竹取後日談
その日の朝はひどく静かだった。
だがそれも無理はない。突然世界を焼いた業火の傷も癒えぬ内に天月人からの侵略によって、世界は頽廃の底へと落ちた。
それだけに留まらず、中国、ロシア、アメリカ、ヨーロッパ、アフリカの主要な大陸の半分以上が消滅させられるという空前絶後の事態に、人類は多大過ぎる損害を被った。
悪夢の出来事が嵐のように過ぎ去り、命辛々生き延びた人々は冬が過ぎ去って巣穴から地上へと出た蟻のように建物から出て来る。
呆然と立ち尽くす者。途方に暮れる者。愛する者を失って悲嘆に叫ぶ者。
誰も無傷な者はいない。誰もが皆、忘れ得ぬ傷を負い、絶望的な未来に暗澹とする。
それでも時は進む。
そして人もまた立ち上がる。
どれだけ傷付き、どれだけ圧倒され、どれだけ失い、どれだけ絶望しようと、人は立ち上がって歩き出す。止まることは出来ないから。そうするしか自分たちには出来ないから。
人の歴史とは、遡れば総じて無くしては創っての繰り返し。
今回の主な原因は天月人というイレギュラーではあるものの、人類の紡ぎ上げて来たサイクルに滞りはなく、一人、また一人と自分の身の回りを片付けだして再スタートを切り出し始める。
そうして世界はまた、立ち上がっていくのだ。
※
赫皇によって無くされた部分の治療が終わって元の身体に戻った単と雷花は、輝夜を護ってくれたことに多大な感謝を龍吾から送られた後、雛月から輝夜の幼児退行の経緯を説明された。
二度と元に戻らぬかつての姫君は、龍吾に自分の自慢話を身振り手振りを使って嬉しそうに語っている。
それはかつて敵対した二人にとって、心の奥底で密かに眠っていた敵意すら無くしてしまうほどの憐憫を覚えずにはいられないという風に鎮痛な面持ちであった。
「……けどさ、これで良かったんじゃあないか?」
すっかり敵意を無くして角のない目つきになった単が、ポツリと言う。雛月が「……と言うと?」と返すと、彼なりの理論を立てて説明する。
「輝夜にとって過去にやらかしたことは、忘れたくても忘れられないような超の付く黒歴史だ。事実輝夜は自分の過去を気に病んでたんだろ。例えそれが実の親に仕組まれたことだったとしても。
でも今は、あの龍吾のこと以外は全部記憶から消えてしまった。なら、もう過去について気を病むことはないし、これからアイツが苦しむことは無い。生涯に渡って病み続けたまま生きるよりは、本人にとって楽なんじゃあないのか?」
「でも……私たちが知っている輝夜さんはもういません。彼女自身は良くても、一番近くで接してきた雪下さんや雛月さんは、決して忘れることはないでしょう。
……それならば……一体どっちが、最良の結果だったのでしょうか……」
死ぬまで過去に苛まれ続けながら生きていくか、全てリセットされて何も知らずに笑って生きていくか。
輝夜にとっては後者が正しいかもしれない。しかし龍吾たちにはどちらも正しいが故に、どちらか一つを取ることは出来ない。
誰かの幸せは誰かの不幸。真に正しい答えは無く、これから得られることも無い雷花の問いかけに雛月と龍吾は遠い目で明けの空を見つめていた。
その様子を遠目で見ていた霧奈の背後に、神楽の精靈『クロユリ』が音もなく現れた。
「ご苦労様。目的は達成されたわ。約束通り、貴女は一時間後に人間の肉体へと戻るわよ」
「そう。それは何よりだわ。……で? その後は? まさかこれでハイお終い、チャンチャンって感じで終わる訳がないわよね?」
「ええ、その通りよ。今週中にも月界から打診が来る。それまで貴女たちはしっかりと迎え入れる準備をしておきなさいね」
霧奈が生返事をすると、クロユリはその場から姿を消した。
