劫火
突如として世界へ拡がった劫火は、世界中を混乱と恐怖の底へ叩き落とした。
何せ水をかけても消えず、寒気や湿気すら無効化し、燃焼の材料となる酸素などを遮断させても燃え続けるという科学の常識を根底から無視した炎なのだから。
今のところは、火中にいる人間たちは生きている。本物の火で焼かれるのとは違って燃えるように暑いが、死ぬほどではない。
その異常事態に、世田谷住まいの天月人たちもまた右往左往していた。
「一体何が何だってんだ。単、索敵を任せるぞ。ご主人、一旦奥へ避難しよう。冷房代は俺の給料から差し引いていいから、今は冷房を最強にさせるからな」
昔ながらの喫茶『ぽえむ』で働く二人の天月人「鴉」と単眼の少年「単」も、突如として街を襲った炎の正体を掴めずにいた。
しかし索敵に回った単は、世界を包む劫火が直接的な敵襲によるものではないことを見破っていた。
(この炎の感じ……これは普通の火でも能力でもない。これは……暗符……? まさかこの付近で、輝夜と誰かが戦っているのか?)
軽快な足取りで建物の壁を飛び伝い、用賀の街で頭一つ飛び出たマンションの屋上に登ったところで、彼はその正体を突き止めた。
「……な……何だ、アレは……」
地平線の彼方で赤き空を貫くように伸びた黒い影。
おおよそ天然の自然現象でも地球の科学力を結集させた人工物でもないソレを見た単は、しかしあまりの規模の大きさと想像を絶した巨神の前になす術もなく立ち尽くすことしか出来なかった。
すると単の視界の端で一条の光が煌めくと、用賀一帯はおろか世田谷区そのものを囲うように電気の結界が張られた。
炎が遮断された内部では、かつての冬の寒気が束の間ながら戻ってきたものの、電気の結界はいつ瓦解しても不思議ではないほどに激しい唸り声を上げている。
「アレは……天月人? そうだ、天月人だ。それ以外に考えられない。この用賀には僕たち以外にも天月人が潜んでいたのか?」
単の見つめる先にいる、空にて一帯を守る天月人「雷花」は、空前絶後の大技を前に必死に耐えていた。
身の丈を遥かに超える大結界。用賀一帯を護るのですら限界だというのに、雷花は限界を超えて世田谷区一帯を護っていた。
そうまでして彼女を駆り立てる原動力たり得る要素は、他ならぬこの区に住まう子供たちのためである。
言うまでもないことだが、世田谷区のみならず全世界に子どもはいる。彼女がもし無限大の力を持っていたならば、喜んで彼女は世界を護っていただろう。
限界を超えてまで守れる範囲が、区の一つだけという現状に歯噛みしつつも、彼女は持てる力を以て全力で立ち向かう。
そんな彼女は一向に弱まらない火の手を前に、天月人という能力者だからこそ感じ取れる焔の性質を敏感に感じ取っていた。
(この炎……熱さだけじゃなく憎悪や悲哀、慟哭とも思える感情が脳に流れ込んでくる。……これは……この感覚…………輝夜さん?)
