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第四話 千刃(せんじん)〜備前長船

   四 千刃(せんじん)〜備前長船


 『せんじんごぜん』にあんたも会いに行くのかと、不意に浄心は声をかけられた。

 「せんじんごぜん?」

 呼ばれた方へと振り返り、聞いたばかりのその名前がおうむ返しに浄心の口から転がり出る。

 備前長船(びぜんおさふね)へ向かう道中の木陰に座って休んでいた浄心にそう言ったのは、赤らんだ顔の老爺(ろうや)だった。

 小柄な体に野良着をだらしなく身に付け、手には大振りの(ひさご)()げている。

 千鳥足で浄心の隣にやってきて、腰掛ける。

 瓢の栓を抜くと老爺は喉を鳴らして飲んだが、その傾きからは中身はあらかた飲み尽くしつつあるように見えた。

 「そう、その白拍子(しらびょうし)御前(ごぜん)が、これがまた大層な評判でな。近在の者はもちろん、山向こうの赤磐(あかいわ)からまで見に来る者が毎日のように押し寄せて、そりゃあもう……」

 聞きもしないうちから老爺が語り始めた。

 「そんなにお綺麗な方なんですか? その白拍子の御前というのは」

 話を合わせようと、浄心が尋ねる。

 托鉢で得た、雑穀を混ぜ合わた団子のようなものの最後の一つを口に放り込み、竹筒に入れた水で流し込む。

 「お綺麗……?」

 だが、老爺は何故か思いがけぬことを聞かれたかのように首を(かし)げた。

 「うん、まあ……そうじゃな。女子供らはそう見ておるわな。儂も何度も見に行ったが、確かに大層お綺麗なお顔じゃし、今様(いまよう)を歌う声も、聞いとると寿命が伸びる心地がするわなあ。もちろん舞も、それは見事な……こんな田舎で見れるものではないわさ。だがな、男衆は……うん……?」

 不意に酔いが醒めたかのように、老爺は言葉を途切れさせると、今さら気付いたかのように浄心の幼い顔と体をしげしげと見た。

 その視線を、浄心は(いぶかし)む。

 「……あの、何か……」

 「ああ、……いやあ、こんな話を、あんたのような小僧さんの前でしてもええもんかな……」

 「え?」

 困惑する浄心の顔を覗き込むと。

 「聞きたいんかね?」

 酒精を含んだ声で問うてくる。

 「ええと……」

 浄心は一瞬だけ戸惑ったが、何かに背を押されたかのようにふと真顔になると、老爺の赤い顔に向かって(うなず)いた。

 「はい、聞きたいです」

 噂話の続きをねだる子供には不似合いな浄心の真面目な表情を、だが老爺は気にも留めず、意味ありげに答えた。

 「……男どもはな、御前が持つ日輪(にちりん)の扇が欲しいのよ」

 「日輪の扇、ですか……?」

 思いがけない返答に戸惑う浄心に、いくぶん呂律(ろれつ)があやしくなりつつも老爺が答えを返す。

 「皆の前で舞を披露しておる間もな、御前はただ舞っておるのではない。……男を探しておるのよ。舞い終えた御前はな、見物に来た者たちの中から男を一人選ぶ。若くて、(たくま)しい男よ。そうして己が見初(みそ)めた男に、御前は扇を授けるのじゃ。一日に、ただ一人だけ。その印が日輪の扇よ。……そうして夜になるとな、……男と御前はただ二人、神楽舞台の上で……」

 「あっ、はい、すみません、もういいです。だいたいわかりましたので」

 慌てて浄心が老爺の話を遮った。

 竹筒の水をのどに流し込んで息をつく浄心に、老爺は()み声を立ててけたけたと笑う。

 白拍子が、ものによってはそのような生業(なりわい)であることは知ってはいたが、思いがけずそういう話を聞かされた浄心の戸惑いは大きかった。

 「それで、その……」

 ぬるい水と共にその動揺を飲み下すと、浄心は最前(さいぜん)から話を聞きつつもずっと気になっていたことを尋ねた。

 「御前の名前の『せんじん』っていうのは、どういう字を書くんですか?」

 「あ? どういう? なんだね?」

 老爺は(ひさご)を逆さに、最後の一滴までも残さず飲み干そうとしながら、生返事のように聞き返す。

 「……ええと、『せんじん』って言うと、ほら、たとえば……」

 浄心は立ち上がり、そこにはない刀が己の腰にあるかのごとくに抜き放ち、片手に構えるそぶりをしてみせる。

 「先陣を切って敵の軍勢に乗り込んで、っていう……」

 いかにも子供らしい、ごっこ遊びめいたその仕草を見ると、老爺はまた酔いどれた笑い声を上げた。

 「そんな武張った名前の白拍子などおらんじゃろう。……ああ、じゃが、そう言えば誰かが言うとったなあ、万丈の山、千尋(せんじん)の谷と言う、その千尋(せんじん)御前、なんだとよ」

 「え……えっ……!」

 真冬の滝水を浴びせられたかのように、浄心の全身が凍りついた。

 早鐘のように動悸が打ち、胸と頭に轟く。

――千尋(せんじん)……いや、千尋(ちひろ)さん……。

 同時に黒く(すす)けた灰のような影が、風もないのに浄心の目の前へと漂ってくるのが見えた。

 視線をそちらへ向ける。

 さっき進んできた山道に立つ人影が。

 「あっ……」

 激しい怒りと苛立ちが、その顔を険しく引き()らせている。

 左腰にある刀を固く掴んだ手が、(かす)かに震えているのが浄心の頬に伝わるかのようで、それを見ている己の胸までもが押し潰される気がしてならなかった。

 錬十郎は、泣きだしそうな顔で己を見ている浄心から乱暴に目線を引き()がすと、道端の二人に背を向け、荒々しい足取りで長船に通じる山道へと入っていった。

 「待ってください!」

 慌てて水筒を掴み、浄心は後を追う。

 「錬十郎さん!」

 鶴形神社の夜闇に消えてから、ずっと見失っていた背中に向かって必死に駆ける。

 その背に染み付いた(かげ)りが、老爺の語ったことがすべて聞こえていたことを浄心に教えていた。

 そこから立ち上のぼる、(くら)い怒りも。

 細い山道の、左右に迫る枝葉を振り払うように足早にゆく錬十郎めがけて全力で走る。

 追いつき、道端の薮をかき分けるようにして追い越すと、その目の前へと回り込んだ。

 「……何の真似だ」

 行く手を遮られ、暗い声が問い詰める。

 「そこをどけ」

 「……錬十郎さん……」

 両手を膝につき、前屈みで上体を支えて激しく息を弾ませる。

 目線を上げ、大きく息をついて錬十郎に訴える。

 「お願いです。聞いてください」

 「どけよ。お前と話すことなど何もない」

 「違うんです、さっきの話は……」

 「すべてお見通しってわけか。大したものだな」

 言い(つの)ろうとする浄心に、錬十郎は吐き捨てた。

 「そういうことでは……」

 「だったら何だ。お前に何の関わりがある」

 「そんな……!」

――関わりないどころではない。

 そもそもの最初からが、そうだった。

 伊予桜井から国分寺まで、同道を願い出たのは浄心の方で。

――そのあげくの果てが。

 まるで墓でもあばくかのように、無惨な記憶をさらけ出させた。

 そして今も、その生々しい傷口に容赦ない鞭を浴びせたも同然だった。

――犯した罪が消えぬのなら、許されることがないのなら、背負って生きるしかないではないか。

 だが、その浄心の覚悟が、他ならぬ錬十郎にとって何の意味があるというのか。

 関わりがないとは、まさしくそういうことだった。

 だが、そうだとしても。

 黒い(いきどお)りに満ちた目が見下ろしてくるのを、こちらも見返す。

 一瞬一瞬が傷付いて、血を流している。

 それを見るのに浄心の『雑念』すら必要ない。

 暗い怒りと慚愧(ざんき)の只中に、自分はこの人を置き去りにして良いのか。

 このまま関わりないとして、背を向けることが正しいか。

 かと言って、それで何ができるというのだろう。

 錬十郎も、浄心も、どこにも答えなど持ってはいない。

 「それでも……」

 浄心は決然と顔を上げると、まだ乱れたままの息の下から錬十郎に向かって言った。

 「それでも、放ってはおけません!」

 「……何だと……」

 必死な浄心の訴えに、だが錬十郎の喉の奥で嘲笑うような声がかすれる。

 「お前な、放っておけないって言うのは……」

 言いかけて、不意に錬十郎は己の中で何かが引っ掛かったかのように言葉を途切れさせた。

 「……錬十郎さん?」

 その錬十郎の顔を、気遣うように浄心が見上げる。

 だが、その視線を払いのけるように、乾いて沈んだ錬十郎の声が続いた。

 「……笑わせるな。放っておけないっていうのはな、相手を守りきるに足る力量を持つ者が言えることだろうが」

 投げつけられた言葉に、浄心の喉が詰まる。

 だがその声は、発した当人こそが痛むような響きを帯びていた。

 「邪魔だ、どけ」

 力を込めた手が、断固として浄心の幼い体を押しのける。

 (あらが)うこともできずに、道端の藪の中へと押し込まれた。

 「……錬十郎さん……」

 重い溜め息混じりに呟く声にも、振り返ることはなく。

 そのまま去っていく背中を浄心は見送った。

 だが、老爺の話を錬十郎に聞かれたことを浄心は悔いてはいなかった。

――そもそも人の噂話なんか、全然当てにならないんだから。

 だとしたら、その奥に隠された真実を見出せるのは、己の『雑念』以外にありはしないだろう。

 伊予桜井でも、笹無山でもそうだったように。

――これもきっと、お導きだ。

 お大師様や童子が導いた時とは、比べものにならないほど(つたな)く頼りない道筋ではあるが。

 それでも、今はこれが途切れぬように握り締めるより他にない。

 一度はようやく追い付いた錬十郎の背中は再び山道の向こうに消えてしまっていたが、浄心は決然とその後を追って歩き始めた。


     *


 浄心を置き去りにした錬十郎の足取りは、怒りのやり場だけを求めるように荒々しかった。

 だが、その焦慮の矛先は。

――すべてお見通しか。大したものだな。

 浄心に向けて放った言葉が、石礫(いしつぶて)を投げられたように己に跳ね返ってくる。

 なのに浄心が返した言葉は。

――放っておけないだと?

