ほろ苦き珈琲
砧公園の北東へ向かうと、梁のように伸びている東名高速道路があり、その下をくぐって先に向かうと、閑静な住宅街が広がっている。
風華は周りを見渡して人気がないことを確認すると、一息ついて手のひらに風を作り始め、同時に八千慧の計画を思い返すように目をつぶる。
(この国は天月人がいることに薄々気づき、加えて些細なことに対し敏感になっておる。そこが要よ。風華、この砧の公園から離れた住宅街に、道路を挟む形で田畑が敷かれている場があるな。先ずはそこで、一つ大きな風を吹かせるのじゃ。彼らは必ず反応するだろう。だがくれぐれも忘れるな。この計画はこの一帯の警備を混乱させること。死者を出すのはわしが断じて許さん。出来るか?)
八千慧の計画はふたを開けてみれば、加担者が不安を抱かずにはいられないほどの非常に簡単な仕組みだ。
内容は、風華の能力で警察をおびき出し、その間に他の三人が動き始める、というもの。
一見するとあまりに単純すぎて、失敗してしまうのではと風華は思っていた。
しかしこの内容は、日本という国柄や人柄を学んだからこそ編み出せた案であった。
良くも悪くも几帳面で真面目すぎる性質が広く浸透しているこの国は、一方のことに目が向けられるとそこから派生する応用にはうまく対応が出来ないという傾向がある。対応をしようにも現場での独断は許されず、必ずと言っていいほど上からの承認が必要となってくる。
加えて現代人の人柄も大きく関わっている。個人のプライバシーが大尊重され、トラブルを忌避するために関わりの薄くなった現代は、目の前で暴行が起きたとしても通報こそすれど助けに入ったり止めに入るようなことはほとんど無くなってしまった。
そのような要因を学んだからこそ、八千慧は今回企てた案が成功すると信じて疑わない。
夏の暑さでにじみ出た一滴の汗が風華のうなじを伝うと、眠気から覚めたようにハッと顔を上げた。
(八千慧さんを信じましょう。大きな役目がある私が不安がっていては、成功する計画だって失敗してしまいます)
風華の手中では集まった風が轟々と音を立てて、白い空気の集まりが次第に黒く変色していく。風の塊は黒くなり、亡者のうめき声のような低音を絶えず出し続けるものへ変貌する。
風華は手中に溜めていた黒い風の塊を宙へ投げ捨てると、その場からあっという間に急上昇して空へと消えた。
投げ捨てられた風の塊は、ゆっくりと重々しい音を立てながら道路に落ちると、爆風と共に黒い大型の竜巻へと変わった。
付近の家に干してあった洗濯物や自転車が舞い上がり、周囲の家は突然の爆風に軋んでいる。
晴れわたった空に伸びる一筋の黒い線は、砧公園で警備にあたっている者が声を上げると瞬く間に大騒ぎになった。
慌てふためく警備員から現場に向かう警備員。雲間まで微かだが届くパトカーのサイレン。にわかに騒がしくなった眼下の光景に、風華は通信装置を指で軽く押して八千慧たちへと連絡をした。
「八千慧さん。晶濟さん。園内の警備員さんが動き始めました!」
『よし。ではわしらもボチボチ動き始めるとしよう。風華、次の指定した場所に向かい、時間が来たら二つ目の仕掛けを頼む』
「分かりました」
『それと風華、忘れるなよ。計画とは予定外の事態が必ず起こる。故に予定外の事が起きてもそれは風華のせいではない。決して慌てるな。その時はわしらが何とかする』
「……了解です! 私、頑張ります!」
風華は映像を切ると、次に指定された場所へと飛んで行った。
※
風華と連絡を取っていた薄い半円の通信機器は緩やかな回転を止めてその場に停滞し、晶濟が回収して腰に入れた。
「……八千慧さん? あの……こう言っては失礼ですが……八千慧さんは今回の件で、私たちをどう見ていますか?」
顔色を伺いながら晶濟が問うと八千慧は嘲笑いもしなければ、侮蔑の目で見ることもせず、晶濟の目をしっかりと見ながら口を開く。
「先も言ったが、一派で名高い冥が再三の失敗を犯す。お主が加担して尚も、だ。それは一筋縄ではいかぬ者なのだろう。それを嘲笑するなぞ三流の小僧がする事よ。……それ以上に輝夜の戦力や、わしら第三派はもとより、一派ですら今回の任の詳細を知る者が少ないという異例の極みの方こそ問題よ。わしがそなたらと会うまでは……雪下、龍吾だったか? 彼を捉えよ。という命しか聞いていなかったぞ」
