第九話 監視者
800ユニーク突破でございます。
ありがとうございます。
翌朝。
リチャードは、日が少し昇ってから、テントの中で目を覚ました。
空が白み始める少し前、起きてきたクロエに不寝番を代わってもらい、眠りについたのが三時間前。
例え短くても、睡眠がとれたことは良いことだった。
「おはよう」
焚火を挟んで座っている二人の少女に声をかける。
この二人、相変わらず言葉を交わしている様子はない。
それも予想の範囲内ではあるが。
クロエの人見知りはかなり酷い。
実家の道場でも、新規入門者は基本的に避けられる。
姿を見ても逃げなくなるまでに半年。挨拶、というか、言葉に対して反応を返してくれるまでに、平均で二年かかる。
それだけの鍛錬を積めば、充分一人前として認められるため、大抵の者は仕官して道場を去る。
その最後の日。
今まで避けられていた師匠の一人娘が、やっと反応を返してくれた――しかも、見た目は庇護欲を掻き立てる美少女。
その事実に舞い上がり、勢いそのままに彼女に迫り、怯えた彼女自身とその義父にボロボロにされ、地獄の特訓を課せられた門下生の如何に多かったことか。
実際は、ただ、彼女が相手に慣れるまでにそれだけの期間を要し、ちょうどその辺りで弟子が卒業していくだけだというのに。
「お、おはようッ!!」
「…………おはよう」
こちらを振り向いた二人の眼には、どちらにも「助かった」と浮かんでいるように見えた。
クロエが起きたのは、本来の予定から言えば寝坊も良いところの時間だった。
彼女を起こす役目のエリスは、リチャードに代わってもらったことでグッスリ寝ていたし、リチャードも半ば徹夜を覚悟はしていたので、起こすようなことはしなかった。
律儀なところのあるクロエは、僅かな時間でも、と言って歩哨を交代してくれたのだった。
エリスが目覚めたのは、それから一時間も経たないうちの事だった。
リチャードが目覚めてくるまで二時間強。
その間、エリスが一言二言会話を試みるも、クロエは返答することは無く、無言の圧力ともいうべき空気がひたすらに流れるだけだった。
クロエが、会ってまだ間もない相手に、さながら初対面の時のように、即座に逃げ出すような態度をとらなかったのは珍しいことだ。
それが二人にとって、幸運だったかどうかは別にして。
リチャードからしてみれば、こういう類の空気になることは分かり切っていたからこそ、せめて今日ぐらいはと徹夜を覚悟していたのだが、起きてみれば案の定な空気で、目覚めの悪い朝だなぁ、と他人事のように思わずにはいられなかった。
リチャードは二人にもう一度、おはよう、と返すと川に向かう。
顔を洗い、体を拭くために。
彼は殊更に潔癖なわけではない。ただ、清潔にしておくことの大切さを知っているだけだ。疫病によって家族を失った者として。
布を水に浸すと、上半身を晒し体を拭いていく。
クロエは元いた場所から動かず、昨日の朝と同じように耳元まで主に染めながら、チラチラと視線を向けている。
それを特に気にした風もなく体を拭いていくリチャードに近づく人影があった。
「ゴメンね、私だけ寝ちゃってて」
エリスは、別段恥ずかしがる素振りも無く、半裸のリチャードにも普通に声をかける。
「気にしなくて良い。あれだけのことがあったんだ。普通でいられる方がオカシイ」
じゃあ貴方達はオカシイのね、とは流石に口にしなかった。
「でも、助かったわ。会話が無いのって、結構キツイのね。あんまり経験なかったから知らなかった」
初対面こそアレだったが、それ以降は友好的に会話をしている(リチャードとのみだが)エリスは、彼らの印象通りに社交的な性格だ。
同年代の少年少女は集落にはいなかったが、上と下はいたので、田舎で退屈しながらもそれなりに楽しい生活をしていた。
というよりも、社交的な性格でないと商家の娘としては失格もいいところだ。
「小さな村に俺やアイツみたいなのがそうそう居てもらっても困るがな」
一通り体を拭き終わって、上着に袖を通しながら話を続ける。
そういえば、と前置きをして、リチャードはふと思いついたことを口にする。
「エリス、クロエと相性良いんじゃないか?」
「えぇッ!?」
二時間強会話一つ成り立たなかった相手に対して“相性がいい”という言葉は、甚だ不適当のように感じられる。
少なくとも、エリスが過ごしてきた短い生涯で身につけた常識は、それを否定していた。
「そ、そうなの?」
ただ、その常識を、この今だ謎多き自称『ただの冒険者』達に当て嵌めても良いものか、と考えると、それもまた否なのであった。
「俺は少なくともそう感じるな。あの人見知りが、昨日会ったばかりの相手の前から逃げ出さずに、隣に座っていること自体、俺にとっては少々異常に見える」