最後の語らいが終わりに差し掛かり、龍吾たちが単と雷花から背を向けようとしたときを見計らい「雪下」と呼びかける。
「アンタ、これからどうすんの」
「どこかの山奥に隠居する。そしてもう二度とお前らや他の人とも関わらないで生きていく」
「こんな状況下よ。アンタらの顔は既に全世界に知れ渡っている。普通に逃げてたらアンタらを追う連中に捕まるわ。日本人だけじゃない。世界中の奴らに」
「捕まらないさ」
おもむろに見返しながら断言すると、龍吾は輝夜たちを連れて歩き出した。
霧奈はそれ以上何も言わず、離れて小さくなっていく三人の背中が見えなくなるまでずっと見守っていた。
「さようなら、クソガキども。精々見つからないようにコソコソ逃げ延びてろ」
残った単と雷花を見やり、特異な見た目をした単に内心驚きつつ彼女は四季皇護隊の角主らしからぬことを言い放った。
「今休憩中なんですけどー? 捕まりたいなら残ってても良いけど、面倒が嫌ならとっとと消えな」
単と雷花は顔を見合わせると、軽く会釈して別々の方向へと分かれて行った。
大気のせせらぎに合わせるように鼻で息を吐き、彼女も皇護隊本部へと帰還しだした。
※
日本某所。
手付かずの自然が鬱蒼と広がる森の中で、雛月はある一角に佇み広範囲に渡る術式を展開していた。
その術式とは輝夜が暗符に飲まれてしまう前に、全てが終わった後どうするかという話で出てきた『鏡界』である。
大型の湖を作り出し、深部まで辿り着くと住人は龍吾たちしかいない鏡写しの世界へ行けると雛月は言う。
深部まで辿り着けば誰でも行けるのかと言われれば、それは全く違うと雛月は断言する。
曰く、従者のみが学べる特殊な鍵術があり、その術を使わないと鏡界へ続く扉は開きもしなければ現れることもせず、湖を無意味に潜水するだけだと言う。
「ただ作るのにおおよそ一晩ほど要します。魔力の心配は不要ですが、龍吾様がお手空きとなってしまいます」
「いいさ。時間は腐るほどあるんだから。それに……」
何も知らずに首を傾げて二人を見ている輝夜を見ながら「それまで輝夜と遊んでいるから」と言うと、雛月は「畏まりました」と返して鏡界の作成に取り掛かった。
それから二人は、日が沈むまで遊んで時間を潰した。
子供ならではの好奇心や、想像力、底抜けのエネルギーの前では時間が経つのは一瞬で、散々龍吾を振り回した輝夜は遊ぶだけ遊ぶと龍吾よりも早く眠りについた。
月明かりに照らされている輝夜は静かに寝息を立てて安らかに寝ている。それを優しく見守る龍吾は、しかし晴れない気持ちでいた。
愛する者が目の前にいるのに、その愛する者は自分の知っている者ではない。
矛盾極まる文面だが、今の輝夜を形容するにはこれ以上に当て嵌まっているものはない。
それほど日は経っていないのに、もう別れたのは遠い過去のように。しかしかつての輝夜の面影は鮮明に記憶へこびり付いており、そのギャップと、もう二度と会えない悲しさが龍吾の堰き止めていた傷心を決壊させた。
雫が輝夜の頬へ滴り落ち、彼自身が泣いていると自覚した時には喉奥から嗚咽が出始めていた。
声を必死に押し殺して泣いている龍吾だったが、ふと輝夜が薄らと目を覚ます。
「……おにいちゃん……?」
「……わ、悪い……起こしちゃったな」
「おにいちゃん、どうしてえんえんしてるの? おばけさん、いたの?」
「いいや違うぞ。違うんだが……その……」
話せば話すだけ哀しみは増していき、龍吾は次第にこれまで溜めていたストレスや寂しさを吐き出すように声を上げて泣き出してしまった。
そんな姿の龍吾に輝夜は驚くことも鬱陶しがることもせず、おもむろに起き上がると両手で優しく龍吾を抱きしめて横になった。