「冥さんも、神無の軍が関与していると言っていましたね。……そういえば、月界は今どんな感じですか?」
晶濟の問いを聞いた八千慧は、大きく息を吐くと、何とも言い難い複雑な表情となった。
「一言で言えば『暗黒』よ。二日ほど前か。『報道査定法』なるものが施行された。要は情報規制を地で行く法。どの局を回しても、神無が仕切る現三月皇の功績と、『災禍』についての特集。神無が就任する前の政権の批判。元閣僚の汚職、不祥事追求ばかり。……だが実態は、ほとんど濡れ衣や、言いがかりに等しいものばかりじゃが、情報の得る手段の乏しい大衆は、それに良いように踊らされて、神無を信仰に近い感じに支持しておる」
「ですが情報を得る手段は、何も放送局だけじゃ無いです。一般の店舗で売られている、小型から大型の電子媒体からでも、一般放送では流さない情報は、得られるはずでは?」
「放送局が奴に乗っ取られて、電子の情報網が手付かずな訳はない。見ろ」
八千慧は草摺りの裏から、小さな青藤色の正八面体を取り出した。
八千慧が軽く八面体を押すと、固まっていた八面体が八つの三角形に分かれて、回りながらホログラムで作られた月を映し出す。
月の中に幾つも点在する、世界を内包した『界球』。その中心に一際眩ゆい光を放つ界球に八千慧が触れると何の前触れもなしに画面が赤くなり、閲覧禁止と書かれた画面に切り替わった。
「これが現実じゃ。地球からですら神無のことを調べようとすれば制限に引っかかる。今、こういった媒体で調べられるのが許可されてるのは、政治、軍事、歴史に関わること以外じゃ。最も、それ以外の検索ですら、僅かでも三つのことに関することがあれば、直ちに削除されるがの。
会話のやりとりですら、神無に反抗、決起しようとする一言を言えば、どこかで誰かが密告し、次々と愛与される。誰も彼もが疑心に駆られ、娯楽も自由も失われ、亡命すら許されず。密告奨励の暗鬼に怯える暗澹の巷。娯楽も、自由も、希望すら在らぬ暗黒の世じゃ」
「……そんな……酷い状態なのですか……」
「まさに『世も末』というもの。だからこそ、月宮解放軍が存在する意味が輝いておる。わしがここに来る前も、五十近くの同士が入隊をした。あの暴政を許さぬ者は着実に増えている。その為にわしらに出来ることは微々たる物でもするのじゃ。それがわしらに課せられた義務ぞ」
「……そうですね。……ただ神無の事と、今の私たちがしている事には、何の関係が?」
「それはわしにも分からぬが、事を成し得た時にはその理由も……」
八千慧が話していると、あちらこちらからパトカーのサイレン達が、合唱しながら竜巻の方へと向かって行く。
「良し。晶濟、行くぞ」
「はい」
晶濟と八千慧は水晶の地図を見ながら、瑞穂のいる所へと歩き始めた。
※
用賀の通りを歩いている瑞穂は、一件の店へと入って行った。
━━ 珈琲店『ぽえむ』
蒸すような暑さから離れクーラーの冷風とジャズが静かに店内に響く。
出入り口を開けると少年の静かな、それでいて快活な声が迎えてくれた。だが迎えられた瑞穂は店員の顔を見ると、ギョッとして肩を小さくすくませた。
店員として働く少年『単』の顔には福顔のネコのような顔にアレンジされた、狐のお面が付けられているからだ。
「お好きな空いてる席に、どうぞ」
瑞穂は少年の顔を見ながら、入り口に近い席へと座った。
単が奥からおしぼりと水をトレイに乗せて持って来ると、一つ一つ丁寧に音を立てずにテーブルに置いていき、注文を聞き始めた。
瑞穂はメニューに目を通すも、目の前にいる単の方に気が向いてしまい、ついにその異形な格好に口を開く。
「アナタ、何その……お面。ココってそういう店なの?」
「え……あの、これはですね……」
単が答えに迷っていると、カウンター奥から老齢の主人が「いらっしゃいませ」と言いながら瑞穂の方へとやって来た。
「彼はここの幸狐なのです。失礼ですが、用賀にはお住まいですか?」
「……いいえ。最近引っ越したばかりよ」
「そうですか。彼は去年の夏祭りで店に福をもたらす幸狐として選ばれ、このお面を付けているのです。今ではこの店の名物となっていましてね」
