄となる。
笑った奴らを何一つ見返せないまま、やられて嘲られたまま、自分が自分に価値すら見出せないまま終わる。
そんなのは、彼女自身が、許せなかった。
「かえ……る……んだ……! わた……し……は! 帰っ……て……い……きる! 生きる……んだ!」
まどろみは既に消え、喪われていた精神が一気に形成されていく。
深淵の底でもがいていた輝夜は一呼吸おいて息を整えると、身体が千切れんばかりに光へ手を伸ばした。
※
気付くと、彼女は夜空に浮かぶ星々を見上げていた。
彼女が投獄された当時に比べ周りは石床の間から生えた草木が所狭しと伸びており、輝夜が長い間眠りについていたことを視覚で分からせる。
ふと、彼女は自分の身体に目を向けた。
着ていた服は身体の成長と月日の経過によってボロボロになっていて、今の輝夜と変わらない凹凸のハッキリした曲線美の身体が露わになっている。
精神崩壊を起こし、子どもの時から時間が止まっていた本人には自分の身体が大きく変化したことに衝撃を受けるはずだった。
しかし、彼女は何も驚かなかった。
ウンでもなければスンとも言わず、足下に渦巻く黒い澱みをみやる。
「従え。私を喰らうのは、今ではない」
鶴の一声で足元に溜まった澱みは輝夜の身と一体化し、龍吾には見慣れたドレス姿の輝夜へと生まれ変わった。
それから輝夜は暗符の残滓であるドレスの操り方と、常時全力となった己の腕力の制御を独学で学んだ。
飲み込みの速さは子どものように、立ち回り方は大人のように目覚ましい速さで技をものにした輝夜は数ヶ月後、血涙の牢獄から脱獄した。
何十にも重ねられた魔力障壁を物理的に壊し、他の世界へ通じる飛空船舶移動用のレールゲートをこじ開け、輝夜が向かった先は他惑星への離発着コロニーがあった場所。
脱獄はすぐさま全世界に報じられ、時の流れと共に平穏に慣れつつあった天月人たちに緊張が走る。
コロニーに着いた輝夜は向かってくる警備のみを片手間に払い除けつつニュースログを数件拝借し、エントランスのコンピューターを操作すると地下に向かった。
直近五年間の情報を見ながら螺旋状の通路を進む。
輝夜が目覚めるまでに復興が終わったこと。
災厄の正体が輝夜であることが月界中に知れ渡っていること。
天源と月魄が表舞台から姿を消したこと。
幻月が暗符の副作用で著しい老化をしたこと。
そして、雛月は未だに輝夜を助けるために恥も尊厳もかなぐり捨てて奔走していることを知る。
輝夜が唯一苦々しく思ったのは月魄が表舞台から去ったことだけで、それも歩みを進めるうちに感傷の枠から外れた。
幾重のセキュリティーゲートを無理やり開いて向かった先は、主に工作員が秘密裏に地球へと向かう裏港だった。
情報を読み終えた輝夜は無造作にログを捨てると、キーを操作して青い地球のホログラムを映し出した。
輝夜がキーを入力してホログラムの中へ入っていくと、地球が電子の結晶となって霧散する。
室内が回り始め、輝夜の足下が電子音と共に竹に包まれると地球へ勢いよく射出された。
(じーじとばーばはもういない。月界にも居場所はどこにもない。
ならば私は地球で生きる。厄介者らしく地球では傲岸に生きてやる。生意気で、恥知らずでもいい。何をどう言われようと最期に笑っていられれば、私の勝ちだ)
かくして輝夜が向かった先は2014年の日本は奥多摩。
そこで彼女は、図らずも龍吾という人間と運命の出会いを果たしたのだ。