彼方で佇む異形の姿と化した輝夜の事情を雷花は知らない。それでも彼女の脳裏には、あの異形の黒影の正体が輝夜なのではという疑念を覚えざるを得なかった。
それは彼女が輝夜と真っ向から戦ったからこそ理解できる、一種の共感とも言えるものだった。
すると地上から青白く発光した帯が雷花の足に絡まった。
秒単位で減る魔力を雷花のパートナーであり同僚の「月島」が、能力を使って自分の魔力を分け与えているのだ。
ホログラムを起動させながら月島が安否を気遣う。
「雷花、大丈夫か! いくら何でも無理をし過ぎだぞ!」
『私のことはいいの! 私に力があったら、この星の子供たちを守りたいくらいなんだから!』
「それで雷花が死んだら元も子もないだろ! 本当にこれ以上は危険すぎる。一体この火元はどこの誰だ。自分がそいつを叩きに行く!」
『それなんだけれども……これ……もしかしたら輝夜さん、かも……。それに多分だけれど、輝夜さん……暗符を使った……のかも……』
にわかには信じがたい発言が雷花の口から飛び出し、月島は言葉を失いながらかつて月界で起きた未曾有の大惨事を思い出す。
幼稚園から教員試験に至るまで嫌というほど見た、天月人なら必修の科目。輝夜が初めて暗符を使ったときの凄惨な月界の様子を記録した動画や画像の数々がフラッシュバックを起こし出していた。
「……バカな……何で輝夜さんが? そうしたら彼女と一緒にいた雛月さんや、龍吾くんは!?」
『多分の話よ! あくまで予想! だから月島、落ち着いて! とにかく今の輝夜さんは……私たちの手の施しようがない状態だと思う。それでなくても、今はこの状態で手一杯なんだから』
「だが仮に輝夜さんが暗符を発動させたなら、雛月さんだけでどうにかなる話じゃない。考えたくもないが、雛月さんまでやられたら、龍吾くんが……!」
子どもを想う心は雷花も月島も等しく大きい。こと、月島は一時とはいえ龍吾と共に戦った。それ故に心配する気持ちは一入だ。
(ああ……龍吾さん、輝夜さん、雛月さん。あなた方は一体どこにいるのですか? もしあの影があなた方ではないのなら、どうか急いで、元凶を倒して欲しいです)
※
どこに行くというアテもなく歩みを進める輝夜を、龍吾たちは懸命に追いかける。
道中で雛月が物は試しと攻撃をしてみたものの、結果は何の意味もなかった。
精靈の攻撃、能力による攻撃、魔術による精神干渉。どれもこれも空気を殴っているかのように手応えがない。
それだけでも雛月を大きく困惑させる要因ではあるが、それは輝夜に立ち向かう自衛隊や在日米軍もまた同じ、否、それ以上に困惑していた。
なにせ最新の機器で固めた戦闘機のレーダーが、何一つ反応しないからだ。
そこに確かにいるのに、何も存在しないという矛盾。
目視での威嚇射撃は当然ながら一発も当たらず、更には動く手に当たっても戦闘機はかすり傷も付かずすり抜けていく。
常識も物理法則も通用しない相手に四苦八苦する部隊たちの下で、龍吾と雛月は炎の波飛沫の中を突き進む。
「輝夜……輝夜、止まれ! 止まってくれ! お前は居場所を見つけたんだろ! これから幸せに生きるんだろ! 俺たち家族と生きていくんだろ! 輝夜! 止まってくれ! 暗符なんかに飲まれるな! お願いだから、俺たちに気付いてくれーーっ!」
龍吾の悲痛な叫びが赤い空へ虚しく消える。
世界は今も燃やされている。今はまだ辛うじて命に関わる程度をギリギリ下回っているが、いつ状況が悪化するかは誰も分からない。
暗符という不安定の塊にして、核兵器が霞んで見えるほどの強大な脅威に対し唯一勝てる可能性がある神靈ボタンは、今も沈黙を貫いている。
劫火を放ちながら進む輝夜を追う龍吾も、スタミナが切れて追うスピードが辿々しくなっていく。
息も絶え絶えになりながらそれでも龍吾は荒い息遣いで走ろうとするが、人間のスタミナ故にとうとう息切れして足を止めてしまった。
雛月が安否を気遣うが、今の龍吾にとって一番安否を気にかけるのは自分の身よりも輝夜だけ。しかしどうにかしたくてもどうにも出来ない現実が目の前に聳え立ち、龍吾の意思を容赦なく折りにかかる。