「おにいちゃん、かぐやがずっといるよ。かぐやといっしょなら、おばけさんびゅーんってなるよ。ね? もうえんえんないない、して?」
子どもでありながら母のような抱擁に龍吾は輝夜に抱かれながら泣きに泣いて、そのまま微睡みの底へと落ちていった。
※
龍吾が眼を開けると、目の前には澱みの一つとない瑠璃色に包まれた海中が広がっていた。
夢であることは即座に理解出来る。ただ、今まで彼は殺伐とした時間を多く過ごして来たがために、眼前に広がる世界は極楽浄土のように映って見惚れていた。
「少しは落ち着いた? 龍吾」
背後からかけられる聞き慣れた話し方と声。
忘れるはずもない相手に気付いて弾かれるように振り向くと、そこには退行する前と全く変わらないかつての輝夜がそこにいた。
「……輝夜……! 輝夜!」
海中なのに輝夜へ駆け寄った龍吾は、そのまま輝夜を抱きしめた。まるではぐれた子供が、探していた親を見つけて抱き合うかのように。
「ちょっと離れていただけで……すっかり甘えん坊になっちゃったわね、龍吾」
「輝夜、お願いだ。戻って来てくれ。今すぐが無理なら、どんなに時間が掛かってもいいから!」
「戻りたいのは私も同じよ。だけど出来ないの。今こうして貴方の前に出ることさえ、本当は奇跡に等しいのだからね」
「それなら……どうして今ここに」
「一つは、私が超特急で私を再構築したからよ。とは言え……あともう間も無くで再び崩れて、私という存在は無数にある人格の一つへ溶けて還るでしょうけど」
「人格の……一つ?」
「ええ。簡単に言えば私は、本来の輝夜を型作る人格の一つが独り立ちしたようなもの。
けれどそれは崩壊した本来の輝夜が復活して、目覚めるまでの代用でしかない。本来の性格の前では一人格は引っ込むしかないのよ」
龍吾は思い出す。
初めて会った日から別れの日に至る時まで、輝夜は幾度となく見た目に合わない子供のような仕草や言葉遣いをすることがあった。
それは徐々に復活していた本当の輝夜が不安定ながらも目覚めたために、元の人格へ切り替わった瞬間だったのだ。
けれど完全には復活していないがために、二度寝のように本来の輝夜が引っ込むと再び龍吾たちの知る輝夜が表に出る。それが彼女の真実だったのだ。
「そしてもう一つは、暗符に飲まれた私を貴方が助けてくれた時に、崩れていく私の破片を貴方が掴んでくれたからよ」
輝夜の精神を蝕んでいた赫皇の狂信者『影月』を打ち倒した際、龍吾は霧散していく輝夜の一部を手にした。それが輝夜が完全に消えなかった一番の要因だった。
完成した絵が消えてしまっても、コピーさえあれば描き直すことが出来るように、龍吾が現実の世界へ戻る直前で行った無意識の行動が結果的に功を奏したのだ。
「たったそれだけのことが、この一時を作れるに至った。別れの挨拶くらいは言いたいと思ってはいたけど……最後の最後で、とんだ僥倖に恵まれたものね」
「……別れなんて言うなよ。まだ……最後なんかじゃないだろうがよ……!」
「そうね。まあ、確かに厳密に言えば別れではないわね。私はあくまで輝夜という一個人の人格の一つに過ぎないけれど、逆を言えば輝夜を型作る人格の一つに私がいる訳だから、本来の輝夜と一緒にいることは、私と一緒であるのと同義ではあるわね」
「違う。俺はお前といたいんだ。今俺がこうして目の前で話している、輝夜、お前と!」
意地を張った子供のような、しかし真っ直ぐで隠すことのない言葉に輝夜は照れたような苦笑を浮かべる。
輝夜の眼から一条の涙が溢れると、瑠璃色の海中は次第に柔らかな乳白色に染まり出した。
龍吾は本能的に別れの時だと悟り、それを拒むかのように輝夜を強く抱き締めた。まるで目の前の輝夜を夢から現実に連れて行こうとするかのように。
