終幕
真っ青に晴れ渡った空を、2羽の小鳥が戯れるように飛んでいる。立ち止まり、窓からそれをぼんやり見ていると、私を呼ぶ声が聞こえた。
「ヴァレリー。おはよう。今日会うのは初めてだね」
そう言いながら、セレスタン様が階段から降りてくる。セレスタン様の優雅さは、自宅であろうと変わらない。ただの日常生活でも絵になるのだから、社交界でもてはやされるのは当然なのかもしれない。
警吏部の人間であるセレスタン様は、厳しいところもあるけれど、優しくて不器用な人でもある。
「おはようございます、若君。今日はこれからお仕事ですね。お気をつけて」
「うん」
階段を降りきったセレスタン様は、黙って私を見る。何か言いたそうなのに、言おうかどうか迷っているような。そんな顔をするなんて珍しい。
「どうかしました?」
「いや、ね……。ヴァレリーはこれで良かったのかなぁって。王太子殿下の護衛をやめて、うちの使用人兼騎士になるなんて」
その事ですか、と私は笑う。リディが私の家にやって来た翌日、私は殿下の護衛を辞した。リディへの想いを、すべて打ち明けて。既に話を聞いていたのか殿下は何も言わず、黙って頷いただけだった。
「あのまま殿下のお側にいられるほど、肝は座っていませんよ」
この事に関して、望まぬ結果になってしまったけれど、悔いはない。
そして、そんな私を受け入れてくれた、この家の方たちには感謝している。セレスタン様は、私の言葉に小さく笑う。
リディが倒れて一夜開けた後、真っ先に向かったのは、この方のところだった。あの日もセレスタン様は、こんな風に笑っていた。寂しそうでいながら、愛しそうにリディを見つめて。気づいてやれなくてごめんね、と。
「……リディは、ただ婚約解消しても意味は無いと知っていた。だから、君が絶対に取るだろう道を選んだ。つまり、自分の側にいてくれる道を」
「ええ。分かっています。婚約解消したところで、私が頷くとは思っていなかったでしょう。けれど、目の前であんな事になれば、私は放っておく事なんて出来ません。リディにはお見通しでしたね」
「ごめんね。あの子、たまに突拍子もないから」
「いえ。私もリディと同じでした。もしもあの夜のリディが本気だったなら、今より悪い結果になったかもしれません」
そっか、と頷いた後、セレスタン様は真剣な顔で言った。
「この先、これは君たちが企んだ事、なんて言う者も出てくるだろうけれど、それでも君は幸せ?」
その質問の答えは、ひとつしかない。私にとって、リディ以上に大事なものなんてないのだ。でなければ、殿下を裏切るなんて事が出来るはずもなかった。
「リディの幸せが私の幸せです。私は側にいられるだけでいいんです。それ以外に望む事はありません」
「そっか。リディをよろしく」
私の言葉に満足そうに笑って、手を振り去っていく。頭を下げてそれを見送り、私も歩きだした。
「ヴァレリー・エリク・プレオベール。ただいま参りました」
扉の前に立って名乗ると、扉が内側から自然と開く。
その部屋の壁紙は爽やかな青で、家具はオーク材で統一されている。そして窓際の椅子に、リディが腰かけていた。私が部屋に入れば、たちまち笑顔で駆け寄ってくる。
「ヴァレリー! やっと来たのね。待っていたのよ」
抱きついてくるリディを抱き止めながら、私は苦笑する。
「悪いな。まだまだ新人なんだ」
「真面目なんだから、ヴァレリーは。私が10年も眠っている間に、すっかり大人になったのね」
「君もそうじゃないか」
リディは、時忘れの水薬によって記憶を失った。けれど、それはすべてではなかった。ただ本人には、魔法に失敗して眠っていた、と伝えてある。
「まったく実感がないのだけど。ねぇ、今日は何をして遊ぶ?」
そう言って、リディは少女のように笑う。そう、リディは少女なのだ。
この先ずっと、永遠に。リディの時が進む事は、もう、無い。
「そうだな……。庭でも散策するか。昔みたいに」
「いいわ。そうしましょう!」
それでも、側にいようと決めた。
それが私にできる、彼女への唯一の償いであり、贈り物だから。
◇◇
その日の夜、明日の予定の確認のために私が殿下の部屋を訪れると、殿下は窓際に腰かけて、外を眺めていた。近くの机には書類が散乱していて、思わず苦笑しながら覗きこむと、リディアーヌ様との婚約解消が成立した旨の文書。
それには、現在のリディアーヌ様の状態も書かれてある。
「……時忘れの水薬、か。ベアトリス殿は何故渡したのだろう」
殿下は窓の向こうを見つめたまま、独り言のように口を開く。今の殿下の心境がどのようなものか、私には推測する事しか出来ないけれど。おそらくは、自分を責めていらっしゃるのだろう。自分と婚約しなければ、こんな事にはならなかったのに、と。もしくは、決定したのは殿下では無いのに、自分があの二人を引き裂いてしまったのだ、かもしれない。
「ベアトリスなりに、リディアーヌ様を思っての事でしょう。別れる時は、笑顔だったそうですよ」
