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カイゴと看病

ソンさんは、次にすぐ隣のフィーさんの家のドアを叩いた。


「開いてるよ」


中からフィーさんの声が聞こえ、ソンさんと共に私とハズも中へ入った。


家の中は、先ほどのマザさんの家と同じ建物とは思えないほど、静かで落ち着いていて、子どもの気配はまったく感じられなかった。


その代わりに、長年の暮らしの記憶のように物が溢れていた


恐らく、10年以上動かしていないであろう埃を被ったギターや。

手入れを止めてしまったとみられる斧。

少し欠けた何十枚もの皿。

少し時代遅れのような服たち。


そんな思い出に囲まれながら、フィーさんは水場で食器を洗っていた。


そのすぐ後ろの食卓では、白髪の男性が何度も読み返されたことが分かる古い本を静かに読んでいた。


その空気だけで、二人が夫婦なのだと分かる。


「ごめんなさいねぇ。今、手が離せなくて」


フィーさんは振り返らず、手を動かしながら言った。


「あぁ、ソンさんか。よく来たね」


白髪の男性は、本から顔を上げて、ソンさんに笑顔を向ける。


「ランディさん、お元気そうで。この間来た時は寄ることができず、すみません」


「いや。あの日はフィーが出掛けていたからね。ドアは叩いてくれただろう?私こそ中にいたのに出られなくてすまないね」


「いえ。足が悪いのですから、気になさらず」


ソンさんは、ただ優しく笑い掛けた。


「そうだ、フィー。ポンドんところのサイードが、ソンさんに来てほしいと言っていたんじゃなかったか?」


「そうそう。ソンさん、南の池の近くのポンドさんが最近変な咳をするみたいなの。見てあげられない?」


「あぁ。もちろん行かせてもらいます」


ソンさんは鞄から果物を取り出すと、テーブルに一つ置いて、すぐに鞄を持ち上げた。


「それじゃ、早速行ってまいります」


「えぇ。私も一緒に行けたら良かったけど、サイードによろしくね」


ソンさんはすぐに家を出た。

私とハズも後を追いかける。


「次はポンドさんの家ですか?」


歩き始めてすぐ、私はソンさんに尋ねた。


「いや、一旦休憩にしよう。こちらが疲れてしまっては元も子もない」


そう言われて空を見ると、日はもう西へ傾き始めていた。


「お腹空きました」


ハズが言った。


「池の方へ行く途中に美味しい食堂がある。そこへ行こう」


ソンさんに案内されて、三人で街の中を歩く。


相変わらず穏やかでありながら、若者の活気に欠ける空気だった。


食堂に着くと、昼時だというのに閑散としていた。


私たち以外の客は二組。


どちらのグループも老人ばかりだった。


「夜に儲けているんだろう」


ソンさんがそう言いながら席につく。


私たちもソンさんと同じテーブルを囲むように座った。


ソンさんはおもむろに問いかける。


「イフ、ついてきてみてどうだい?」


急に聞かれて戸惑ってしまう。


「えっと……思っていたほど悲惨ではなかったけど……深刻だと思いました」


「ふむ」


「深刻?」


ソンさんは納得したように頷き、ハズは問い返してくる。


「その……介護の担い手がいないなって」


「……カイゴ?」


ハズは分からない顔をする。


――介護の概念がないの?


「その……弱い人の世話をする人が、子どもしかいないと思ったの」


「それは家族だからね。大人は働かなきゃ食っていけないさ」


ハズは当然のように言った。


「でも、家族のために子どもの時間を使ったら、子どもは勉強することができないじゃない」


「世話をするのも勉強だ」


ハズの語気が少し強くなる。


「それはそうかもしれないけれど、子どもには他の勉強も必要だよ!」


ハズにつられて、私も少し強く言ってしまった。


「ふむ。イフの考えは面白いね」


ソンさんが割って入る。


「……え?」


――面白い?


