頼めることと雲行き
翌朝。
目を覚ますと、隣でハズはまだ眠っていた。
昨晩は背を向けて眠ったはずだが、仰向けで大きないびきをかいていた。掛け布団はお腹に少しかかっているだけで、ほとんど蹴り飛ばされている。
つまり、端的に言ってちょっと寝相が悪い。
でも、その気の抜けた姿が逆に嬉しかった。
私は、ハズを起こさないようにベッドから下りて、着替えを持ってお手洗いへ向かった。
お手洗いで着替えを済ませると、宿の一階で朝食を購入することにした。
パンとチーズと水を二つずつ。 部屋に戻れば、村から持ってきた果物もある。
部屋に戻ると、ハズは起きたばかりの様子だった。
寝ぼけ眼で身体だけ起こして、開ききらない目でこちらを見ていた。
「おはようございます」
「おはよ。また、敬語?」
「……おはよ。下で朝ごはん買って来ま……来たよ」
まだ、タメ口をきくのが少し恥ずかしい。
でも、せっかく詰まった距離感を元に戻したくなかったので気を付けることにする。
そんな私の様子を察したのか、ハズは少し笑った。
「ありがとう」
ハズの分をベッド脇のサイドテーブルに置く。
ハズは、水とパンを両手に持って、もぐもぐと食べ始めた。
「今日は九時ですね。これを食べたら出発しましょう」
ハズはもぐもぐ食べながら、私を見た。
「もう、着替えたのか」
「はい。先ほどお手洗いで」
「気を遣わせてすまん」
「うぅん。ハズにばかり気を遣わせてるから」
「いや……うん」
私は、たくさん食べるハズと比べて食べる量が少ないので、早々に食べ終えた。
「下で待ってますね。急がなくて大丈夫だから、ゆっくり身支度してください」
そう言い残して、先に部屋を出る。
下のロビーに下りる前にソンさんの部屋をノックしようと思ったら、ソンさんは既に出てしまったようで、宿の女将さんが部屋を掃除していた。
ソンさんへの挨拶は諦めて、一階のロビーでハズが降りてくるのを待つ。
待っている間に、窓の外では、平服姿の一団が大きな馬車に乗り込んでいくのが見えた。
――あれが、王都への送迎馬車。
街の人だけでなく、近隣の村からもあんなふうに出稼ぎに出ていく人がいるのだろう。
そう思いながら、私はぼんやりと窓の外を眺めていた。
「おまたせ」
ハズが荷物を背負って降りてきた。
「ううん。まだ時間には余裕ある。ゆっくり行こう」
「ん」
宿を出て、二人で並んでゆっくり歩き出す。 再びポンドさんの家へ向かって。
街の中心から少し離れたポンドさんの家へ近付く頃には、すれ違う人はまばらになり、老人や子どもばかりになってきた。
ポンドさんの家へ到着し、ドアベルを鳴らす。
すると、昨日と同じくサイードさんが中から出てきた。 昨日よりも、わずかに顔色がいい。
「おはようございます。遠慮なく、何でも言ってください」
「さっそく、力仕事はありますか?」
私達は挨拶も早々に、お手伝いを申し出た。
サイードさんは少し困った顔をしつつ、頼めそうなことを考えてくれた。
「……それじゃあ、水汲みを。水を買ってはいるけれど、毎日は売りに来ないから、新鮮な水がなかなか飲めないの」
「分かりました」
ハズはすぐに水を汲みに出た。
水を買うということは、それだけお金よりも労働力が足りていないということだ。
「えっと……あなたには……」
サイードさんは、何を頼めばいいか困ったように辺りを見回す。
私は、サイードさんを困らせに来たわけではないので、少し心苦しくなった。
「無理に指示を出さなくてもいいですよ。逆にされたくないことはありませんか?」
サイードさんは、ホッとした表情を浮かべる。
誰かを頼ることに慣れていないのが、その顔だけで伝わってきた。
「いえ……特には」
「それなら、私の方で出来ることを探しますから、サイードさんはとにかく休んでください」
「はい……」
そう言いながらも、サイードさんは私の見えるところに座り、カゴを取って繕いものを始めた。
――まぁ、そうだよね。
昨日会ったばかりの人間に、家のことをぜんぶ任せられるわけがない。
私は台所へ向かい、汚れたままの食器から洗い始めた。