 真っ直ぐに向けてきたその意志を、受ける代わりに言い捨てた。

――相手を守りきるに足る力量を持つ者が……。

 その力量があるかないかではなく、それを己が()れる度量があるかどうかではないのか。

――餓鬼のくせに。

 千尋(ちひろ)の噂を耳にしたことも塗炭の苦渋に他ならなかったが、そのために乱れる己の胸中を晒した見苦しさは、結局は堂々めぐりの憤懣(ふんまん)としてしか出口はない。

――いつだって俺が、小さい頃からずっと守ってやっていて……。

 苛立たしさに背を押され、足早に先を行く錬十郎の歩みが、誰かに肩を掴んで引き留められたかのようにその場に止まる。

――小さい頃から、ずっと。

 それは浄心のことではない。

 だとしたら、誰の。

――だって、放っておけないもの!

 決然と、だがやわらかな少女の声が錬十郎の耳によみがえる。

――千尋か。

 その記憶が、怒りと焦燥に突き動かされていた錬十郎の足をその場に貼り付かせた。

 長船の、秋の山道で。

 錬十郎と千尋は十一。

 見事な紅葉が山を覆う景色が誘ったかのように、これまで何度も遊んだよりも奥深い山道へと二人はいつしか分け入っていた。

 秋の山の陽が落ちるのは、二人が思っていたよりもずっと早くて。

 千尋を連れ、気の焦りから、錬十郎は山道から沢の下まで転げ落ちて足を折った。

 かろうじて千尋の手助けで道まで這い上がってきたものの、落ちた時に頭も強く打って出血していた錬十郎はそこで気を失った。

 意識を取り戻した錬十郎は、己が千尋に背負われて山を降りている途中であるとはすぐには気づけなかった。

 その頃まだどちらかというと痩せぎすで、背が伸び始めるのも遅かった錬十郎に比べると、ほんの一年ほどの間だけ千尋の方が背が高かった。

 即座に錬十郎は千尋の背中から飛び降りようとしたが、できなかった。

 背負いやすくするために千尋は自分の手拭いで錬十郎の両腕をきつく縛り上げ、さらに錬十郎の帯を解いて二人の腰まで結んでいたからだった。

 「何をしてる。降ろせ」

 千尋の背に縛られたままの錬十郎が大声で暴れたせいで、危うく二人はまた山道から転げ落ちそうになった。

 尻餅をついた千尋に、錬十郎は己をここに残して千尋一人で里へ戻り、大人の助けを呼びに行けと怒鳴った。

 「女に背負われるぐらいなら、這ってでも俺は自力で帰る」

 だが、千尋はその言葉を拒絶した。

 錬十郎を放っておくことはできない、必ず共に連れて帰る、と。

 その滅茶苦茶で、普段の千尋からはあまりにかけ離れた決断に、錬十郎は己の矜持を潰される怒りよりもむしろ呆れた。

 放っておかれるのではない、自分は助けがくるのを信じて待つだけであるし、その間の心配など要らないと必死で言い張った。

 「俺はそんな情けない奴じゃない」

 それでも千尋は梃子(てこ)でも動かぬ勢いで、縛り上げた手拭いごと錬十郎の腕を掴みしめると再び立ち上がり、山道をひたすら歩き続けた。

 既に日は落ちて辺りは暗く、二人とももうそれ以上の押し問答をする時間が惜しかった。

 錬十郎がかろうじて千尋の背に身を委ねる我慢ができたのは、千尋が()を上げるのを待つ以外に、一人で先に下山する決断をさせられそうにないと思い直したからだった。

 そうとでも考えなければ、同い年の女の背に縛り付けられて運ばれる己の境遇に耐えることなどできるはずもなかっただろう。

 とは言え、やはり女子の身である千尋が錬十郎を背負って山を降りるのは、決して容易なことではなかった。

 錬十郎は千尋が途中で休むたびに、さっさと自分を置いて先に一人で帰れと言ったが、返ってくる答えはずっと同じだった。

 「だって、放っておけないんだもの!」

 そう言った千尋の眼差しが揺るぐことはなかった。

 夜も()けた頃、二人を探しに出ていた鉄山が山道の途中で錬十郎と千尋を見つけた。

 鉄山の顔を見るなり、千尋はずっと張り詰めていたものが切れたかのように声を上げて泣いた。

 千尋に代わって鉄山が錬十郎を背負い、しゃくり上げる千尋の手を引いて里へと帰った。

 「ごめんなさい」

 千尋は錬十郎に、最後まで助けてやれなかったことを詫びたが、錬十郎にはそれを受け入れることなど到底できるはずもなかった。

 三人が帰ってくると、伯父は後にも先にもこれ以上ないほどに激しく千尋と錬十郎を叱りつけた。

 錬十郎は泣かなかったが、それまで父に怒鳴られたことのなかった千尋は鉄山に会った時よりも一層酷く泣いた。

 それでも、錬十郎を背負って山を降りたことだけは最後まで誰に対しても謝ることはなく。

 錬十郎はその日のことは己の恥として二度と口にせず、千尋もそれを察してか、何事もなかったものとして錬十郎に接し、それ以降は年相応の娘としての振る舞いを外れることは一切なかった。

 今でも錬十郎は、あの日の千尋の判断は間違っていたと確信している。

 やがて長い年月が経つうちに、千尋の揺るがぬ眼差しはただ一人のためだけのものになっていった。

 だが。

 それでもなお、己の思いに何らかの意味が欠片(かけら)ほどにでもあるのだとしたら、それは更なる強さで守ってやることでしかないだろう。

 それが、錬十郎が刀を手にした理由だった。


     *


 見覚えがあるはずの長船の道は、人里に近づくに連れて錬十郎が記憶している景色からどこかかけ離れたものへと変わっていった。

 やがて、その理由に気付く。

 ぞろぞろと、多くの人々が連れ立って一方向へと歩いている。

 脇道から入ってくる者たちも(みな)、同じ方へと向かってゆく。

 老いも、若きも、男も、女も、親に連れられた幼な子も、示し合わせたかのように、全て同じ方角を目指して歩を進めていた。

 かすかにざわざわと、その者たちが交わす声が辺りに聞こえているが、語っている言葉は何故かはっきりとは錬十郎の耳にはとどかない。

 それでいてどこか不穏な期待が、彼らの背を押すかのように熱を帯びて(ざわ)めく。

――千尋御前(せんじんごぜん)か。

 誰に何を聞かずとも、彼らが見に行こうとしているのがそれであることが錬十郎には察せられた。

 人々の間に漂う浮かれたような熱気が高まるのとは裏腹に、先程までの錬十郎の焦燥は静かに()めていくかのようだった。

 増えてゆく一方の群衆の後についてゆくと、荒れた参道へと入ってゆく。

 靱負(ゆきえ)神社は錬十郎が物心つく頃からもう宮司はおらず、拝殿などもすべて打ち捨てられていたはずだった。

 長年放置された境内に、しかしただ一つ、妙に真新しい建物が見えた。

 四本柱(しほんばしら)で支えられた屋根付きの神楽殿は三方が外へと開いており、背面だけが白い幕で覆われて、観客らの視界を遮っている。

 三尺ほどの高さがある舞台には、誰の姿もない。

 錬十郎はその神楽舞台の正面へ進もうとしたが、ふと考え直し、舞台の向かって右側へと回り込んだ。

 神楽殿は既に多くの観客で取り巻かれていたが、一番前へと人混みをかき分けて進んでも遮る者はおらず、むしろ錬十郎に譲るかのように自然と道が開かれた。

 相変わらず群衆は、さざめくような声を発しながら舞台を取り巻いている。

 その外側に。

 不意に気配を察して、錬十郎が目を()る。

 神楽舞台の真正面、人混みから離れたところに一人の男が立っている。

 腰にある刀が、まず錬十郎の目を引いた。

 それから、視線の鋭さと。

 今にも矢を放たんとする弓のように、男の周囲の空気が張り詰めているのが判った。

 その男は先程の錬十郎と同じように群衆を容易(たやす)くかき分けて進み出ると、神楽舞台の一番前にたどり着く。

 まるでそれを待っていたかのように――だが観客は誰もその男に注意を払ってなどいなかったのに――その場がしんと鎮まりかえった。

 ひそとも声の立たぬ時が、しばし流れて。

 さらりと、一斉に多くの鈴を振るような音が辺りに響き渡った。

 同時に神楽殿の背面の幕が音もなく左右に開く。

 幕の向こうに、一人の女が立つ。

 おお、と群衆の声が漏れた。

 立烏帽子(たてえぼし)、白の水干(すいかん)と袴。帯に刺した扇と、腰には太刀を()げている。

――白拍子。

 水干の片袖を上げ、顔を隠している。

 神楽殿の上へと音もなく歩み出ると、背後の幕がさっと閉ざされた。

 そのままゆっくりと、舞台の真ん中に向かって進み出る。

 白い水干の下につけた単衣(ひとえ)の赤が、薄衣(うすぎぬ)を透かしてほのかに紅をさしたかのようにその身を(いろど)って。

 腰から下緒(さげお)で吊るした太刀の鞘だけが辺りの光と色を吸い込み、黒く沈んでいる。

 左の袖が上がっていて、腰にある太刀の(こしらえ)のすべてが舞台右手にいた錬十郎の目にはっきりと映った。

――鉄山の刀。

 (つか)も、(つば)も、鞘も、すべて見間違えようもない。

 黒々と(つや)を帯びた漆塗りの鞘に納められた刃紋までもが見えるかのように思えた。

 白拍子は神楽舞台の真ん中で足を止めると。

 甲高い笛の音が鋭くその場に響き渡った。

 すう、と左の袖が下がる。

 人形のように整った顔が現れた。

 ほの白く透ける肌に、わずかに小指の先ほどの(べに)が唇に()されている。

 頬と目尻にも薄く(けぶ)ったような朱鷺色(ときいろ)がほんのりと置かれていた。

 ため息とも(どよ)めきともつかない声が群衆の中からわき起こる。

 錬十郎だけがただ一人、黙ったままその(あら)わになった顔を見つめていた。

――千尋(ちひろ)