主人からの説明を心ここに在らずという風に聞いていた瑞穂は、追求する気すら無くしてアイリッシュコーヒーとニューヨークチーズケーキを頼んだ。
「単くん。アイリッシュコーヒーの作り方は、覚えているかな?」
「はい。……あの、ありがとうございます……。僕のためにあんなウソを……」
「良いのですよ。さて、今回の注文は、全部単くんに任せてみよう。出来るかな?」
「はい、出来ます。任せてください」
狐のお面を被ったままの単は、主人が置いた注文票をカウンターに乗せると、すぐに作業に取りかかった。
長い月日を経て貫禄さえ感じる業務用のグラインダーに指定された量の豆を入れると、ものの五秒と待たずして、豆は挽き終わった。
店内で流れる音楽がかき消えてしまうほどのパトカーのサイレンが通り過ぎても、単はまるで意に介さず挽いた豆を濡らしたペーパードリップがセットされたドリッパーに入れ、主人から教わった通りのやり方で寸分の狂いもなくゆっくりと的確に湯を注ぐ。
挽いた豆達が息をするように膨れ、しぼみ、豆の中に秘められたコーヒーが液体となって滴り落ちていく。
一つ一つの動作を見守る主人は、慌てず、困惑することなくコーヒーを作る単を、孫の成長を見ているように、静かな笑みを浮かべていた。
時計の振り子の音が等間隔で時を刻み、傍で有線のジャズが流れ、その下では単の作業音が、どちらも前に出過ぎること無く、静寂の空間で共演している。
そうして一杯のアイリッシュコーヒーを作り終えた単は、チーズケーキを取り出すと丸いお盆にコーヒーと下に敷くコースター。チーズケーキの乗った丸皿を持って瑞穂の元へと近寄った。
「お待たせしました。『あいりっしゅこーひー』と『にゅーよーくちーずけーき』になります」
テーブルに二品を置くと、単は「ごゆっくりどうぞ」と言って、主人の元へと戻っていった。
単が主人の顔を見ると、柔和な表情で首を縦に振り、単はお面の下で満面の笑みを浮かべ、喜んだ。
※
瑞穂はテーブルに置かれたアイリッシュコーヒーを手に取り、香りを嗅いだ。
少女のような甘いホイップクリームの香りに混じって、嗅ぐ人の心を誘う妖艶なシャンパンの香りが、甘い霧の中でその存在をほのめかす。
グラスを軽く揺らして飲むと、舌の上でホイップクリームの甘味が先に下を通る途中で、果実のような爽やかな味が、甘味をかき分けながら舌の上を優しく歩いて去っていく。
(……お面の子は変だけど、腕は確かなモノね)
コーヒーを置いてフォークを取り、そっとチーズケーキを分け、口の中に入れる。
何の飾りも、目立つような特徴もないチーズケーキ。しかし口の中では浅すぎず、濃すぎず、塩加減も冷たさも、下生地も絶妙なバランスで成り立った味がほんの一瞬だが鮮明に脳へとその存在を記させ、気がつくと消えている。
それが『彼』のことを、もっと知りたくなるように瑞穂の持つフォークを進ませる。
ケーキを半分まで食べ終えると、再びコーヒーへと手を伸ばした。
少しだけ寝かせたコーヒーは、ホイップの香りからシャンパンの香りへと変わっていた。
それは初々しい少女が、艶やかで妖しげな、月夜が映える女性へと変わったような印象を思わせる。
音なくすすると、甘味は果実のようなキレのある酸味へと変わっていて、優しく舌を包み込むように。それでいて付かず離れずの距離を置いて、飲む者の心が『彼女』に近づこうと焦らされるような小憎らしい味へとなっていた。
これをあの狐のお面を付けた少年一人で作るものだから、奇っ怪な容姿とはいえ、こればかりは瑞穂は否応なしに彼を認めざるを得なかった。
(まぁ、あの年齢にしては及第点かしら。……最も、私の所に比べたらまだまだ、だけど)
そんな時、ふと瑞穂の脳裏に過去の記憶が蘇る。借金苦に追われる前。龍吾と正樹の三人で暮らしていた頃の記憶。
簡素だが、どこか優しく温もりのあった日常。その過去と現実が照らし合わされると、瑞穂は忌々しげな苦い顔でグラスを置き、勘定を頼んだ。
※
「ありがとうございます。千百三十円になります」
単がカウンターに立ちながら会計を行った。すると瑞穂は一枚のカードを差し出した。単は差し出されたカードと、瑞穂を交互に見比べながら、その場で立ち尽くしていた。
「え……? あ、あの……このお札は?」