確かに、そう言われれば、最初に遭った時はともかく、そこで気絶した彼女がエリス宅の二階で目を覚ました時の反応と比べれば、まだ隠れないだけマシ、とも言えないこともない。
納得は出来ないが。
「アイツは人の目が怖いんだ」
不意にリチャードが話し始める。
――アイツ。
それが自分と同い年の、しかし明らかに年下に見える、あの黒髪の少女を指していると、エリスは正しく理解した。
少女に向けられる彼の視線は、優しげで、しかし何処か此処ではない遠い場所を見ているようだった。
「元々人を怖がるところがあった。気が弱い、と言い換えても良いんだろうが。昔のアイツは敵意を酷く恐れていたような気がする、人一倍な」
それも人としては当然だがな、と自嘲するように笑った。
その視線の先では、クロエが沸かした湯でお茶を淹れていた。
「父親が死んだ時だった。塞ぎこんだアイツを、周りにいた“善意を持つ大人”たちは悲しみから立ち直らせようとしていた。優しい言葉をかけて、強くなれと訴えた。乗り越えろと語りかけた」
でもな、と彼は続ける。
「アイツが欲していたのは、ただ悲しむための時間だった。受け入れるための時間だった。父との別れを惜しむ少しの間、そっとして置いて欲しかっただけだ。大人たちの優しさに気付いていた気の弱いアイツは、そのことを言えなかった。彼らの言葉の正しさも理解できたから」
クロエから視線を外し、エリスに向き合う。
「結果、クロエは優しさを怖がるようになった。……怖がる、とはちょっと違うか。普通の人が与える優しさと、自分の求める優しさが少し違うことに気付いた。それは、俺やアイツみたいに、ちょっとズレた人間にしか理解出来ない物なのかもしれないと」
向けられたリチャードの青の瞳は、どこか寂しげで、少し悲しそうだった。
「周りの善意を感じられるのに、自分の求める優しさはそこには無い。一番辛い場面で、周りは自分を理解してくれないかもしれない、と彼女は恐れている。ならば、と自分を理解してくれる俺に頼っている。それは歪んだ形だけれど、それを直すのは難しい」
彼は静かに息を吐き、視線を空へと向ける。
今日も空は透き通る蒼で、雲一つない。
「だから、アイツは人に踏み込まない。相手との距離が測れるまでは逃げて、距離が分かったらそれ以上は入ってこないし入らせない。優しい言葉を掛けられるのが怖いから。その優しさが、自分の求めるものとは違うかもしれないから」
「……それは、“弱さ”だよね」
静かに聞いていたエリスが、言葉を放つ。
リチャードもそれに首肯する。
「ああ、弱さだ。条件は皆同じ。誰しもが一度ならず経験することだ。アイツがそれを恐れているだけで、実際は大した問題じゃないのかもしれない。しかし、その弱さを悪だと決めつけても、決していい結果を生まないことは分かるだろう」
問いかけるような視線に、エリスは黙ったまま頷く。
「アイツに必要なのは、今も昔も時間なのさ。自分の弱さを受け入れるだけの時間。恐れるものの本質を理解する時間。それが解決するまでは、人に近づかれるのを嫌う。好意を向けられるのを嫌う。正直、どれくらいの時間がかかるかは分からないが……」
クロエがお茶を淹れたカップをもって歩いてくる。
リチャードはそれを受け取ると、空いた手を優しく少女の頭に乗せる。
サラサラと長い黒髪を梳かれるたびに、クロエはくすぐったそうに身を震わせ、柔らかな笑みを浮かべる。
「出来れば仲良くしてやってほしい。相性のいい同性は居なかったから」
「……そうね。私も同じ年の友達って欲しかったのよね。こっちからお願いしたいくらいだわ」
微笑みを浮かべるエリスと、話についていけなくて首を傾げているクロエの姿が、対照的だった。
一行は、一度村に戻ることにした。
今後どうなるかはさて置いて、村の食糧庫やエリスの家の倉庫にはそれなりの備蓄があり、それをいくらか融通してもらおうという考えだった。
屋根の下で寝たい、という希望が少なからずあったことも、決して無関係ではない。
昨日と同じように、馬の背に揺られる三人。
村までは馬がゆっくり歩いて二時間ほど。
平坦な草原を、のんびりと歩いていく。
左手に流れる川の向こうに、少し深めの森が見えてきた。
昨日は川から離れていたので遠目に見るだけだったが、対岸から間近に見るその森は、果たしてどれほどの深さがあるのか、窺い知ることは難しいように見えた。
「「ッ!?」」
森も半ばまで来たところで、リチャードとクロエが反応した。
二人は、ほぼ同時に森の中に目をやる。
「どうしたの?」
声をかけてくるエリスに目を向けずに、リチャードは答える。
「……見られている」
眺めているとか、視界の端に映っているとか、そういう類ではない。
観察されている。
そう思わせるような、どこか粘つく視線を感じていた。




