邯鄲の光
暗く深い海の底へ潜っていくと、黒い雲間が晴れて古き日本の世界が広がった。
空気を裂きながら落ちる龍吾の鼻腔に蔓延する檜を思わせる清涼で澄んだ香り。身体に染み渡る芯のある冷気。どこまでもどこまでも続く青空と、在りし日の日本が確かにそこにあった。
教科書にすら載っていない古き日本を見ていたのも束の間、このままでは地面に激突してしまう。
(こ、こんなときどうするんだ!? ええっと……た、たしか雛月は現実じゃ出来ないことが出来るって言ってたな! それなら……う、浮けって思えば浮くのか? 浮け浮け浮け浮け!)
龍吾が必死に念じると身体は風に乗った羽根のようにフワリと浮かび、そのまま緩やかに地上へ下降した。
あの得体の知れない不穏な見た目とは対照的に、内包する世界の穏やかさとのどかさに面食らう龍吾が付近を調べていると、風のせせらぎに混じって少女の笑い声が耳に入った。
その声には聞き覚えがあった。
龍吾は草木を分け入って声のする方へ向かうと、そこには木と藁で作り上げた昔ながらの家と老夫婦に見守られながら伸び伸びと遊ぶ一人の少女がいた。
その光景に龍吾は見覚えがある。
雛月が来たその日の内に襲撃して来た花月との戦いで、臨死体験をしたときに見た光景だ。
あの世とこの世の境目が曖昧になるような光景だが、ここが輝夜の有する結界内であるのなら今見ているのは間違うことなく輝夜の過去に起因するものに他ならない。
「輝夜……輝夜! 俺だ、龍吾だ!」
返事はない。
距離にすれば十メートルもない間隔。声が届かない訳がない。しかし輝夜と老夫婦はまるで気付く素振りもなく微笑ましい一時を過ごしている。
声が届かないなら近づいて振り向かせようと龍吾が三人の元へ近づこうとすると、急に世界がガムのように伸びだし、元に戻ると辺りは華やかで活気のある都へと変わっていた。
「な、なんだ。ここはどこだ?」
大通りを行き交う人々の服装は、現代では絶対見ない質素で洒落っ気のない服装。時代が時代故か、肌や髪は乱れて小汚い。
片や馬車で運ばれるいかにも貴族と分かる者は、簾越しでも清潔で整った身なりであるのが通りすがっただけでも分かるほどだ。
こうした明確なヒエラルキーがはっきりと表立っている世界ではあるものの、不思議と龍吾には現代日本で燻り蠢いている不満や暗く重々しい雰囲気は感じられなかった。
朗らかな空気の中で龍吾は道を歩いていると、何やら一軒の大屋敷に人集りが出来ているのを見つけた。
野次馬を無視して門を潜るとそこには広大屋敷の中で綺麗に飾られた庭を眺めながら翁と嫗と一緒に輝夜が団欒の一時を過ごしていた。
麗かな春の陽気に自然と笑みをこぼす三人の元へ龍吾は近づく。
しかし後一歩の距離まで近づいた瞬間、またも景色が伸びだして別の風景へと切り替わった。
気分も弾むような日中から一転して虫の鳴き声が子守唄を奏でる夜更け。
月を切なげに見上げる輝夜が翁と嫗に真実を告げる。
「━━だから私は……もう明日の夜には、月に帰らなければならないの。……でも……でも私は……」
「ああ、輝夜よ。怖がることはない。そのような破廉恥な月の輩なぞ、この造が取っ捕まえて叩きのめしてやろう。髪を掴んで、奴らの尻を皆んなに晒して笑い者にさせてやるぞ」
「翁様、言葉が下品にございますよ。輝夜、大丈夫。貴女はどこにも行かせません。貴女は政の道具なんかじゃあなく、輝夜という一人の命ある人間です。子を思わぬ親の元になぞ、戻る必要も大義もございません。貴女を、貴女という一人の人間を真正面から見て愛する私たちこそ、貴女の真の親として相応しいでしょう」