「龍吾様、大丈夫ですか?」
「俺のことより……輝夜の方だ。雛月……何か……何かいい考えは、浮かんだか?」
「いえ……まだ何も。申し訳ございません、龍吾様……」
「……いいんだ。俺も急かしてしまってごめん。……というか、何か暑い……さっきより暑くないか? 走ったせいもあるだろうけど」
「いえ、それは気のせいではありません。この炎は、どんどん温度が上がっていっています。ようやく全貌が見えて来ました。
龍吾様、お家にありましたこんろを思い浮かべて下さい。点いた火を弱火からつまみで少しづつ強火に調整していくように……輝夜様が世界に放っている火は、徐々に強火へと出力が上がっていっている状態なのです」
「じゃあ今この火の強さはさながら弱火か。それなら最大まで上がると……どうなるんだ?」
「正直に言うと分かりません。ですが暗符とは得てして敵味方関係なく広範囲に影響を及ぼす能力。もしこのままにしておけば……それこそ……もしかしたら、星を燃やし尽くすやもしれません」
町や国という規模を一段も二段も容易に超える最悪の想定に龍吾は愕然とした。
それだけで留まらず、追い討ちとも言える過酷すぎる現実を雛月は淡々と語る。
「もしかしたら、の話です。それよりも……龍吾様、落ち着いてお聞き下さい。これはほぼ確実に言えることなのですが、仮に何らかの手段で輝夜様を助けたとしても、もうかつての輝夜様には会えないことを覚悟して下さい」
しばらくの間を空けて「なに?」と、その面持ちに相応しい抑揚も感情もない一言が龍吾の口から漏れる。
「暗符を発動させた場合、強大な力を得る代償として本人の精神や命が破壊されるのです。なので、助けることが出来ても最悪の場合は逝去。良くて植物人間や廃人のような状態だと思って下さい」
互いに欠けた所を補い合う伴侶を見つけた矢先の悲劇は、まだ成人前の龍吾には大きく、重すぎた。
焦りが熱に感化されて正常な判断が押しやられ、息切れを起こしていた龍吾は何を思ったか再び輝夜を追い出した。
火事場の馬鹿力と言わんばかりの猛スピードで輝夜を追う龍吾は、輝夜の手前まで追いつき手を伸ばしながら叫んだ。
「輝夜……ッ! 俺だ、龍吾だ! 思い出せ。俺を! 思い出してくれッ!」
声は届かない。
途方もない大きさの脚が龍吾を押し潰した瞬間、彼の眼に奇妙であり得ざる光景が映る。
それは日本の古き良き山里だった。
空は雲一つない青空。緑は青々と茂り、澄み渡った空気はまるで本当にその世界にいるかのような透明さと微かな湿気の香りを含んでいた。
一瞬の出来事に茫然としていた龍吾は、輝夜が通り過ぎて元の現実に世界が戻っても去りゆく輝夜を見返りながらボウっと見ている。
「龍吾様! 大丈夫ですか? お怪我などは━━」
「━━雛月……今のは何だ? 輝夜に触れたときに、昔の田舎みたいな景色が見えたぞ?」
怪訝な顔をして「田舎?」と返す雛月は、即座に脳に控える己の知識を全開にして熟考した。
こんな状況下で冗談を言ったわけでも、気が触れて妄言を言ったわけでもない、しかしあまりに非現実的で取り留めのない言葉は、彼女の中を包む疑問と謎の闇に一条の確かな光を導いた。
そうして一つの可能性を探り当てた雛月は、前進する輝夜を見据えながら声に確固たる意志を含んだように明瞭に言い切った。
「龍吾様、すぐに戻ってくるのでこちらにいて下さい」
雛月はそのまま弾丸のように空へ飛び出し、輝夜へ向かって一直線に突っ込んだ。
しかし雛月は何の抵抗もなくそのまま輝夜をすり抜けた。
大きく旋回しながら龍吾の元へ戻るついでに再び輝夜へと突っ込む。
やはり何も起きない。
だが龍吾の元へと戻ってきた雛月は、確信めいたように龍吾を見据えて言った。
「結論から言うと、私には何も見えませんでした。しかし先ほど仰った田舎の風景、それは龍吾様には確かに見えたのでしょう。それならば、あの姿の輝夜様に龍吾様は干渉が可能ということが考えられます」
