約束とご馳走
ソンさんは、老人の診察を終え、診察代を受け取ると薬を渡した。
「これを毎日飲ませてください。ですが、これは治す薬ではありません。治すためには、王都の医術師を呼んだ方がいいでしょう」
「あの……明日も、この家へ来れますか?」
私はつい、言ってしまう。
「あぁ。この家は来た方がいいかもしれないね」
ソンさんは、私の勝手な発言にも穏やかに応えてくれた。
「でも……医術師でないと治らないと……」
サイードさんは戸惑う。
「いえ、おじい様のためではありません。サイードさんも少し休まれた方がいい」
ソンさんは、言わなくても私の意図を汲み取ってくれていた。
「……私、が?」
サイードさんは、理解できないように目を瞬かせる。
「でも……家のことをやる人が……」
「一日でもいいんです」
私は思わず口を開いていた。
ソンさんも、私に続く。
「少し眠るだけでも違うから。明日は、このハズとイフをこの家に行かせます。その間、サイードさんは休んでください」
サイードさんの唇が、かすかに震える。
「……最近、眠った感じがしなくて……」
掠れた声だった。
「遠慮なく、頼ってください」
私は、サイードさんの背中に手を当てる。
「力仕事があれば、私が」
ハズの言葉は少ないものの、温かい声色だった。
「……ありがとう、ございます……」
サイードさんの目から涙が溢れた。
サイードさんの涙を見ながら思った。
この涙は、サイードさんだけのものなのだろうか。
この街で、同じように苦しんでいる人は何人いるのだろう。
ここに、何かヒントがある気がする――。
サイードさんの涙が落ち着いた頃、明日の時間を九時と約束して、ソンさんと三人でポンド家を後にした。
「明日も明日で、私は行かないといけないところがあって……二人に任せきりになってしまうが、頼めるかい?」
ソンさんは申し訳なさそうに言う。
「私が言い出したことですから」
「ありがとう。助かるよ」
「あの……いつもこんな感じなんですか?」
ハズが割って入ってくる。
「いや。普段はそこまで見てあげられない。だから、二人がいてくれて助かってるよ」
ソンさんは穏やかに言う。
ソンさんは、助けたくても助けきれない苦労をたくさん抱えてきたんだろうと思った。
「それじゃ、今日はこの辺にしておこう。暗くなっては、宿の部屋も残り物になってしまう」
そうして宿に着き、それぞれの荷物を置くために部屋へ入った。
ハズと二人で入った部屋は広くはなく、正面の壁に小さな窓が一つあるだけの簡素な造りだった。
余計な家具はなく、部屋の真ん中に二人で寝られる程度の大きさのベッドが一つと、サイドテーブルが一つだけ。
――そうだった。
「あの……俺は、ベッドの下で十分だから」
ハズは気まずそうに顔を背け、床に上着を敷いて寝床を作り始めた。
「そんな! 床じゃないですか。そうはさせられません」
私はハズの寝床づくりを阻止しようと、上着を取り上げてコート掛けに掛ける。
「でも……」
ハズは無骨な手で頭をぽりぽり掻きながら目を泳がせた。
私は、そんなハズが少し可愛いとすら思ってしまった。
「……ただ、寝るだけですから」
「……そうは言っても……」
私は、あえてハズの視界に入り、目を見ながら言った。
「一応、夫婦ですから……」
ハズは驚いた顔をした後、少し笑った。
「……そう、だな……」
そうして、それぞれ荷解きを始めた。
一つのベッドで寝る前提で。
その時、ドアをノックする音とともに、ソンさんの声が聞こえた。
「荷物を置いたら、夕食を食べに出ませんか?」
ソンさんの声だ。
「はい。行きます」
一通り荷物を出した後、二人で部屋を出ると、ソンさんはにこにことしていた。
「ご馳走します。行きましょう」
「そんな……自分たちで払います」
「いや。さっきのポンド家の診察代、色を付けられていたんだよ。たぶん、君たちのお陰でだ。だから、ご馳走させてくれないか?」
私は、少し驚きつつ嬉しかった。
お金をもらえたことじゃない。
私たちのしたことが、サイードさんにそれだけの価値を感じてもらえていたことが嬉しかった。
「……そういうことなら、ご馳走になります。その分、明日も力になれるよう頑張りますね」
「うん、そうしてくれ。サイードさんに必要なのは休息だ。あれは過労だよ」
「私もそう感じました」
そんな会話をしながら、ソンさんに連れられて街の飲食店へ向かった。
ソンさんはきちんと店を選んでくれたのだろう。
到着した店はとても良い雰囲気だった。
この店に着く途中にも、いくつか飲食店はあった。
どれも賑わっていて、時には盛り上がり過ぎているようだった。
だが、この店は比較的落ち着いていた。
「ここは、小洒落た酒と料理しか出さない。だから、あんまり騒がしくならないんだ。食べられないものはあるかい?」
「いえ」
「大丈夫です」
私とハズは揃って答える。
「じゃあ、私のおすすめを注文しよう」
そうして料理が運ばれてきた。
どれも村では食べられない、手の込んだ料理だった。
新鮮な魚料理も食べられた。
やはり王都に近い街なだけあって、村よりも様々な食材が流通しているのだろう。
夜の街だけを見れば、賑わっていて、みんな楽しそうで、何の問題もなさそうなのに……。
この中の何人の家庭が、苦しい状況にあるのだろうか……?
店を見渡しながら、つい、そんなことを考えてしまった。
「明日は、ソンさんはどちらへ行かれるんですか?」
ハズが尋ねた。
「明日は、西側で三件ほど。でも、気になることがあったら、もう何件かついでに見てくるかもしれない」
「いつも今日みたいに診察だけでなく、様子を見て回ったりしているのですか?」
「まぁ、ね。金のある家庭は王都の医術師を呼ぶこともあるみたいだが、街に住む家でそれができるのは限られている。私が行かなきゃ、黙って我慢してしまう人もいるからね」
「そうですか……」
「今日のポンド家だって、街では貧しい方ではないと思うよ。でも、医術師の診察代は高すぎるんだ。それも、どうにかならないといけない。どうにもしようがないけどね」
「……勉強になります」
ハズは、心からそう言っているようだった。
――やっぱりハズも、公務員なんだな。
なんだか、ハズに親近感が湧いてくる。
「そうだ。明日、サイードさんの家でポンドさんの手伝いをする時は、必ず口に布を当てて。それから、手をこまめに洗いなさい。ポンドさんの病気は移るかもしれない病気だから」
「分かりました」
「気をつけます」
「じゃあ、そろそろ宿に戻ろうか」
ソンさんがそう言う頃には、お腹はいっぱいになり、少しのお酒で心地よい気持ちになっていた。
飲食店を出て、夜風に当たる。
少し冷たいくらいの風が、今日は気持ちいい。
そう言えば、日本にいた頃は毎日残業で、帰る頃はいつも暗い夜だった。
こっちに来てからは、夜に出歩くことはなかったから、久しぶりの夜道を歩いている。
「疲れてないか?」
ハズが尋ねてくれる。
「うん。大丈夫」
三人で夜道を歩いた。