 やや顔を伏せてはいたが、記憶の中と寸分違(たが)わぬその顔が。

 瞳は上目遣いに観客たちと、さらにその向こうを見るかのようにはるか遠くを見つめる。

 やがて楽の()に合わせて、その紅を挿した唇から伸びやかな女の歌声が流れ始める。

 かつて平家が栄華を極めた頃に都で流行ったという今様(いまよう)の調べが、神楽舞台から観客らの方へと響いていった。


遊びをせんとや生まれけむ

(たわぶ)れせんとや生まれけむ

遊ぶ子供の声聞けば

我が身さえこそ揺るがるれ


 それはあたかも千尋(ちひろ)の喉を笛として奏でられる調べのように錬十郎には思えてならなかった。


舞へ舞へ蝸牛(かたつむり) 舞はぬものならば

馬の子や牛の子に蹴させてん 踏み破らせてん 

(まこと)に美しく舞うたらば 華の園まで遊ばせん


 真白い袴の裾をさらりとさばき、しなやかな腕が(たもと)(ひるがえ)す。

 なよやかな指先が扇とともに天を指すと、人々は導かれるように天を仰ぎ、一斉に吐息をついた。

 水干の袖の(ふち)に通された紅色の細い()(わず)かな風にそよぐ。

 細い首をかしげ、開いた扇に顔が隠れる。

 白無地の扇面がわずかに傾いて、片目だけがちらと見えた。

 (つや)やかな眼差しが周囲を射る。

 まるで己と目が合いでもしたかのように、男共の声がどっと沸いた。

 扇を手にしたままの薄い水干の袖が頭上へと三度(みたび)四度(よたび)と大きくあおぐ。

 その仕草に、舞台を囲む者たちもまた、ふつふつと(たぎ)り立ち、煽られてゆく。

 ほう、ほう、と抑えかねた声が口々にあふれて。

 もはや(おのれ)らをとどめおくなど出来ぬと言わんばかりに意気が吹き上がる。

 ついに人々は割れるような歓声を上げると、千尋御前(せんじんごぜん)と共に声を合わせて歌い始めた。


遊びをせんとや生まれけむ

戯れせんとや生まれけむ

遊ぶ子供の声聞けば

我が身さえこそ――


 降るような鈴の音と高らかに響く笛の音も(あい)まって、ますます人々は(たかぶ)ってゆく。

 だが、それらを奏でる者の姿はどこにも見えない。

 なのに観客らはそれを気にするどころか、誰も彼もが魅入られたかのように、千尋御前(せんじんごぜん)の舞に見惚(みと)れ、歌う。

――いや。

 一人だけ、そうではない者がいる。

――あいつか。

 舞台真正面の、刀を(たずさ)えた男。

 あわよくば一夜(ひとよ)(ちぎ)りをと願う他の男共の、情欲に浮かされ(とろ)けた目付きとはまるで違う。

 錬十郎と同じく、千尋御前(せんじんごぜん)の一挙手一投足を舞ではなく(おの)が力量の全てを賭けて挑むべき相手として見る目だった。

 そして千尋(せんじん)もまた、その男の目線に気付いたようだった。

 舞台を取り巻く群衆へと目を下げ、周囲を見渡す。

 横にした扇を手に、すう、と群衆らの頭を撫でるように虚空を切る。

 その仕草に合わせるかのように楽の音が消え、人々も我知らず歌うのをやめて静まり返った。

 白拍子は扇を閉じると(かなめ)を右手に、わずかに斜めに(かし)げた扇の先に左手の細い指先を添えた。

 さらにその先の遠くを、真っ直ぐに見据える。

 何故かそれが扇ではなく、鋭い刀の切っ先を構えるかのように錬十郎には見えた。

 白拍子は再び四方を見渡すと、扇を手にした右手を真っ直ぐ前に伸ばしてぴたりと指した。

 そのまま足音もなく前へと進み出る。

 舞台真正面の男の元へと。

 刺すような男の視線が鋭く女の顔に注がれる。

 千尋(せんじん)は、だが無表情にその目線を受け止めた。

 近づくに連れ、群衆の間から再びざわめきが高まってゆく。

 神楽舞台の正面の、男の前で立ち止まる。

 はたりと音を立て、再び扇が開く。

 だが、それは先程と同じ白無地ではなかった。

 赤地の真ん中に丸い金箔を押した扇面が現れる。

――日輪の扇。

 ああっ、と、それを見た観客らが声を上げた。

 だがそれをまるで意に介さぬかのように、白拍子はその場に膝をつく。

 手を伸ばせば触れ合うところにまで御前は男に近づくと。

 無言で、日輪の扇を舞台下の男へと差し出した。

 「あの者か!」

 驚きと落胆とが入り混じったどよめきが人々の間から上がる。

 だが男はまるで当然のことであるかのようにその扇を受け取った。

 びしりと(くう)を打つような強い音を立て、一息に男は扇を閉じる。

 そのまま扇を刀と共に腰に刺すと、周囲のざわめきや好奇の目などにはまるで興味がないかのように、男は千尋(せんじん)に背を向けて神楽舞台の前を去っていった。

 人々は相変わらずざわざわとさざめきながらも男の背中を少しの間だけ見送っていたが、また舞台の上の千尋御前(せんじんごぜん)を振り返った。

 白拍子は彼らに背を向け、神楽舞台の中央へと戻る。

 静まっていたはずの鈴と笛の音が、再び舞台に響き渡った。

 御前もまた、それに合わせてゆっくりと、二度目の舞を舞い始めた。

 「どうした」

 「もう終わりではないのか……?」

 いつもとは違う白拍子の振る舞いに、群衆が再びざわめく声が上がる。

 周囲の疑念に満ちたさざめきなど意に介さぬかのように、千尋御前(せんじんごぜん)は再び四方を見やる。

 そしてまた、最初に舞台に現れた時と同じように左袖で顔を隠すと。

 長い袴の裾を静かにさばき、舞台右手へと体を向ける。

 いつの間にか、どこから取り出したのか、御前の右手には新しい扇が握られている。

 その手が上がり、扇の先が錬十郎の顔をはたと指す。

 再び、ぴたりと楽の()が途絶えた。

 入れ替わるように群衆らの声が急激に高まる。

 流れるような足遣(あしづか)いで、白拍子が近付く。

 錬十郎の目の前へ。

 膝をつき、左袖を下ろす。

 錬十郎と目が合う。

――千尋(ちひろ)