「はぁ? 何言ってんの? クレジットで済ませてちょうだい」
「……くれじっと?」
「見て分かんないの? クレジットでって言ってんの!」
瑞穂の苛立った声が、静かな室内に響く。
ここにきて困惑を隠せなくなった単だが、奥から主人が「恐れ入ります」と言いながら、単の代わりに話に入ってきた。
「ここではクレジットは使えないのですよ。見ての通り、このレジ一台で、五十年間やってきたものですから」
それを聞いた瑞穂は軽く舌打ちをすると、黒い革で出来た長財布を出した。
中身は札入れが元の形からやや膨らむほどの、札束が入っていた。その中身には単も目を丸くして、凝視していた。
(……すごい数のお札……。この人相当なお金持ちなんだろうなぁ……)
財布の中を一瞥していた瑞穂は、適当に一万円札を出し、「それで」と素っ気なく言った。
立ちつくしている単に代わって、主人が会計をすませると、足早に出て行った。
「……ごめんなさい。最後の最後で……」
「良いのですよ。あなた方が現代語や、外来語に疎いことは最初に聞いていましたし。今回のことは滅多に起こらないことですから、気に病むことはありません。さ、後片付けをしましょう」
単と主人が後片付けに取り掛かると、奥から顔の左側に大きな火傷跡を残した男。鴉が出てきた。
「さっきの客はなんだってんだ。単、ご主人、大丈夫だったか?」
「……平気。今回のことは初めてのことだったし」
「昔は、ああいうお客様は少なかったのですがね。時代と共にお客様も変わったものです。鴉さん、片付けを手伝ってもらえますか?」
「あぁ、分かった」
※
店を出た瑞穂は再び蒸すような暑さがたたずむ外で、暑さへの苛立ちを露わにしながら歩いていた。
パトカーと救急車のサイレンが後方でけたたましく通りを通過し、少し離れた所には真夏の日中には堪えるスーツ姿の男性が、スマートフォン越しに会話をしていた。
「えぇ、はい。……はい、お客様とは順調なスタートでした。ご契約も視野に入れており……」
男性の会話を聞き流しながら歩く瑞穂を、屋上から見下ろす影が一つ。
影の主、八千慧は虚空から黒い木製の弓を一つ実体化させると、右手から水色の光で出来た矢を作り出して構える。
「晶濟。準備は良いか? 始めるぞ」
口元にカプセルほどの大きさの赤い光に向かって喋ると、八千慧の耳元から「了解です〜」と、晶濟の声が聞こえた。
瑞穂が商店街に繋がる十字路の前まで来た瞬間、空を切る音よりやや早く水色の矢が瑞穂の行く手を止めるように、小さな穴を開けて刺さった。
突然の出来事に瑞穂の思考が停止し、目の前に刺さった水色の矢をしばらく凝視している。
矢が粒となって霧散すると、彼女の本能が危険を察したか元来た道に引き返そうとするも、二本の矢が彼女の退路を阻む。
「な、なに!? なんなの!?」
電話で話していた男性が異変に気づいて瑞穂の方へと近づこうとすると、不意に男性の目の前にサッカーボールを一回り小さくした大きさの水晶が現れた。
男性の思考が現状に追いつくよりも前に、水晶は見た目に見合わない速さで大きく円を描きながら男性の顔を集中的に攻撃する。
肉が叩かれる音が数回して、その度に辺りに細かな血しぶきが舞って、最後は弾丸のように突進してきた水晶に男性は持っていたバッグと携帯を置き去りにして吹っ飛んだ。
血とアザまみれの顔からうめき声を上げ、空を見上げていると逆光で黒く染まった水晶が現れて勢いよく落下し、うめき声はプツリと途絶えた。
携帯からは上司か誰かの声が男性の名を叫びながら呼んでいる。その携帯を一人の女性が拾い上げると、精密な電子機器で出来たタブレットは水晶の塊へと変わった。
「ダメですよ〜? 関係ない人が出てきちゃあ」
淡い紅藤色に光る眼の晶濟が手にした携帯の成れの果ては細かな結晶へと分解され、ビリヤードボールほどの大きさの水晶に変わった。
二つの水晶が晶濟の両側に浮かぶ。一目で人外の存在と感じ取った瑞穂はついに抑えていた恐怖が解放され、喉奥から甲高い叫びが放たれた。
この世界では単と鴉が店の主人と共に働いています。アイリッシュコーヒーは大人な味がしました(語録不足)
珈琲喫茶店 ぽえむ 用賀店
東京都 世田谷区 4丁目 31-2 三光ビル一階