「しかし月の者とやらは何と下劣なものよ。あの輝きには神なる者がいると思ってはいたがとんでもない。神どころか俗物のそれではないか。そんな汚れた世界になぞ、輝夜を行かせてなるものか」
輝夜はその一言を聞いて思わず失笑して、開けっ放しの大笑いをした。
天月人が卑下して止まなかった人間が天月人と全く同じことを思い、逆に天月人を卑下するという皮肉が彼女には面白くて仕方なかったからだ。
陰鬱な表情から切り替わったことで翁と嫗にも笑みが戻る。
例え、結末は変えられないと分かっていても、この一瞬だけは、輝夜の心と人間が強く共感し合ったことに輝夜は強い喜びを覚えていた。
そしてまた世界がガムのように伸びだし、元に戻って現われたのは、龍吾が輝夜と雛月に買ったばかりのスマートフォンを見せている光景だった。
「……え……これは……」
「……龍吾? これは何ていう音楽なの?」
「え? ジャズってジャンル……種類の音楽だけど」
「じゃ……ず。じゃずと言うのね。…………素敵だわ。こんな素敵な音楽、生まれて初めて聞いたわ」
「曲名は? 曲名は何と言うのですか? 誰がこの曲を作ったのですか?」
「えぇと……『チャーリー・ヘイデン』っていう方で、『Travels』って曲名だ。外国の人が作った曲だな」
「外国の方が作ったのね。なんて綺麗な曲なのかしら。こんなの、月じゃ絶対に作れないわ」
スマートフォンから流れる音楽に感動し、カメラで三人一緒に撮影をすると、場面はそのまま三人で食卓を囲んで食事と会話に花を咲かせる場面へスムーズに切り替わった。
時系列的にいえばスマートフォンを買った当日には龍吾の父であった正樹がいたはずだが、この光景にはどこにもいない。
一家団欒の温かな一時からまた世界が切り替わり、今度は神無との戦いの後で龍吾に輝夜の過去を伝えた後。龍吾と共に肌を重ねあっているという場面であった。
唐突な生々しい場面に龍吾の心臓は氷水に浸かったように跳ね上がり、行為をする二人に堪らなくなった龍吾は顔を赤らめさせながら輝夜へ近づこうとした。
すると今度は世界が黒くフェードアウトしていき、また最初の輝夜が翁と嫗に見守られながら家の前でのびのびと遊ぶ光景へ切り替わった。
その後の光景も先ほど見た光景がそのまま流れ、また最初に戻っていく。
まるでリピート再生をしているかのような同じ光景の連続に、龍吾の中である答えが閃く。
「……ずっと楽しい時が続けば……そりゃあ幸せだよな」
先ほどから龍吾が見ている場面には共通して『喜び』や『感動』『愉快』といった幸福の感情がある。
輝夜は今、結界の中でさながら夢を見ている状態だ。
辛い思い出ばかりの幼少期から、崩壊した精神を立て直し、死闘の日々を繰り広げた今に至るまで輝夜には心休まる日々はほとんどなかった。
そしてようやく安らぎを得たと思った直後の母の死とくれば、失意と絶望は並ならぬものであることは龍吾も痛いほど共感できる。
幸福な過去に浸り、現実から逃避したくなる気持ちだって彼には分かっている。
「……だけど……逃げていても、現実は変わらないんだ。この世界にいたくても、もう過去は現実にはならないんだよ、輝夜」
幸福だった瞬間は何をどう言おうが、どう取り繕うが過去のまま。刻一刻と先へ進む現実は何も変わることはない。
辛過ぎることは分かっている。
怖いことも分かっている。
泣きたくなるくらいに拒みたくなるのも分かっている。
それでも、今、輝夜は一人ではない。
隣で支えて手を繋いでくれる相手がいる。