 声も無く見つめ合った。

 そのまま扇を差し出してくる。

 今度は音もなく扇が開いた。

 錬十郎の前に小さな漆黒が広がる。

 それから、月が。

 黒地の扇面の中央に、丸い銀の月が描かれていた。

――月輪(げつりん)か。

 もう一度、錬十郎は千尋(ちひろ)の顔を見る。

 そうして月輪の扇を白拍子から受け取ると、己も音を立てることなく扇を閉じ、懐に入れた。

 それを見た群衆が一斉に沸いた。

 「今宵は二人か!」

 観客らの興奮が、千尋御前(せんじんごぜん)が一日に二人の男に扇を与えたことが意味するところをどのように解したかをはっきりと表していた。

 男らが両手を打って(はや)し立てる声はひときわ騒々しく、女は見せかけだけ恥じらうように、両手で顔を覆って指の間から白拍子と錬十郎の顔を覗き見る。

 幼な子らはそれらの意味がわかるはずもなく、ただ大人らの異様な熱に当てられたかのように、ふざけた金切り声をあげている。

 人々の騒ぐ声は神楽舞台の屋根を揺るがし、その上の塵芥(ちりあくた)までもがざわめくかのようだった。

 だが、その周囲の(たかぶ)りにも関わらず、錬十郎はひどく冷静だった。

 静かに扇を受け取った錬十郎を見た白拍子が満足げな笑みを浮かべている。

 その微笑が、錬十郎に目の前に()千尋(ちひろ)の中に()るものが、千尋(ちひろ)ではないことを告げていた。

 その者の意図は未だ判然としなかったが、己を選んだことは必然として受け止められた。

 扇を授けた白拍子の動きが、だがそこではたと止まる。

 横から伸びた幼い手が、女のほっそりとした手首を掴んでいる。

 その手が伸びてきた方を、錬十郎は振り返った。

 「見せろ」

 いつの間にかすぐ隣に来ていた浄心が、白拍子の手首を捕らえたまま、相手の顔を睨みつけて言った。

 「見せるんだ!」

 千尋御前(せんじんごぜん)もその目を正面から受け止めると。

 ふと、口元をほころばせ、答える。

 「――見たいか」

 その声が、錬十郎の記憶を呼び起こした。

――つまらんな。

 だが、それは千尋(ちひろ)の声ではなく。

 「あ……!」

 浄心もまた、その声を覚えていた。

 「仕方がないなあ」

 伊予桜井の猟師小屋の焼け跡で暴かれた、錬十郎の記憶の中で聞いた黒く凍りついた声がそう言うと。

 ずるりと、浄心が掴んでいる白拍子の腕から真っ黒い影が立ち上のぼった。

 「わあああっ!」

 浄心が叫び、手を離そうとする。

 だが、千尋御前の手を掴んでいたはずの浄心の手は、逆に御前の手によってしっかりと捕えられ、そのまま舞台上へと体ごと引きずりあげられた。

 突如、太陽が巨大な黒い幕で覆い隠されたかのように、群衆たちの頭上の天が真っ暗な夜空に変わる。

 神楽舞台を取り巻く人々の全員が一斉にあげた悲鳴の声が、奇妙にひずんで長く尾を引いて。

 錬十郎と、浄心と、白拍子だけでなく、境内にいた者たちすべてが、日も月も星もない夜闇の記憶の只中へと引きずり込まれていった。



 りん、と響いた鈴の()が呼ばわっている。

――()よ。

――いざ、来よ。

 はるか遠くにまで届いた涼やかな音は、ほとんどの者には鈴振る音色に聞こえていたが、選ばれたある者にだけは、激しくぶつかり合う鍔迫(つばぜ)りの音に聞こえていた。

 その音に引かれて、やってくる。

 歌声も、共に聞こえてくる。

――遊びをせんとや、生まれけむ。(たわぶ)れせんとや、生まれけむ。

――遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ(ゆる)がるれ――

 だが、こう聞く者もいた。

――交わす(やいば)の声聞けば、我が身さえこそ(ゆる)がるれ――

 刀の呼ばわる声を聞きつけ、やってくる。

 そうして、扇を授かる。

 それは鍵だ。

 日の光も月の光も届かぬ、刀の妄執だけが息づく舞台への。

 夜の狭間で、篝火(かがりび)だけに照らされて、千刃(せんじん)は待っている。

 己をさらなる高みへと導く(かて)となるべき宿命(さだめ)の刀と、その持ち主を。

 神楽舞台の真ん中で対峙する。

 抜刀し、斬り掛かってくる。

 「まず、ひとつ」

 一刀の(もと)に斬り捨てた。

 斬られた男の体は消え失せ、刀だけが千刃(せんじん)の手の中に残る。

 ひと息でそれを飲み込んだ。

 夜が明けると、また音がする。

 鈴の音と、鍔迫(つばぜ)りと。

 歌声もまた、呼ぶ。

 舞を求める多くの者と、立ち合いを求める一人とを。

 また、扇を与える。

 夜が来る。

 「ふたつ」

 相手よりも早く千刃の太刀がひらめき、命を奪った。

 残った刀と、ひとつになった。

 朝が来た。音と歌が呼ぶ。扇を手渡す。夜が来る。

 とても(かな)わぬと見て逃げようとした背に太刀を浴びせた。「みっつ」

 昼に聞く、音と声。扇を手に、夜に来る。「よっつ」

 夕暮れの前に扇を授け、夜とともに「いつつ」。

 ぐるぐると、めくるめく、「むっつ」「ななつ」「やっつ」。

 めぐりめぐる、日と月の間で、「ここのつ」「とおじゅういちじゅうにじゅうさんじゅうしじゅうごろくしちはちくじゅうひゃくせんまん」

 数え切れないほどの昼と夜が、そうして流れてゆく。

 やがて、その刃は討ち倒したすべての刀の鋭さと強さと美しさとを宿し、いまだかつて何者もたどり着いたことのない高みへと昇り詰めてゆくだろう。

 それこそが、千刃(せんじん)


――極めて(ひいで)たる刀としてこの世に生を受けたらば、それを(きわ)めることこそ、()が有り(よう)なるべし。

――千の刃の力を集め、()が刀身に宿すべし。

――これぞ()千刃(せんじん)の大願。吾が名、千刃の由来なり。


 千尋御前(せんじんごぜん)の舞を見ていたすべての者が、その光景を目にした。

 毎夜毎夜、神楽舞台の上で起きていた、ほんとうのことを。

 白拍子が何を求めて人々を呼んでいたのかを。

 「あ……ああ……」

 「こ……殺される……、わしらも殺される……!」

 「ひとごろしだあ!」

 「やめてえ、たすけてえ」

 我先に逃げ出そうとする群衆は、だがしかし、未だどことも知れぬ闇の中にいた。

 「おっとう! どこだあ!」

 「かあちゃん、かあちゃあん」

 「ぼうやあ」

 逃げても逃げても、どこまでいっても、誰もいない。

 暗闇の中、一人で逃げ惑う。

 こんなに大勢の人がいるのに、何故だかみんな、ひとりぼっちで。

 錬十郎ですらも、己の体が今どこにあるのかまるでわからなかった。

 何故か彼らの目に見えているのは、神楽舞台の上にいる千尋御前(せんじんごぜん)と浄心だけだった。

 「千と言うたは言葉の(あや)だ」

 その浄心を見下ろす千刃(せんじん)の黒く凍りついた声が人々の間に響く。

 「万でも、億でも、那由多の()ての果てまでも、無数の刃の力をもって、(われ)は未だかつてどの刀も成り得たことなき(いただき)を極め続ける。それが吾の『()(よう)』だ」

 「どうして……どうしてこんな……!」

 舞台の上に這いつくばり、だが、きっと顔を上げて浄心は問い詰めたが。

 「こうありたいからだ」

 なにほどのこともない、と言いたげに千刃の口から答えが語られる。

 「それでこそ、いかにも(われ)が吾として生きているという心地がするからだよ」

 相変わらず、その声は取り付く島もないほどに冷然としていた。

――これが刀の妄執か。

 「妄執ではない。()(よう)だ」

 浄心の胸の内を聞きつけたかのように千刃は冷たく答える。

 「人だって、そうだ。なりたい(おのれ)、こうせずにはいられぬ己があって、そのために生きるんだろう? ならば人の()(よう)こそ雑念で、妄執だ。吾と同じだろう。それのどこが悪いのだ」

 「違う、それは……」

 「何が違う? わからないな。だったら見せておくれよ。お前も、こいつらも、どうなりたくて生きてるんだ? お前なら簡単にできるだろう、さっきのように」

 「う……」

 容赦ない、だが無邪気に求めるつめたい声に、浄心の全身がぞくりと震えた。

 「そのために、お前はここに来たのだろう? 当てにならぬ噂を(はら)い、真実を知らしめる。それがお前の『()(よう)』だからだろう。吾と同じだ」

――違う。

 錬十郎の声ははっきりとそう言っていたが、やはり相変わらず己の体は目の前の光景からひどく遠いどこかに切り離されたままだった。

 「違う! 私はお前のような……」

 「違わないさ」

 ただ一人で、だが同じように反駁(はんばく)する浄心を、千刃はさらなる凍りついた言葉で(えぐ)った。

 「お前だって、そうして多くの人々の安寧を(おびや)かして来たんじゃないか。だったら同じだ」

 「あ……ああ……」

 神楽舞台に這いつくばる浄心の小さな体を、千刃は片手でやすやすと掴んで吊り上げる。

 「ほら、これだ」

 白く細い手を浄心の胸に突き立てた。

 「わあああああっ!」

 幼い苦痛の叫びなど千刃はまるで意に介さずに、そこからぞろりと黒い糸のようなものを(つか)み出す。

 長々と束になって引きずり出されたそれは、しかし浄心一人だけのものではなかった。

 いつの間にか周囲の人々もまた、その胸や背から黒々と長い糸が引き出され、その先がすべてひとまとまりになって浄心を通して千刃の手で掴み出されている。

 それは執着で、雑念で、妄執で。

 「やめて……! だめだ……!」

 必死に拒む浄心にも構わず、千刃は太く束ねられたどす黒い糸を思い切りよく抜き出すと、頭上から高々と振り撒いた。

 「これがお前たちの『()(よう)』だ」

 今度こそ、周囲は一切の光もない闇世(やみよ)に包まれた。

 千刃の手によって無造作にその中に放り込まれた人々の悲鳴が闇を圧して響き渡る。

 こうありたかった願いと、そうなれなかった奥底の思いが同時に叫んだ。


――(おそろ)しや(でもこうしないと俺が殺されてたんだ)

――恥ずかしや(だって、こうしないとあたしは生きられなかったんだから)

――許されるはずもない、面目次第もない(だが、あいつからは逃げられなかった。どうにかする気概など私にはなかった)

――許したけど(本当は許せなかったけど、でも皆に言われたら、他にどうすることができた?)