「俺が、輝夜に干渉? ……た、助けられるかもしれないってことか?」
「可能性、ではありますが。龍吾様、先ほど見たという田舎の光景。もう少しだけ詳しく教えて頂けませんか?」
一瞬、されど記憶に残る不可思議な光景を、龍吾は事細かに伝える。
その情報を得た雛月は、ある確信に至った。
「分かりました。今、輝夜様が発動している暗符の正体。あれは固有結界の類です」
「固有結界? 何だそれ」
「すごく噛み砕いて言うなら、他人が見て触ることの出来る自分の空想世界です。結界に他人が入ると肉体と精神が自動的に分離するので、結界内では現実で困難な動きをすることが出来ます。
輝夜様の場合、何故かは分かりませんが龍吾様だけが結界の中へと入ることが出来るようです。私のように結界に入られない者は何も見えないので」
「……それは、つまり輝夜を助けられるかもしれないってことか」
「はい。ですが重ねて申し上げます。助けられても、今まで接してきた輝夜様にはもう会えません。そこだけは、どうか覚悟しておいて下さい。
そしてもう一つ、固有結界の中でも生き死には存在します。もし結界内で死亡した場合、精神も肉体も完全に崩壊し、どんな手を使っても蘇生させることは出来ません。……それでも……行きますか?」
今一度の覚悟を問い詰める雛月。しかし龍吾の答えは既に決まっている。
「ああ」と頷きながら答える龍吾に、雛月も覚悟を決めたように一度目をつぶって大きく息を吐くと「かしこまりました」と龍吾に向き合う。
「ならば善は急げです。やり方が荒いですが、龍吾様を輝夜様の中へ飛ばしてお送りします」
「そんなことが出来るのか」
「飛ばすくらいなら造作もありません。……龍吾様……? 私は今更貴方を止めません。ですが……ですが、約束して下さい。必ず、必ず帰ってくると、約束して下さい。貴方は言いましたよね? 私たちはもう家族だって。私が報われない形で死ぬなんて、俺は許さないって。
そんな格好の良いことを言って貴方まで失ったら……私は耐えられません。やっと手に入れた寄る辺を、私は失いたくありません。孤独に生きる日々なんか、私はもう味わいたくありません! だからお願いです。行くなら必ず、必ず帰って来て下さい! 約束出来ないなら、私は絶対に行かせません!」
最初の方こそ落ち着いて言っていたものの、後半は雛月らしからぬ感情の籠もった声色となり、龍吾を見据える目には涙を蓄えている。
切実な訴えを真正面から受け取った龍吾は、目を逸らすことなく言った。
「約束する。必ず、輝夜も連れて帰って来る」
根拠や理屈なんか存在しない。それでも龍吾は言い切った。そう言い切るくらいに、彼には揺るがぬ自信があった。
期待よりも不安しかないものの信じる他に手立てがない雛月は、零れ落ちる涙も拭わず龍吾を飛ばす準備に入った。
距離、速度、歩幅、角度だけでなく、龍吾の肉体に負荷がかからない適当な飛ばし方を瞬時に導き出していく。
傍にいた龍吾の身体がふわりと浮き、雛月のかざした手の動きに合わせて輝夜の背中へと狙いが定まった。
「雛月、心配ばかりかけてごめんな」
「本当ですよ、もう! 約束、ちゃんと守って下さいね! 約束破ったら、絶対に許しませんから!」
「ああ、行ってくる!」
返事を合図に龍吾は弾丸のように輝夜へと放たれた。
みるみるうちに距離が縮まっていき、背中が目と鼻の先まで迫ったそのときだった。
突然輝夜の歩幅が変わり、本来なら輝夜の中へ侵入出来る距離から遠ざかったのだ。
偶然か、はたまた意識してのことか、いずれにせよこのままでは輝夜の結界に入ることは叶わない。
しかしそこで龍吾と一身同体でいたスミレが龍吾を掴み、全力を込めて輝夜の中へ龍吾を投げ入れた。
「ありがとうスミレ! 雛月を頼む!」
雛月と同じ心配そうな顔のスミレを視界の端に捉えながら、彼はとうとう輝夜の結界へと侵入した。
侵入して間もなく肉体から流れ落ちるように精神が離れ、夜の海のような深い深い世界の底へ、龍吾は向かっていった。