痛みも悲しみも孤独に耐えてきた時はこの先になく、共に痛みを分かち合える伴侶が確かにいる。
「だから━━帰ろう。輝夜。俺たちのいる現実へ」
世界は再び最初の光景。
翁と嫗に見守られてのびのびと遊ぶ輝夜に、龍吾は確かな足取りで近づいて輝夜の肩に手を乗せた。
「輝夜、待たせたな。迎えに来たぞ」
キョトンとした顔で見る幼き日の輝夜。突然現れた部外者に、翁と嫗が憤怒を露わにして近づいてくる。
「何だ君は。輝夜に何の用だ」
「爺ちゃんごめん。でも、もう連れて帰らなきゃならないんだ。俺も輝夜も、もうこの世界にはいられないんだ」
無意識に出た言葉に龍吾は「俺今何て?」と呟いたそのとき、龍吾の足下が不意に消えて真っ逆さまに闇の底へ落ちていった。
砂のように世界が崩れ落ちていく中、底に落ちた龍吾が顔を上げると真っ暗闇の世界にくるぶしより少し上辺りまで水の張った世界が見渡す限りに広がっていた。
その一角に人集りが出来ている。
走って近づくと、そこには大勢に嬲られている月魄がいた。
痛ましい姿の月魄は輝夜と似て目鼻立ちやスタイルが抜群であり、龍吾は説明がなくとも目の前にいる女性が輝夜の母であることを瞬時に理解する。
周りにいるゲスな男たちの中には赫皇や銀皇、蛇蝎たちがいるが、それ以上に目に映ったのは幼い輝夜を拘束する体勢にしながら母の惨状を見せつけている男だった。
「テメェ何やってんだ!」
怒声を上げて迫る龍吾に驚いて弾かれたように振り向いたのは月影だった。
「……バカな……あり得ぬ。あり得ぬ! き、貴様どうやってここに来た!?」
目を見開き声を震わせながら龍吾を見据える月影は、隠すことのない敵意と殺意を向ける龍吾相手に酷く怯え、動揺している。
「しかも貴様は……人間? そんなバカな! ……い……いや……まさか……。お前が? ……お前がそうなのか!?」
「なに訳の分かんねえこと言ってやがる。テメェ、タダで済むと思うなよ」
「……つくづく……ままならぬものだ……ッ! だが致し方ない。元より貴様は私の名誉を著しく損なわせた。その怨み、この場で晴らさせてもらおう。貴様も、輝夜も。永遠の闇にて永久に眠れ!」
水飛沫を上げて月影が水面に倒れると、霧がかった富士山に見える山の前にいた。
今にも雨が降りそうな曇天の下で見慣れた後ろ姿の少女が湖面にポツンと立っている。
脇目も振らず少女に駆け寄った龍吾は優しい声色で「帰ろう」と言った。
おもむろに振り返った輝夜は、泣いていた。
そして。
「……で……」
「え?」
「私に近づかないで!!」
風が吹き荒び、空が大粒の涙を流し出した。
緑が赤く染まり、湖面に彼岸花が咲き乱れていく。
山が鼓動を脈打ち、内部が仄かな光を灯して徐々に神々しい光を帯びていくと、富士山が蓮の花のように開花した。
青い炎に包まれ、血の涙を流しながら合掌する鬼の天女。
開眼した瞳は鬼灯のように赤く、食いしばった口からは牙を生やしている。
合掌が解かれ、剣を実体化させて手にすると天地を揺るがす咆哮をし、龍吾を大きく吹き飛ばした。
態勢を整えて龍吾も邂逅を起動させ、短刀ほどの刃渡りを持つ光刃を現出させる。
規模も力量も何もかもが桁違いな相手。勝てる見込みは今まで対峙してきた天月人とは比べ物にならない。
(でも、やるんだ。やってやる! 家族が待っているから。輝夜が、助けを求めているから!)
燃える闘志は陽の如く。
坐る意志は山の如し。
漢は征く。唯一人を救うために。
大和の心、此処に蘇り、侍の魂が鬨を上げる。
全ては、愛する者を護るために。
(決断は済ませた。覚悟も決めた。後は、動くだけだ!)