――もう嫌いよ、あっちに行って(だって、私だけを見て欲しかったんだもの)

――言うこと聞かない悪い子め!(怒りたかったんじゃない。どうにかして真っ直ぐに育ってくれないか)

――愛してやりたかったのに(なんで生まれてきたんだ、まともに育ててやれないあたしのところへ)

――おっかあなんかきらいだ(だってこれじゃあ親孝行もできやしないのに)

――この世は無常だ(なぜ神も仏も手を差し伸べないんだ。祈る思いになんの甲斐があったか)


 人々の声は次々と、更にくっきりとした光景へとかたどってゆく。

 男は切ない想いで手を伸ばしたが、女が怖気(おぞけ)をふるって払いのけ、逃げ去ろうとするので無理矢理に捕らえて手にかけた。

 やっとの思いで産み落とした母は自分一人でも育てようとして力尽き、目の前で儚く子の命は絶えて。

 矍鑠(かくしゃく)と老い、子と孫を慈しみ、孝行を尽くされた親を、それでもすさまじい飢饉(ききん)の年に泣く泣く山へと捨ててきた。

 背に荷を負って山の向こうへ売り歩き、初めての子を宿した妻へと懐にしたささやかな土産を、野盗があっけなく命とともに奪った。

 この子のためなら何だってするさ。毎夜毎夜、歯を食い縛って、男の下で。せめてあの人が帰ってきてくれたなら。

 名を上げたくて、小さな畑を耕して終わりたくなくて、大望とともに村を出たはずが、雑兵として使い捨てられて命が終わった。

 幸せになれると信じて嫁いで、けれども周りはみな冷たくて、冷たくて、耐えられなくて更につめたい場所へ飛び込んですべて終わらせた妻を救うこともできなくて。

 あの人を返して。返して。返してよ。あんたなんかがいなけりゃ、あの人はきっとあたしの元へ。

 ああ、うるさい、うるさいよ。みんなしておいらを馬鹿にしやがって。ずっとおいら一人ぼっちで。もういっそおいらなんか。いいや、なんでおいらだけ? みんな、みんないなくなればいいんだ。おいらが消してやるんだ。


 「ちがうちがうちがう! そうじゃないんだ!」

 浄心が叫んでいる。

 「そんなつもりじゃなかった……!」

 そんなつもりじゃなかったからこそ、記憶は傷ましい。

 どれだけ怖くて、痛くて、嫌で、不快で、寂しくて、苦しくて、恥ずかしくて、悔しくて、寒くて、ひもじくて、気持ち悪くて、暑苦しくて、鬱陶(うっとう)しくて、冷たくて、息苦しくて、見たくなくて、見られたくなくて、見て欲しくて。

 会いたくなくて、会いたくて、会えなくて。

 逃げ出したくて、逃げたくなかったのに。

 助けたくて、助けられなかった。

 信じられなくて、信じたかったのに。

 裏切りたくなくて、裏切ってしまって。

 愛する人と添えないから、愛してくれた人とは添えない。

 愛されたかったのに、愛されなくて、愛したのに。

 愛したかったのに。


 「……なんだ、この無様なありさまは」

 眼前で繰り広げられる人々の切ない営みを、だが千刃はいっそう凍りつく目で苦々しく見下げ果てていた。

 「そんなつもりではなかった?」

 そんなつもりではなかったからこそ、その行き着いた果てのありさまが、千刃にはことごとく腹立たしかった。

――遊びをせむとや、生まれけむ?

――(たわぶ)れ、せむとや?

――舞え。舞え! 蝸牛(かたつむり)

 「貴様ら人間など蝸牛じゃあないか」

 その黒い声が罵倒する。

 「この下手糞が!」

 せいぜい上手く舞ってみせてはどうなのだ?

 この、(われ)のように。

 「見事に舞うこと(あた)わぬ蝸牛など、踏み潰されてしまうのがお似合いだ」

 (さげす)む声の冷たい刃が、人間たちの切ないありさまの糸をすべて一太刀で断ち切った。

 それでようやく、人々は解き放たれた。

 「やめて、やめて、もうやめて」

 固く目を閉じ、両手で耳を塞いでも、千刃の黒い(あざけ)り声と、それに怯える人々の泣き叫ぶ声が浄心の背と胸と腹と脳髄とに無数に突き刺さる。

 悲鳴とも泣き声とも罵声ともつかぬ声をあげながら、人々はちりぢりになって靱負神社の境内から一人残らず逃げ去っていった。



 夕暮れの迫る神楽舞台の前で、錬十郎は一人で立ち尽くしている己をようやく見出した。

 力の限りに刀の柄を握り締めていたのに気づく。

 辺りを見渡す。

 神社の境内は、あの狂騒が嘘だったかのように静かだった。

 舞台の上から転げ落ちるように浄心が降りてくる。

 ふらふらとおぼつかない足で、錬十郎がいるのにも気づかぬかのようにその前を通り過ぎてゆく。

 神楽殿には、もう千尋御前(せんじんごぜん)の姿はない。

 その周囲にも、錬十郎と浄心の他には誰もいなかった。

 あれほど多くの人々がいたというのに。

 代わりに、その場に残されていたのは。

 「あ……ああ……」

 浄心は立ち止まり、がっくりと両膝をつく。

 そうして見回した、その周りに。

――泥まみれの手拭い、踏み付けられた粗末な(くし)、小さな珊瑚玉のかんざしが無残に折れて。

――形もわからぬ砕けた根付、煙管の先だけが落ちて。破れた菅笠(すげがさ)と。

――わずかばかりの銭。誰かが誰かに託した手紙。引きちぎられた花びら。

――片方だけ脱げた草鞋(わらじ)。割れた小さな盃。踏み砕かれた風車……。

 かつてそこにいたはずの人たちの、ささやかな思いを宿した品だったはずのものが、今ではもうまるで価値のない塵芥(ちりあくた)のように打ち捨てられ、散らばっている。

 すべて敗れ去った欲望の残骸のように――。

 それがどうにも、浄心にはかなしくてならなかった。

 「ああ……!」

 それらに囲まれてへたり込んだまま、浄心のむせび泣く声が辺りに響く。

 遊びをせむとや……?

 いったい人は、何のために――。

 境内に散らかった品々の間を抜けて、錬十郎は浄心に歩み寄った。

 「立てよ。もういいだろう」

 「私は……そんなつもりじゃ……」

 「知っている」

 前にも似た光景があったと思いながら手を差し出す。

 「なのに、また……。また、他の人たちを……あんなふうに……」

 だが浄心は気付かず、止まらぬ涙をこぼし続けている。

 「他の奴など知らん」

 へたり込む浄心に手を伸ばしたまま、錬十郎はさらに言った。

 「お前のことなど何も知らん奴らを、お前が気にする必要などない」

 そうなるかもしれないと知っていながら、それでも浄心が千刃(せんじん)の記憶を(さら)け出させたのが誰のためだったのか、言うまでもなく錬十郎には解っていた。

――それが前とは違う。

 「だが……」

 だから、言った。

 「俺にとっては、これでよかった」

 一瞬だけ、浄心の嗚咽が途切れる。

 顔を上げると、錬十郎の手があった。

 「ああ……」

 その手を取り、ようやく浄心は立ち上がる。

 それでも涙が止まらなくて。

 「ありがとうございます。錬十郎さん」

 ぽつりと、その一言だけが転がり出る。

 「お前が礼を言うな」

 だが浄心が立ち上がると、すぐに錬十郎は目をそらした。

――俺が言えなくなるだろうが。

 「すまなかった」

 代わりになる言葉はもう、それしかない。

 浄心も、すすり泣くだけだった。

 血を流したような真っ赤な夕空が、二人の頭上にただ広がっていた。


     *


 深夜の靱負(ゆきえ)神社の境内に、か細い灯りがいくつか見えた。

 荒れていた元の参道には昼間にはなかったはずの石灯籠が立ち並び、蝋燭(ろうそく)の火が灯っている。

 左右からぼんやりと照らされる中を二人で無言で歩む。

 錬十郎と浄心の目の前に現れた神楽殿も、日中とは大きく姿を変えていた。

 四隅(よすみ)を柱で支えられていた屋根はなく、背面を隠していた幕も取り払われて、四方が開けている。

 神楽殿の正面に、舞台へ上がれるように踏み段が据え付けられていた。

 柱の代わりに、舞台から少し離れたところの四方に火の無い篝火(かがりび)台が立っていて。

 さらにもう一つ、舞台下に影が見える。

――日輪の扇の男。

 二人が近づくのを察し、ちらと見て、またすぐ背を向けた。

 錬十郎にも、まして浄心になど興味はないと言いたげに。

 舞台の正面に二人もたどり着く。

 神楽殿の上には石灯籠の光は届いてはいなかったが、ぼんやりとした半月の光が落ちていて、そこに誰もいないことが辛うじて三人には判った。

 その半月が雲に隠れ、辺りが暗くなる。

 同時に、右手奥の篝火台に音もなく火が着いた。

 だが、誰もいない。

 そこから右手前と左、最後のひとつと、順に四つの篝火が大きく燃え上がり、神楽舞台の上に光を投げかけた。

「あっ……」思わず浄心の声が漏れる。

 その光の交わるところに女がいた。

 先程までは誰もいなかったはずの舞台の真ん中に忽然と現れている。

 装束は白拍子のまま、ぴたりと床に座していた。

――千尋御前(せんじんごぜん)