水瓶の水は残り少ないけれど、ハズが汲んでくるから使っても構わないだろう。
それから、散らかったおもちゃや本を片付け、手拭いで窓を拭き、箒で床を掃く。
サイードさんは、時々こちらの様子を伺いながら、子ども達と話していた。
親子の団らん風景。
子どもはまだ五歳と八歳くらいだろうか。 まだまだ親に甘えたい時期のはずだ。
もしかしたら、普段はこんな時間すら取れないのかもしれない。
水音と、子どもの笑い声と、繕いものの布の擦れる音。
昨日のあの緊迫した空気が嘘みたいに、部屋の中はゆっくりと凪いでいた。
――このまま、何事もなく終わればいい。
そう思った、次の瞬間だった。
そこにお婆さんがやってきた。
そこから雲行きが怪しくなる。
子ども達の表情は強張り、サイードさんの手からも、すっと繕いものが落ちた。
「この女が盗ったのよ!!」
お婆さんが、怒りを滲ませた声で喚く。
「え?」
「この女よ!」
「お義母さま、私は何も……」
サイードさんは困り果てて、私に耳打ちする。
「私は何もしてないの。いつもなのよ……」
――これは、認知症の症状じゃないだろうか。
市役所の仕事で、認知症の祖母がいる家庭に関わったことがある。 このお婆さんの、怯えと怒りが入り混じった様子は、あの時の家庭の祖母とよく似ていた。
否定しない。 急かさない。 本人の不安に寄り添う。
公務員として、身に付けた経験を必死に活かす。
「分かっています。サイードさんは何もしてません」
私はサイードさんにそれだけ言うと、ゆっくりと、お婆さんに近付き、視線の高さに合わせるように声をかける。
「不安ですよね。何がなくなりましたか?一緒に探しましょう」
「イフさん……」
サイードさんは驚きつつも、私の様子を伺った。
「ないの。時計が。夫に貰った時計なのよ。あれがないと……」
「お婆様、一緒に棚を一つずつ確認しましょう。こちらの棚にはありませんか?」
「……ないのよ」
「こっちの棚はないですか?」
「うーん……」
「こちらの棚はどうでしょう?」
「うん……そうだねぇ」
否定せず、一緒に探す。 それだけで、お婆さんの声から刺々しさが少しずつ抜けていくのが分かった。
「そろそろ疲れてきませんか?一度、椅子に座りましょう。今、夫が水汲みに行っています。もうすぐ冷たい水もやってきますよ」
「そうだね。そうするよ」
お婆さんは、言われたとおりに椅子に座ってくれた。 それからひと息つくと、私の顔を見てきょとんとした顔で尋ねる。
「おや、あんたは誰だい?」
「私はイフです。今日はお手伝いに来ました」
そこに、先ほどの子どもの一人が近付いてきた。
「ばぁば、怒ってないの?」
子どもの後ろにサイードさんが続く。
「あの……落ち着いたんですか?」
サイードさんは、信じられないという顔で立ち尽くしていた。 手にはまだ、拾いきれなかった繕いものが握られたままだった。
「いつもは、ああなってしまったら、手をつけられなくて……。半日は、誰も近づけなくなるのに……」
声が震えていた。
驚きと、安堵と、それから、自分にはできなかったという悔しさ。それが、表情に浮かんでいた。
自分にはできなかったことを、昨日会ったばかりの人間があっさりやってのけた。
そのことへの複雑な思いが、透けて見えた気がした。
「たまたま、知っている方法があっただけです」
私は、それ以上サイードさんを追い詰めないよう、静かにそう言った。
「ただいま」
そこに、ハズが帰ってきた。
「ハズ、おかえりなさい。ちょうどよかったわ」
そう言って、私はコップを持ってきて、ハズが持って帰ってきた汲みたての水をよそって、お婆さんとサイードさんと子どもに出した。
三人は、テーブルを囲んで、ゆっくり水を飲み始める。
子どもの小さな笑い声。
外で鳥が囀る声も聞こえる。
さっきまでの緊張が嘘のように、部屋にはやわらかな時間が流れていた。
このまま、少しでも長く――。
そう思った、その時だった。
奥の部屋から、咳の混ざった声が聞こえる。
再び、穏やかな空気はなくなり、暗雲が立ち込めた。