「嫌だ! 嫌だ! 輝夜、一緒に帰ろう! 会えなくなるなんて嫌だ!」
「……言ったでしょう。私は人格の一つ。今の輝夜と一緒にいるなら、私と一緒にいるようなものだって。別れじゃないの。……少しだけ……会う機会が少なくなるだけよ」
「それなら俺だって言っただろう! 俺はお前といたいんだって!!」
「……まったく、もう……。ここにきて強情なんだから」
呆れる輝夜だが、両目からは涙を流し、嬉しさと哀しさを織り交ぜた複雑な笑みを浮かべている。
そして彼女も龍吾を強く抱きしめて深いキスをした。
柔らかな白が世界を包み、やがて二人の輪郭も曖昧になっていく。
溶けるように世界が暗転していき、抗いようのない朦朧とした感覚が龍吾を包んでいく刹那に、彼女の声が聞こえた。
「龍吾。私は、貴方を愛してる」
※
自然に開いた龍吾の眼にいの一番に飛び込んで来たのは、静かな寝息を立てて安眠している輝夜の寝顔だった。
空はまだ暗いが鳥たちは一足早く目覚めて飛び立ち、間もなく朝が来ることを言葉を解さずに龍吾へ伝える。
目の前の輝夜はまだ起きる気配はなく、吉夢を見ているのか口角が少し上がっている。
「おにいちゃん……だいすきぃ……」
何も知らぬ無垢な女児の寝言に龍吾は彼女を抱きしめながら、また大粒の涙を流して泣いた。
空が仄かに明るくなりだした頃、護衛として見張っていたスミレを頼りに戻って来た雛月が、囁くような小さな声で「おはようございます」と声をかけた。
起き上がった龍吾の両目は泣きに泣いたせいもあって赤くなっており、雛月は龍吾が一晩泣いていたと察し敢えて何も触れなかった。
「鏡界の準備が整いました。今すぐにでも行けますが、いかがしますか?」
「……そうだな。輝夜はまだ寝てるが、行くか。向こうで寝れば追手のこととか心配しなくて良いだろうし」
かくして三人は一夜のうちに出来上がった湖へと入って行った。
雛月の術によって作られた淡い青色の泡に包まれながら、鍵術を使って湖底へと潜っていく。
するといつの間にか天地が入れ替わっており、気がつくと三人は沈んでいく状態から湖面へと浮上していく状態になっていた。
湖中から現れ三人が目にしたのは、先ほどまでいた山中と大して違いのない光景だった。何なら今さっきまで龍吾と輝夜が寝ていた場所まで、まるっきり同じである。
「うー? ここ、さっきのとこー?」
「雛月、俺たち本当に鏡界とやらに入ったのか?」
「入りました。疑るのも無理はありません。なにせ元の世界を下地にして作った鏡の世界ですからね。劇的な変化と言えば、この世界には私たち以外人がいないということくらいです」
「そうか。それは……いいな」
これからどうするというアテはない。しかしどうすれば良いかという答えもない。
けれど龍吾たちには希望がある。
血と、殺意と、能力が飛び交う時間。戦い、逃げ惑い、悪意の渦巻く陰謀から脱し、死を恐れる日々はもう来ない。
喧騒、他人の視線、水面下で湧く根も葉もないゴミみたいな噂、誹謗に晒されることや殺伐とした日々とは永遠に分たれ、安寧の未来だけが待っている。
今日この日、この時、この瞬間、止まっていた竹取物語の後日談が始まることを祝福するかのように、鏡界に暖かな陽が差し込んだ。
━━一方、日本の某樹海。
樹齢千年を超える大木に一人の女性が封印されている。
元月宮解放軍の『冥』は、最後に神楽と戦った時と全く変わらない姿で封印されている。
死んではいないが、蒼白い錫杖のような杖が刺さっている限り目覚めることもない。
鳥と木々の囀りが冬の風に乗って奏でられている中、冥の頭から一対の青黒い小さな闇で出来た角が表れた。
後に世界を揺るがす魔神の先触れが現れたことを、今はまだ誰も知らない。