 わずかに顔を伏せ、閉じていた目が。

 開く。

 舞台下の正面で待つ男たちを見た。

 浄心の前で、二人の男が視線を交わす。

 「俺が先だ」日輪の男が言う。

 それが当然であるかのように。

 錬十郎が黙ったままなのを男は承諾と見て、踏み段をのぼって神楽舞台の上に出た。

 沈んだ足音と共に舞台中央へ。

 白拍子の前、やや距離を置いて男も座る。

 懐から取り出した扇を閉じたまま床の上に置き、滑らせるように女へと返す。

 すう、と白い手を伸ばし、千尋御前(せんじんごぜん)は扇を受け取った。

 再び御前は目を閉じる。

 男は目を開いたまま動かない。

 神楽舞台の上で、時のない時が流れて。

 その刹那は錬十郎には見えたが、浄心には見えなかった。

 「えっ……」

 抜いたのは男が先のように見えた。

 だが、倒れたのは男の方だった。

 二人ともその場を動くことすらなく。

 抜き打ちに男が立ち上がりかけた刹那を右膝立ちで御前が受け流し、そのまま男を斬っていた。

 わずかな音を立てて納刀する。

 白い手を伸ばし、斬ったばかりの男が握っていた刀を手に取った。

 刀身を立て、ゆったりと大きく(のた)れる刃紋に見入る。

 篝火が四方から投げかける明かりがその刃を照らし、揺らめいて。

 そのまま千刃の手の中で、溶けるように刀が姿を消した。

 男の刀を持っていた(おの)(てのひら)を見つめる。

 やがて満足げに、笑みを浮かべた。

――喰らったか。

 (たお)れた男の体も、もう無い。

 千刃は目を閉じ、ひとつ息を吐くと。

 やがて再び開いた目が舞台下の錬十郎を見る。

 その目線を受け止め、錬十郎が動いた。

 無言で舞台正面の踏み段へと向かう。

 「あ……」

 思わず声をかけそうになる己を、浄心は両手を握りしめて(こら)える。

 神楽舞台への踏み段を(のぼ)りながら、錬十郎はもう浄心を振り返ることもなかった。

――それでいいんだ。

 浄心は胸につぶやいた。

――この先のお導きはない。

 本当にもう、己にできることはなにもない。

 信じて待つことすらも、錬十郎にとってはもはや意味がない。

 そう言い聞かせて己を落ち着かせようとしたが、できなかった。

 浄心の胸の動悸が小さな全身を揺るがすかのように激しく轟く。

 だが錬十郎の体は頭頂から足先まで静かに冷えていた。

 ただ己の中のどこかに息づく手が、内側からその胸を押す力だけを感じていた。

 踏み段から神楽舞台へと上がり、千尋御前(せんじんごぜん)の前に錬十郎は立つ。

 千刃(せんじん)はその場に座したまま、相手を迎えた。

 立ったままの錬十郎が懐から取り出した扇を開き、女の前に差し出す。

 黒地に銀の、月輪(げつりん)の扇。

 千刃が見上げ、白い手を伸ばそうとする。

 ふわりと扇が宙に浮き。

 音もなく、月輪が二つに斬り裂かれた。

 切られた扇が舞台に落ちるのと同時に、錬十郎が刀を納める。

 その静けさが、錬十郎の怒りだった。

 我知らず止めていた息が浄心の口からようやく吐き出された。

 厳しく、だが冷静な錬十郎の目が千刃を見る。

 千刃はつめたくそれを見返し、目の前に落ちた扇の残骸を拾い上げた。

 手にした扇を見つめながら立ち上がる。

 無言でそれを背後へと放り()て。

 同時に二人は抜き打ちに、激しい音と共に刃を交わした。

 「覚えている」

 鍔迫り合いの(しのぎ)を隔てて、千刃が言う。

 「お前は、我が産声(うぶごえ)を聞いた者だな」

――つまらんな。

――こうすればお前を喰ってやれると思ったのに。

 黒く凍った声が錬十郎の内に蘇る。

 「千尋は返してもらう」

 錬十郎も冷たく言葉を返す。

 「やってみるがよい。だが、叶わぬ。お前も(われ)が喰らう」

 「やってみせろよ」

 同じ言葉を放つ錬十郎に、千尋(ちひろ)の顔をした千刃(せんじん)が口角を緩めた。

 「あるいは、それが良いやも知れぬな。お前の思い人もここにいるのだから」

 けたたましい音を立て、錬十郎は千刃の刀身を払いのけた。

 その(こた)えに、千刃はまた無言で笑った。

 「なにが可笑(おか)しい」

 青眼に構え、錬十郎が苛立たしげに問う。

 「何故(なぜ)笑う」

 切っ先の向こうの白拍子が、それを聞いてさらに()む。

 「何故もなにも」

 嬉しいのか。(たの)しいのか。

 遠間(とおま)に有るその顔を見ても、錬十郎にはわからない。

 その錬十郎を見返して、口元をほころばせた千刃が答える。

 「紛れもなく吾はそのために生まれてきたのだからな」

 そう言って、さらりと流れる足遣(づか)いで後ろへ下がる。

 「だから――」

 錬十郎の取った間合いよりも、さらに遠くで笑いかけながら。

――何だ。

 その不穏さを察すると同時だった。

 「さあ」

 瞬時に切っ先が眼前で(ひらめ)く。

 「遊ぼう」

 大きく踏み出したとともに片手で(つか)う刃が驚くほどの素早さで錬十郎の目の前に達した。

 (すん)でのところで受け、右に払う。

 立て直す隙を与えず首筋を狙うが、難なく受けられた。

 返しざまに斬り下ろすが、素早く間合いを切られた。

 構わず、こちらも出る。

 ()じ込もうとした刃先は、しかし千刃が容易(たやす)くはね()けた。

 勢いを殺さず頭上から巻き込むように斬り下ろす。

 真っ向からの斬撃を千刃が(さば)き、即座に突く。

 こちらも(しの)ぎ、さらに懐へ飛び込む。

 鍔迫(つばぜ)る眼前で睨み合った。

 「成る程、()いな」

 黒く冷えた目を細め、錬十郎を見る。

 「確かにお前はこの時のために生きてきたのだな」

 「だったら何だ」

 鍔元から力任せに押し返し、言い捨てた。

 目の前の千刃(せんじん)が愉しげに言う顔が、千尋(ちひろ)のままなのが言い(よう)なく腹立たしかった。

 足音もなく下がり、千刃がわずかに首をかしげる。

 「けれど、それだとおかしなことになるな」

 遠間から千刃が片手を伸ばし、切っ先を錬十郎に向ける。

 「万に一つ、千万に一つ、お前が(われ)に勝ったとして、そうしたらもうお前は死ぬんじゃないか。それで終わりだものなあ。……いや、だったら勝とうが負けようが同じなのか。蝸牛(かたつむり)はみな、そうして死んでゆくわけだ」