「イフは、子どもたちはどうするべきだと思うんだい?」


「どう……それは……子どもたちの時間は子どもたちがやりたいことに使われるべきだと思います」


「やりたいことに!?」


ハズは驚く。


「……ダメ……ですか?」


「ダメというより、難しいね。それを許してしまったら社会が成り立たない」


そう言われてしまうと、私は何の反論もできない。


ただ、この世界の常識として受け入れるしかなかった。


食堂を出たあとも、私はさっきの会話を引きずっていた。


『世話をするのも勉強だ』


ハズの言葉は、この世界では正しいのだろう。


実際、シスタは幼いながらも弟たちの面倒を見て家を回していた。


ドレンたちも水汲みをし、家族の役に立とうとしていた。


あの子たちは、不幸そうには見えなかった。


でも。


――それでも。


裏山へ遊びに出ていくシスタの笑顔が忘れられなかった。


ソンさんは、そんな私の様子に気づいているのかいないのか、穏やかな足取りで街の道を歩いていく。


やがて、人通りの少ない通りへ入った。


さっきまでより静かだった。


時折現れる建物は、街の中心部に比べると少し大きい。


けれど、どの建物もどこか閉じた空気がある。


一軒の家の前でソンさんが立ち止まった。


「ここだね」


ドアベルを鳴らす。


しばらくして、小さく軋む音と共に戸が開いた。


現れたのは、三十代半ばくらいの女性だった。


痩せていた。


頬がこけ、目の下には濃い隈が浮いている。


髪も乱れていて、服には落ちきらない汚れが残っていた。


それでも彼女は、無理やり口元を持ち上げる。


「どちら様ですか?」


「こんにちは。フィーさんから聞いて来た、アーブ村の薬師のソンです。こちらは手伝いのハズとイフです」


「来てくださったんですね……。サイードです」


声に力がない。


その時だった。


家の奥から、ガタンッと何かが倒れる音が響いた。


女性の身体がびくりと震える。


「おばあちゃん!?」


奥から少女の声が聞こえた。


サイードさんは慌てて奥へ駆け込んだ。


私たちも後を追った。


奥の部屋には、床へ座り込んだ老婆がいた。


白髪はぼさぼさで、焦点の合わない目が宙を彷徨っている。


その傍で、八歳くらいの女の子が必死に支えていた。


「おばあちゃん、危ないよぉ……」


老婆は少女の顔を見ても、誰だか分からないようだった。


「家へ帰らないと……」


老婆の声は掠れ、弱々しかった。


その声に、少女の表情が曇る。


「おばあちゃん、ここお家だよ」


「違う……ここじゃない……」


老婆は怯えたように辺りを見回した。


その視線が私に向く。


びくり、と肩が震えた。


「知らない人がいる……!」


突然、老婆が叫ぶ。


少女が慌てて抱きつく。


「大丈夫! 怖くないよ!」


「いや……いやぁ……!」


錯乱したように手を振り回す。


サイードさんが顔を青くして駆け寄った。


「お義母様、大丈夫です、大丈夫ですから……」


震える声。


何度も何度も同じ言葉を繰り返している。


その時。


ゴホッ――ゴホッ!!


激しい咳が響いた。


振り向く。


隣の部屋。


痩せ細った老人が寝台の上で激しく咳き込んでいた。


布に赤黒い染みが広がる。


私は息を呑む。


――血。


ソンさんがすぐに老人の傍へ向かう。


「大丈夫。呼吸を合わせて。ゆっくり」


老人は苦しそうに肩を上下させる。


部屋の空気が重かった。


湿っていて、淀んでいる。


窓は閉め切られ、汗と病気の匂いが混ざっていた。


その中で、小さな女の子だけが必死に祖母を抱きしめている。


サイードさんは、老婆と老人の間で視線を彷徨わせていた。


どちらへ行けばいいのか分からないように。


その時だった。


「お母さん」


小さな声。


部屋の隅にいた男の子だった。


五歳くらいだろうか。


その子は怯えた目でサイードさんを見上げていた。


「今日、お母さん怒ってない……?」


サイードさんの顔が固まる。


私は息を止めた。


男の子は恐る恐る続ける。


「……今日は、お約束守ってる……大丈夫?」


その瞬間。


サイードさんの表情が崩れた。


「っ……」


口元を押さえる。


涙が零れる。


「ごめ、ごめんね……っ」


膝から崩れ落ちる。


「怒りたくて怒ってるんじゃないの……ごめんなさい……」


少女が慌てて駆け寄る。


「お母さん、泣かないで……!」


私は、その光景から目を離せなかった。


違う。


これは。


子どもが家族を“手伝っている”状態じゃない。


家族そのものを支えている。


しかも。


支えきれていない。


限界だった。


大人ですら。


こんなにも壊れてしまう。


ソンさんが静かに立ち上がる。


「……サイードさん」


優しい声だった。


「少し休みなさい。今日は私たちがいる」


サイードさんは泣きながら首を振る。


「でも……洗濯も、食事も……薬も……」


「大丈夫」


ソンさんは穏やかに言った。


「一人で全部やらなくていい」


その言葉に、サイードさんは声を殺して泣き始めた。


私は、その姿を見ながら胸の奥が強く痛むのを感じていた。


優しい人たちだ。


誰も怠けていない。


誰も逃げていない。


それでも壊れてしまう。


私はゆっくりと視線を落とした。


子どもたちは、母親の顔色を窺いながら、小さく身を寄せ合っていた。


――大人ですら、支えが必要なんだ。


なのに、子どもの力だけで、この重さを支えられるはずがない。


私は、強く唇を噛み締めた。

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