小さな流星が神に向かう。
振り下ろされる大剣は現実なら防ぐことも意味を成さない超規模の一撃だが、ここは不可能が可能になる固有結界。龍吾は短刀の両手持ちで弾き防いだ。
しかし一撃を防いでも攻めの手は緩まない。
大気が唸り声を上げる勢いの大振りな剣撃が龍吾に向かい、龍吾は一撃一撃を避けて、弾き、いなす。
ややもすれば身体が衝撃で消し飛んでしまいそうな超弩級の一撃。それでも龍吾は耐え忍び、進む。
彼を駆り立てるは家族を助けるというただ一つの意志だけ。
不撓不屈の心身。それを潰さんと凶刃を振るう堕ちた天女。
横に薙ぎ払われた一撃を躱した直後、真上に振り上げた一撃が龍吾を叩き斬った。
そこへ振り上げられた剣が下ろされ、彼岸花の海へ叩きつけられた。
歯を食いしばって即座に立ち上がる龍吾の身体は、右半身が欠け落ち、左側には深々と切痕が刻まれている。
しかし龍吾は恐れもせず再度立ち向かう。
意志に呼応して欠けた身体が瞬時に元へ戻るが、天女は剣に力を込めると足下へ輝く剣を突き刺した。
すると彼岸花の海から影で出来た騎馬隊がいななきながら無数に現れ、猛スピードで突撃してきた。
多勢に無勢。大火の前の小火。龍吾はなす術もなく怒涛に飲み込まれ、元に戻った身体は瞬く間に抉られ、裂けられていく。
輝く剣を払うと、今度は龍吾が今まで対峙して来た天月人の影が現れ、騎馬隊に続いて龍吾一人に猛攻を仕掛けだした。
影故に互いの攻撃は当たらず、満身創痍の龍吾だけを徹底して痛めつけていき、一撃が身体に食い込む度に龍吾の心は重く揺らぐ。
そこへ追い打ちをかけるように天女は剣を振るう。
影の天月人も騎馬隊諸共、アリの群れを薙ぐように振り払う巨神の攻撃に、彼岸花の花弁に混じって龍吾の身体が欠けていく。
雷が轟き走る黒雲に宣誓するかのように剣が掲げられると、勢いよく龍吾へと振り下ろされた。
山をも絶つ判決の一刀。大気が目に見える裂かれ方をしながら下ろされたが、龍吾は短刀を盾にして防ぎ切った。
龍吾を起点に大きな衝撃波が赤い海を波立たせる。
あれだけの猛攻を受けたにも関わらず、身体のあちこちが欠けてボロボロであるにも関わらず、彼の目は真っ直ぐ天女を睨んで離さない。
崩壊気味の身体がぎこちなく元へ戻っていく。しかしいくら戦意が消えてなくても限界は確かに存在する。
天女は再び影の騎馬隊と天月人を呼び戻し、更に春子と秋子、そして霧奈の影すら作り上げて龍吾へと向かわせた。
暴力の暴風雨の中で抗う龍吾に、天女は剣に力を込めると世界がにわかに荒れ出した。
天女の背後に黒い月輪が浮かび、形成されていた世界が瓦解していく。月へ還る世界の破片はあたかも噴き出した血飛沫のようにも見える。
紅の光が剣に灯り、完全な決着をつけるために大技を繰り出そうとする天女に、龍吾は宙を舞いながら目を力強く見開いた。
(輝夜に好き勝手するなら俺が絶対に許さねえ。輝夜は生きるんだ。これまでの過去を忘れるくらいに、幸せに! お前のようなクソ以下の奴が、輝夜に触れるんじゃねえ! 俺の家族に! 手を出すなッ!)
「俺の家族を! 返せええぇぇっ!」
剣を主砲に見立て放たれた破界の一撃。常人の身に余る一撃を龍吾は短刀で受け止める。
天女からの一撃と、龍吾の不動の意識を邂逅が汲み取り、今、邂逅は真の姿へと進化した。
黒雲を照らす旭日の如き輝きを纏いて現れたのは、江戸切子の紋様を刀身に刻んだ日本刀だった。
不屈、不退、不抜の意志は刃を天を貫く光柱という形へと成った。その大きさは天女すら遠く及ばぬ長身。
龍吾は雄叫びと共に刀を振り下ろす。
日の光がそのまま刃となったかのような超規模の刃に、天女も負けじと剣で応戦する。
しかし保ったのはほんの一瞬で、刃は剣を砕いて天女と世界を覆う黒雲を真っ二つに切り裂いた。
火花を撒きながら二つに分たれた天女。切り裂かれた空からは満天の星空が現れ、一条の流星が空を駆けていく。
天女の半身は悪鬼のような醜悪な面相と、月影の顔が入り混じった地獄の表情を浮かべながら奈落の底へと落ちていった。
もう片方は光の粒となって霧散しながら輝夜へと戻っていった。
龍吾が駆け寄り輝夜を抱き抱えようとするが、輝夜の身体は龍吾の手に触れた途端まるで砂粒のように崩れ落ちていく。
「な……か、輝夜ッ!」
絶叫する龍吾だが、しかし世界は無情にも結界を構成する輝夜が倒れたことで時間切れと言わんばかりに世界が白いモヤに包まれていく。
あっという間に目の前が真っ白になると、龍吾は手を大きく開いて輝夜だった砂粒を握ると、そのまま世界は真っ白に染まり、龍吾の意識もそのまま暗転して深い深い闇の底へと落ちていった。