書類を纏めながら言うと、こちらを向いた殿下は自嘲するように笑って言った。
「そうか。リディが記憶を消す薬を求めていた事も、私は気が付かなかった。というか、よく渡したな。毒薬では無いにしろ、いいのか?」
「毒薬を渡すような真似、ベアトリスはしません。ですが、──わたくしは渡しただけで、飲むか決めるのはお嬢様だもの──。そう言っていましたよ。一応厳重な封を施したそうですから、それを破って飲んだのならば、それが本人の意思だ、とも」
見る人によれば、それは冷たいと思われるのだろうけれど、ベアトリスはきちんと、自分の責任も理解している。理解した上で、リディアーヌ様にとっての幸せを、本人に選ばせたのだ。
「……なるほど。確かに意思は固かったのだろう。自分の記憶を消してまで、ただひとつを求めていたのだから」
「殿下、一つ訂正を。時忘れの水薬とは、記憶を消す薬ではなく、留めるものなのですよ」
「留める?」
「ええ。ある程度の記憶を失うのは確かですが、すべてを消すのはただの失敗作です。時忘れの水薬は、記憶の時間を止める、と考えた方がよろしいかと。今のリディアーヌ様のように、時間を遡り、そこに留めるのです」
「それで時忘れか。効果が切れる事は無いのか?」
「誰が作ったとお思いで?」
私はそう言いながら、先日ベアトリスと交わした会話を思い出した。
『──ねぇ、ランベール。もしもわたくしが、別の誰かと結婚すると言っていたら、あなたはどうしていた?』
『何ですか突然。そんなの決まっているではありませんか。殺しますよ。あなたを。そして私も死にます』
『なにそれ。怖いんだけど……。けれどそういう事ね。お嬢様は、他の誰のものにもなりたくなかったの。けれど死ぬ勇気はなくて。記憶を消せばいいと思ったのね。記憶を失ってしまえば、本人には無かったのと同じ。お嬢様は、王太子殿下と婚約なんてしなかった。それだけならまた同じことになる可能性もあったけれど、その時はルージュが死んだ事にでもしたでしょう。ルージュは全面的に、お嬢様の想いを優先する方を選んだから』
『何故、時忘れの水薬を? 彼女の望みに反するのではありませんか?』
『わたくしからの贈り物。お嬢様にも言わなかったけれど。すべてを忘れるのは、悲しいわ』
『あなたには、忘れた方がいい記憶があるのでは?』
『いいえ。悲しかった事も辛かった事も全部、わたくしのものよ。まぁいずれにしても、話し相手がまた一人減ってしまったわね』
『あまり残念がっているように見えませんが?』
『あなたはいつも一言余計なのよ。腹が立つわ』
『それでも私が好きでしょう?』
『……悪かったわね。それで、婚約解消の理由は決まったの?』
『今回の婚約解消は、リディアーヌ様のご病気という事になります。あなたは、リディアーヌ様がこれで幸せだと、思っていますか?』
『少なくとも、お嬢様にとっては。お嬢様はね、記憶を失った自分を、ヴァレリー殿が決して見捨てないと知っていたのよ。お嬢様にとって、これ以上の幸せがある?』
「……私は、まったく彼女の心を知らなかった。ヴァレリーの事も、何も」
寂しそうな顔でそう呟く殿下に、ベアトリスの言葉を正確に伝えるのは、酷というものだろう。勝負する前から負けていた、というか、そもそも勝負にもなっていなかった、と知るには殿下はまだ幼い。
リディアーヌ様にとって一番大事だったのは、ヴァレリーの言葉だけ。しかしそれを気づかせなかったのは、流石としか言いようがない。
「それは仕方がないかと。私でさえ見抜けなかった事を、殿下が見抜けるとはとても……、おっと失礼。口が滑りました」
「お前のそれはわざとだろう。そして、その通りなのが気に食わない」
わざとらしい私の態度に、殿下が僅かに笑いながら言う。ぎこちなくも笑えるのは、いい傾向だ。殿下にはこれから先、多くの困難があるだろうから。ここで自棄になられては、目も当てられない。
「まぁ、よろしいではございませんか。また新しい婚約者を選ぶだけです。年下と言えど、聖五家のご令嬢。しっかりされているはずでしょうし。どうせなら、リディアーヌ様をこっそり愛人にしても構いませんよ」
「それは断る。彼女は今、一番幸せなんだ。それを奪うのは、彼女の意に反する」
落ち込んでいる割にそう考えられるのは、殿下の美徳だ。国王となられるからには、清濁合わせ呑んでもらわねば。
ある意味これは、いい経験になったのではないだろうか。
「大人になりましたね。陛下のように、いつまでも、亡くなった薔薇姫に執着するよりは、よっぽどよろしいかと」
「その言葉、人前では口にするなよ。陛下はまだ、薔薇姫が生きていると信じている」
「承知しておりますとも」
フフフ、と笑えば、殿下はしょうがない奴だな、とでも言いたげな表情で肩をすくめ、窓の向こうへ視線を戻す。私も同じように視線を向ければ、今しがた登り始めたのであろう月が、淡く大地を照らし出しているのが見えた。