 「そんなものを……」

 決め付けるな。誰も決め付けるな。

 「お前にそんなものを決め付けられる筋合いはないんだよ」

 再び斬り込む錬十郎を千刃は横一文字で大きくはらうと、また遠間へと退()く。

 間合いのずっと外から見せる千刃の嘲笑が、はかなくも切実な人々の欲望を晒した光景を思い起こさせた。

 遊びをせんとや。

 戯れせんとや。

 ならば、何のために。

 「交わす刃の声聞けば」

 凍りついた声が、まるでそれを聞いたかのように続きを(えい)じて。

 「我が身さえこそ(ゆる)がるれ、だ」

 再び千刃の一閃が夜闇の向こうから錬十郎に襲いかかった。

――見切られている。

 甲高い音を立てて、防いだはずの(しのぎ)が弾かれる。

 「まあ、お前が勝つことは無いよ」

 その声と同時に、凍りつく刃筋が狙い澄まして錬十郎の左腕を大きく斬り裂いていた。


 浄心は悲鳴を上げそうになるのを(こら)えるので必死だった。

 「う……うっ……」

 片手で口元を覆い、だが目は見開く。

 錬十郎が今まさに受けている痛みが目の前の千刃(せんじん)の刀によるものだけでないのが、浄心には己の胸のうちのことのように(いた)んでならなかったが。

――それだけじゃない。

 夕暮れの神楽舞台の前で、己に向かって差し出された錬十郎の手を思い出す。

 大きくて、強い手だ。

 なのに今、その手がしようとしていることは。

 「どうして……」

 どうして、その手を千尋(ちひろ)に届かせることができなかったのか。

 その(ひと)のためには限りなく優しい手であれたはずなのに。

――いや。だからこそ、なのか。

 息を呑み、浄心は錬十郎の背を見つめる。

 だからこそ刀を届かせると、錬十郎は決めたのだ。

 だがその決意すらも、千刃は何ほどの価値も無しとして斬り捨てる(さま)を浄心の目の前で見せつけていた。


 大きく切られた左袖を錬十郎は片手で破り捨てた。

 思いの(ほか)、強い血の香が立つ。

 手応えでもそれは相手に伝わったはずだった。

 錬十郎の体から一気に汗が吹く。

――あれが届くか。

 こちらもやや遠間を保ち、青眼で構え直す。

 乱れかける息を抑え込むように落ち着かせる。

 一度、左手を(つか)から放し、またすぐ握りなおす動作に支障はなかったが。

――そう簡単ではないな。

 だが、それを見ている千刃の眼差しの冷たさはほんの欠片(かけら)ほども変わらない。

 これでは己の果てない大望への半歩にもならないとでも言うように。

 ひとすじの糸のように静かな立ち姿から、また一息に千刃が踏み込んで斬り上げてくる。

 寸前で受け止め、即座に斬り返そうとするが、(から)めとるように潰された。

 そのまま至近から突き上げてくるのをなんとか(しのぎ)ではね除のけた。

 さらに刃先で払い、かろうじて間合いの外へと逃れる。

――良くない。

 だが追い討つように千刃が斬り込んだ。

 繰り出される刃を跳ね返す。

 飛ぶように伸びてくる突きの狭間をすり抜けてかわし、逆袈裟を狙う。

 鋭い音を立てて千刃が防いだ。

 立て直す間もなく追撃が来るのをかろうじて合わせ、払う。

 息吐()く間もなく袈裟が。

 (ひね)り込むように無理な体勢から横薙ぎを放って牽制する。

 それでまたようやく間合いが切れた。

――退()きたくはないが。

 息を弾ませ、相手を見る。

 相変わらず、平然と見返す千刃には何の乱れもない。

 こちらの仕掛けをことごとく打ち棄て、己の機先に替えてしまう。

 それは小手先の細工でも(から)め手ですらもなく、むしろ誘いをかければその隙を容赦なく突き崩し、断ち割るだろう。

 片手で軽々と(つか)う太刀が、時に意想外の鋭さで見る間に迫りくる。

 確かさと速さと、明らかに女の肉体(からだ)を超えた圧の太刀筋が押してくる。

 かろうじてまだ薄皮半枚で止めているが。

――だがそれも、またいずれ裂ける。

 全身が汗に(まみ)れ、息が乱れる。

 顎に(したた)る雫を拳で(ぬぐ)った。

 今まで一度たりとも感じたことのなかった刀の重さが、腕を(しびれ)させる。

 焦りは不利と判りきっていたが、やがて追い込まれるその先も同じく窮地でしかなかった。

 乾き切った唇を噛み締め、左手の感覚を奮い立たせて鳩尾(みぞおち)へ突きを放つ。

 そのまま千刃が(さば)き、応じ返し。

 刃筋も流れず追ってくる。

 さらに胸元を狙う切っ先を潰して踏み込む。

 しかし、逆胴は容易(たやす)(はじ)かれた。

 押されるように遠間へと退()く。

 させじと千刃が一閃で詰めた。

――重い。

 鍔迫(つばぜ)りの圧から()じ込まれぬよう、耐える。

 (しのぎ)でせめぎ合う刹那で相手を崩し。

 再び突きを放ち、千刃が下がりつつ避けるのをさらに上段から真っ向に斬り下ろす。

 だが相手はそれを受けるかわりに脇腹を狙ってきた。

 「雑だよ」

 耳元で千刃が(こぼ)す。

 裂かれた肉の下から血が飛沫(しぶ)いた。

 食い縛り、かろうじて声を(こら)える。

 「どうした」

 派手に床へと散った血潮に、千刃の声がいかにも不満気に響いた。

 「つまらぬ(ざま)を見せてくれるなよ」

 錬十郎の額ににじむ脂汗と、激しい息の乱れと。

 左腕からもまだ血が(したた)り続けている。

 踏み止まろうとした足元の()れまでも明らかに見透かした千刃の目が、ひときわ(こごえ)た。

 「でも、もう遊べないのなら、お仕舞いだよな」

 (きょう)を削がれた溜め息混じりに言うのがさらに錬十郎を(えぐ)る。

 「ああ」

 しかしその痛みを、あえて錬十郎は己の芯に()えた。

 「そうだな」

 目の前の相手が紛れもなくこちらを一手も二手も上回り、凌駕する圧が火のように錬十郎の身を焦がす。

――だが、それが何だ。

 焼け付く胸の内を両手で握り潰し、消耗とともに打ち棄て、踏み砕く。

――刃筋を乱すな。流れを乱せ。

 二度とない機先を必死に探る。

――違和を掴んだら即、断て。

 乱れる息を整える間すらも惜しんで。

――惰性で動くな。判断を保て。

 この先は、もう無い。

――勘を極めろ。だが、頼るな。

 隙などどこにも有るはずもない。

――必然に(あらが)え。

 ただ砕くことだけを見据え。

――この俺と、刀が()る。

 青眼の切っ先の、さらになにも見えないその先へと一息で踏み込んだ。

 それを待ちかねたかのように。

 それをこそ、ずっと待ち望んでいたかのように。

 切って落とす勢いで、千刃のさらなる鋭さを増した一閃が放たれた矢の速度でこちらへ跳ぶ。

 先を見る。後は見ない。

 ここにいる己しか有りはしない。

 ()ぎ澄ました針先の意識が霧雨の中からひと(しずく)を刺す。

 引き裂くようにこじ開けた。

 けれどもそこは紛れもなく奈落の闇中(あんちゅう)で。

 確かに見えた死線を迷うことなく踏み越えた。


 右の視野に千刃の切っ先が入る。

 そのまま閉ざすことなく。

 鋼の冷たさを見開いたままの眼球で受けた。

 視界の右半分を真っ赤に引き裂かれて。

 頬骨をかすめて顎にまで灼熱が(ほとばし)る。

 己の上を通り過ぎた刃を、下から力任せに斬り上げ、払う。

 そこから傷ましく響く刀の鈍い音が聞こえた。

 刀身の半分から先が折れて飛んでいくのが残った左の視野をかすめる。

 手の中にも半分残った刃が、しかしまだあった。

 だから。


 そのまま左の眼の前にあった千尋(ちひろ)の右手を目掛けて振り下ろした。


 ふっつりと、か細い手首が斬り離される。

 白く清楚な花が咲くように千尋(ちひろ)の右手が大きく開いた。

 握っていた刀が切っ先を下にして神楽舞台に落ちる。

 そのありさまが信じられないかのように千刃(せんじん)は目を見開いた。

 刃筋を立て、意志あるもののように刀が床に突き立つ。

 凍りつく瞳に、それが映る。

 錬十郎は己の手の中にあった折れた刀を捨てると、代わりに神楽舞台に立つ刀を右手で抜き取った。

 左の手で千尋(ちひろ)の腕を掴み、その体を強く引き寄せる。

 そのまま千刃の刀を千尋(ちひろ)の胸へと渾身(こんしん)の力で突き刺した。

 抱き締めるように。


 それでも錬十郎は目を開いたままだった。


 「は……」

 千刃もまた、その黒く凍った瞳を大きく見開いていた。

 ややのけぞった顎から白拍子の烏帽子の紐が解け、床に落ちる。

 (うつむ)くように胸元を見た。

 ふっ、と白い顔の頬がわずかに(ゆる)む。

 己の命脈を()ったのが紛れもなく己自身である刀であったことが、どこかでひどく腑に落ちたかのような色がその口元に浮かんでいた。

 「成る程なあ……それがお前の」

 黒く乾いた声で囁き、目の前の錬十郎を見る。

 残った片眼が見返してくる。

 「……それにしても」

 血塗(まみ)れの顔が睨み返すのに(こら)えかねたかのように、黒い声が喉の奥で笑った。

 「(なん)と無様な勝ちか」

 「だったら何だ」

 その嘲笑を錬十郎が斬り捨てた。

 「……蝸牛(かたつむり)が」

 侮蔑が冷たい息を吐く。

 「一太刀及ばず、か……」

 千刃は、届かせようとして届かなかった刃を惜しむかのように左手をかろうじて上げると、その指先を永久に失われた錬十郎の右眼へと向けて伸ばした。

 「だが、これはもらった」

 「貴様にくれてやったわけではない」

 その(こた)えに、含んだようなわずかな笑い声を立てると、千刃の手がはたりと落ちた。

 「……遊びは終わった」

 千刃は目を閉じ、二度とその黒く凍った眼差しと声を発することはなかった。

 ゆっくりと、錬十郎が千刃の刀を抜き取る。

 無言のまま相手の体を支え、しばしの間だけ立ち尽くしていた。

 抜いた刃を手にした腕がだらりと垂れる。

 脱力したかのようにその手の中から刀がすべり落ちると。

 はかなく透き通った氷のように、きらめく欠片(かけら)を辺りに振り撒きながら、千刃の刀は砕け散った。


 「……あ……」


 うめくようなただ一声が錬十郎の唇から漏れた。

 全力で走り尽くした後のように大きく肩を(あえ)がせて、激しく乱れた息が続け様に吐き出される。

 感覚の失せかけた両腕で千尋(ちひろ)の体を支えると、今にもその場で崩れ落ちそうになる足を必死に(こら)えながら、ゆっくりと神楽舞台の床に膝をつく。

 「……千尋」

 壊れもののように、大切に抱きかかえて。

 「起きてくれ。千尋」

 祈るように呼びかける。

――頼む。

 かすかに(まぶた)が震える。

 ゆっくりと、唇が開いて。

 「だれ……?」

 決して聞き違えるはずのない、やわらかな千尋(ちひろ)の声を耳にして、錬十郎は己の最も奥底から湧き起こる深い吐息をついた。

 そうして、一言だけ答えた。

 「……俺だ」

 「ああ……」

 その眼差しが、蘇る。

 そこから返ってくる(こた)えを、錬十郎は一刹那だけ恐れた。

 「……錬十郎さま……」

 聞こえた声に、安堵の息をもう一度吐()くと、錬十郎は静かに呼びかけた。

 「目が覚めたか」

 千尋の目が錬十郎の右眼を見る。

 「これは……?」

 右の額から顎の上までも斬り裂いた傷は、まだ血を流していた。

 「こんなものは何でもない。お前が気にするようなことは何もない」

 「……でも……」

 「こうしてお前が帰ってきたのだから、それでいい」

 さらなる問いを(さえぎ)る錬十郎の答えに、千尋はただ吐息のような声を漏らした。

 「……(なん)にも覚えていません……」

 「そうか……」それはせめてもの救いだと、錬十郎は胸に呟いた。

 「ただずっと、寂しくて」

 「ああ」

 「あの方が……鉄山さまがいなくなって、ずっと、寂しかった」

 「そうか。……俺も、そうだ」

 ここに兄がいればよかったのに。

 「でも、代わりに錬十郎さまがいて下さって、よかった」

 「……それはよかった」

 本当は代わりにすらならないのだろうと、錬十郎は己に苦く言い聞かせた。

 だがそれでも、千尋にしばしの安らぎを与えることができたのなら、それだけでも己が刀を手にした意義をわずかなりとも果たせたような気がしていた。

 何度目かの吐息をつく錬十郎に、だが、千尋が告げる。

 「けれど……やっぱりちょっとだけさみしいから、鉄山さまに会いにゆきます」

 その千尋の(いら)えを深く、錬十郎は己の内へと飲み込んだ。

 「そうか」

 残された錬十郎の片眼が閉ざされる。

 そこから涙が一筋こぼれた。

 「……だが、すまない。俺はまだ一緒に行ってやることはできない」

 「もちろんです」

 その時、錬十郎の頬に何かが触れた。

 眼を開くと、千尋の左手の細い指が錬十郎の涙を拭っていた。

 「千尋……」

 「錬十郎さま……」

 ささやくように、限りなくやわらかな声を残して。

 そのまま力なくくずおれるその手を錬十郎が掴んだ。

 神楽殿を囲む篝火台から、燃え尽きつつある焚き木の崩れる音がした。

 「浄心、頼みがある」

 神楽舞台の上から、声が呼ぶ。

 浄心は答えられなかった。

 ただ泣き(むせ)ぶ声だけしか出てはこない。

 それでも更に錬十郎の声が続く。

 「弔ってやってくれないか」

 「……あ……」

 まるで言葉にならない嗚咽しか返せずにいる浄心に向かって、とうとう錬十郎の激しい怒声が飛んだ。

 「早くしろよ! それが坊主の役目だろうが?! 泣くのはお前の仕事じゃないんだよ!」

――それは俺の。

 「まったく、お前は……他人の気持ちを晒すのも隠すのも、これまで散々お前が……もういい加減、俺の好きにさせろよ……!」

 「……わ……わかり、ました……!」

 ぼろぼろと、未だ止まる兆しもなくこぼれる涙を拳でぬぐい、浄心は立ち上がる。

 数珠を手に、天に向かって顔を上げると、震える声を限りに経を唱えはじめた。

 押し殺した(かす)かな嗚咽すらも聞こえることのないように。

 たとえ(こら)えきれずとも、誰にも聞かれぬように。

 四つの篝火が灰になる頃には、ようやく東の空が白み始めていた。


     *


 やっと(ふさ)がった右眼の傷を覆っていた布切れを錬十郎は()いて捨てた。

 わずかな荷を手に、かろうじて屋根と壁が残っていた拝殿から外へ出る。

 眩しく差し込む朝日に、残った左眼をすがめる。

 半分になった視界に靱負(ゆきえ)神社の境内が入った。

 荒れ果てた神社の敷地には、もう(せん)からずっとそうだったとでも言うかのように、神楽舞台は影も形も見えない。

 それでも塵芥(ちりあくた)のように、人々の落としていった思いの欠片(かけら)だけがまだいくつか散らばっていたのを、浄心が境内の隅へ集めて燃やそうとしているところだった。

 火をつけようとする浄心に歩みより、がらくたの中から破れた菅笠を拾い上げる。

 「あ……」

 浄心が気付き、振り返った。

 顔の右半分が隠れるようにかぶり、深く傾ける錬十郎の仕草に、おずおずと声をかける。

 「ええと……それ……」

 浄心の方を見ないまま、錬十郎が答える。

 「悪相(あくそう)になったからな。こんな(つら)(さら)していたら、道を歩くだけでも向こうから避けられるのは気分が悪い」

 「ああ……」

 浄心は小さく息をつくと、無言でこちらを見返してきた錬十郎につとめて軽く言った。

 「そういうの、気にするようになったんだ」

 「何」

 残った左眼が笠の(はじ)から(のぞ)いて睨みつけた。

 だがすぐに、浄心から目をそらす。

 「いや……」

 菅笠を外し、破れ目を見つめながら吐息と共に言葉がこぼれた。

 「――だが、こんなものではまるで足りない気がするがな」

 「え……」

 それが笠のことではないのが、浄心にはわかった。

 まだ赤みを帯び、縦に大きく右眼を潰した傷痕が浄心の目に映る。

――代償、なのか……。

 決して譲れない何かを手に入れるためではなく、それを自らの手で失うためにこそ、これほど大きな代償を支払ったというのに。

――なのに、まだ足りない気がしている……。

 それほどに深い喪失を、何かで埋め合わせてゆくことなどが果たして出来得()るものなのか。

 それとも、このまま抱えて生きるのか――。

 だが、浄心はわざと気付かぬふりで言った。

 「自分のことなんか何も知らない奴のことなんて気にするなって、錬十郎さんが言ったんじゃないですか」

 その答えに、どこか虚を突かれたかのように錬十郎は浄心を見たが、何も言わずにまた目をそらした。

 「……それで、本当に長船には残らないんですか?」

 集めた残骸に火が燃えうつってゆくのを見ながら、浄心が問う。

 「とりあえず、和気(わけ)へ行く。あそこには伯父上の弟子がいるからな。なんとか一振り手に入れられるよう、頼んでみるつもりだ」

 その答えに、再び気遣うように浄心が見返してくる。

 まだこれ以上、何と戦うというのか。

 聞こえたはずもない浄心の懸念に応えるかのように、錬十郎が口を開いた。

 「軽過ぎるんだよ、左の腰が。丸腰の俺など、裸でいるよりよっぽど心許(こころもと)ない。それだけだ」

――心許ないのは……。

 問いかけようとして、浄心は口を閉ざす。

 ()くした刀は、また手に入るだろうが。

……いや。

――俺はまだ一緒に行ってやることはできない。

 もう決して取り戻せない欠落を(いだ)いて、それでも歩き続ける覚悟は、錬十郎にはとうにできていたのだ。

――私なぞが心配するまでもないんだ。

 「お前こそ、どこへ行く」

 浄心の足元に置かれた小さな頭陀袋(ずだぶくろ)を見ながら問うた錬十郎に、浄心はあっさりと答えを返した。

 「もちろん帰ります。延台寺(えんだいじ)に」

 「……なに……?」

 思いもよらない浄心の返答に一瞬、錬十郎の言葉が詰まる。

 「……お前を追い出した寺だろうが」

 「状況が変わったんですよ。阿智(あち)でも、ここまでの道中でも噂が持ちきりで」

 不信さを拭えずにいる錬十郎に、浄心は得意げに言葉を続けた。

 「瑜伽(ゆが)は古来よりの神仏習合で、神社も一緒にあったんですが、ご住職が以前から仲の悪かった神職の御兄君と大喧嘩して、とうとう神社が出ていってしまったんですよ。と言ってもすぐ隣に移っただけなんですが。それで、普段から神がかり気味の兄君と違ってご住職は学識は高いが加持祈祷はからっきしで、お参りにくる人はどんどん神社に取られてしまって。内情がかなり苦しくなってるらしいんですよ。だから、そういうのに強い私が戻れば、寺はもう受け入れるしかないわけですよ」

 「そういうのって、お前……」

 滔々(とうとう)と浄心が述べたてる目論見に、錬十郎は呆気(あっけ)に取られた。

 「お前のそれは全然違うだろうが」

 「だから、もうそんなのどうだっていいんですってば」

 言葉を返せずにいる錬十郎を前に、浄心は両手を腰に当て、ふんぞり返って言ってのける。

 「お寺に行けば、それらしきお坊様がいらっしゃって、それっぽいことを言いながら摩訶不思議なことを起こしてみせてくれて、それを見た人々は恐れおののくなり、あきらめるなり、(けむ)に巻かれるなりして帰っていただく。それでいいんだってことは、もうお寺ではわかりきっているんですよ。だったら私がうってつけじゃないですか。大手を振って帰参してやりますよ」

 「……わかった。もういい」

 毒気も何も抜かれたかのように、錬十郎は憮然として言った。

 「ならもう俺がついていく必要はないな」

 錬十郎が、聞こえないように溜め息をついたのが浄心には聞こえていた。

 「……はい……?」

――ついていく必要があって、来ているつもりだったんだろうか。

 藤戸か、阿智か、それともまさか伊予桜井から……。

 再び錬十郎は菅笠を深くかぶり、顔を隠した。

 「俺は行く」

 「……ああ、はい……」

 思ったほどの返答も見せぬまま去ってゆく錬十郎に、浄心はやや拍子抜けしつつも見送る。

 「さようなら……」

 その背に別れの言葉をかけても、手を挙げて(こた)えることすらもなかったが。

 「……全く、お前は」

 ぽつりとこぼれた声が、耳に届いて。

 「えっ?」

 ふと立ち止まり、顔だけを振り向いたのが菅笠の破れ目からわずかに覗く。

 「(あき)れて物が言えん」

 ふっ、と少しだけ口の()が上がって、だがまたすぐに深く傾けた笠の下に隠れる。

――あっ。

 浄心は、その時初めて錬十郎が笑ったのを見た気がした。

 だがもう本当にふり返ることなく、錬十郎は浄心の前を去っていった。

 全てのがらくたが燃え尽きるのを待って、浄心も頭陀袋を拾って首から下げる。

 錬十郎の背中はもう、とうに見えはしない。

 靱負神社の荒れた境内を歩くうち、今はもうどこにもない神楽舞台のことがふと頭に浮かぶ。

 今様の調べが何気なく、口をついてこぼれた。


遊びをせんとや生まれけむ

(たわぶ)れせんとや生まれけむ


――ええと、それからなんだったっけ。

――そうだ。


(いと)しき人の声聞けば

我が身さへこそ……



        (流刃秘抄 終)





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